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 蝉の声が途絶え、鈴虫の羽音に変わり、ふわりふわりと雪の名を持つ虫が宙を漂い始める頃、色付いた葉が舞う中庭で少年は黒い髪を梳かれ心地良さそうに目を細めていた。少年の背後に立っている青年は困ったように微笑しながら手元に視線を落とし手を動かす。

「折角やわらかい髪なのだから、ぞんざいに扱ってくれるな」

「ふふ――あなたが手入れしてくれるから問題ないじゃないですか」

伸びた髪を、肩にかからない程度の長さまで切る。パラパラと切り落とされた髪が落ちていく。それを名残惜しそうな眼で追う青年に気付いたのか――それとも偶然か――少年が微かに顔を上げた。突然動かないでくれ、と優しく咎める青年に、少年は笑って謝罪する。そして背後の青年にもたれかかるように頭部を後ろに引く。トス、と小さく髪と服が擦れ合う音がして、青年の胸の少し下の辺りに少年の後頭部が収まる。髪に触れていた手が止まり、少年の顔に影がかかる。青年が、上から覗き込んでいた。

「――今日は、どうした?」

やさしい年長者の質問に、少年は口元を綻ばせて答える。

「なんでも。ただ、こうしてみたくなっただけです」

かかっていた影が引いていくと同時に、そうか、とやはりやさしい声がする。丁度その時、サァと風が一陣通り抜けて行った。少し軽くなった髪が揺れて、少年の肌をくすぐった。

 陰と陽。身を置く場が違っても、そのふたりは比較的仲が良かった。頻繁に、という程ではないが、それでもよく顔を合わせていた。まるでともだちのように――否、実際ともだちだったのだろう。閉ざされた世界の中で気を許せる者という位置付けだったのだろう。

 寒い日だった。吐く息が白くなり、いつも元気な兄弟たちもその朝は渋々布団から這い出たような日のこと。兄弟たちが目覚める時間よりも早い刻、少年は青年の元を訪ねていた。身体を温めようと走ったおかげで赤くなった耳や鼻を気にせず青年の名を呼ぶ。少し離れた場所から聞こえた返事の方へ勝手知ったる様子で歩いていくと、そこには井戸で水を汲んでいたらしい青年が水の入った桶を抱えて立っていた。おはよう、と言う青年に少年も、おはよう、と返す。まだ雪は降っていないけれど、もう降ってもおかしくないくらいに冷え込んでいるなんて他愛のない話をしながら澄んだ朝の空気を共有する。短い間だが安らげるひと時を、少年は大切にしていた。ぽつぽつと置かれた鉢植えに水をやって回る青年の後ろを歩いて行くと、最後にあまり高くはない樹に辿り着く。鉢植えではないせいか、周囲を気にすることなく青年は残りの水を撒き始めた。キラキラと宙を飛んだ水滴が、地面に落ちて初めて消える。乾いた土を濡らし、名残だけを残して失せていく水を眺め、青年と幾つか言葉を交わして少年は兄弟たちの居る場所へ戻る。

 数日後、いよいよ雪が降り、そして積もった。きれいだ、と少年は胸を高鳴らせ息を弾ませて青年の元へ走る。青年もきっとこの景色を見ているだろう。世界を覆う白銀を眺める青年の顔を見てみたい、と少年は足を動かす。青年の名を呼びながら、少年はいつか青年の肩ごしに見た背の低い樹がある場所に辿り着く。ヒョコリと顔を覗かせた少年は、探していた背中を見つけて口元を綻ばせた。

「来ると思っていた」

振り向かずに青年が言う。えぇ、と答えながら歩み寄って行くと不意に青年が左半身を少年の方に向けた。青年の身体で遮られ見えなかった向こう側が見えるようになると、そこにあったものが少年の目に飛び込んでくる。それは鮮やかな紅色だった。雪の白さだけがただ眩さを放つ、色味の乏しい風景の中でひたすらに鮮烈な色。

「落ちる前に見せることができて良かった」

焼き付けるように咲いた花を見詰めている少年に青年が言った。数日前に花開いたのは良いものの、樹である以上少年が来るのを待つしかなかった、と。呼んでくれればよかったのに、と少年が紅を見詰めたまま言うと青年は、それだと面白くないだろう、と微笑した。

 あれからも手入れを続けていたのだろう、綺麗に咲いた紅い花は積もる雪の重さに俯きながらも深緑の狭間から艶やかに顔を覗かせている。

「――きれい」

無意識に口をついてそんな言葉が出た。静かな景色の中に溶けて消えていく。日々繰り返す厳しい修行の中で磨り減った何かが満ちていくような気がした。兄弟にも見せたいな、と思い――けれど少しだけ、このままふたりだけの思い出にしたいとも思った。ふと盗み見た青年の横顔はひどく穏やかで、きれいだった。

 次に少年が訪れたとき、あの日見た紅はすべて消えていた。樹の傍に青年が屈んで、何かを拾っている。近付いてみると、青年は紛うことなくあの紅を拾い集めていた。花弁を宙に舞わせて散っていくものが花だと思っていた少年は、咲いていたそのままの姿で樹から落ちた紅に驚いた。まるで最後まで己で在ろうとするようにも見えた。それを、青年は大事そうに一つ一つ拾い上げている。冷たい土の上から紅が骨張った優しい手に掬い上げられていく。

「もう殆どが落ちてしまった」

「……寂しい?」

すっくと立ち上がった青年の背中に問いかけると、フフと言う控えめな笑い声が返ってきた。それから、両手に数個の紅色を乗せた青年は少年を振り返る。

「茶でも飲んでいかないか」

断わる理由を、少年は持っていなかった。

 まだ場所によっては薄暗い屋内へ足を踏み入れると、青年はまず手を洗いに行く。硬いタイルに覆われた水場の片隅に、先程青年が拾い集めていた紅が纏めて置いてあった。ものによっては花弁の色が褪せてきていた。そこに今日の分を加えた青年の手を、少年はパシリと掴んだ。ポロポロと青年の手から紅色が転げ落ちていく。触れて初めてその手の冷たさを知る。薄く土で汚れた手を握る少年を、丸い双眸が映している。

「――手が汚れるぞ?」

青年の双眸に映っている少年は掴んだ青年の手をまじまじと眺め、そして、ギュッと握った。自分の手で相手の手を温めようとするような仕草に、青年は目を細めてフと息を吐く。トキ、と少年の名を呼ぶ青年の声に、祈るように伏せていた顔を上げた。

「……トキ、痛い」

困ったように笑う青年の顔が少年の目に映る。

「あ――その、えっと……ごめん、なさい」

少年が慌てて手を放す。掴んでいたものを手放した手は、掴んでいたものの汚れを僅かに纏い宙を所在無さげに彷徨った。今度は青年の手が、少年の手を捉えた。

「でも、温かかったよ」

手を取り合い頬を寄せ合って、ふたりしてフフフと肩を震わせた。初めて会った時よりも低くなった声に、伸びた背丈。丸みを帯びていた身体の線も引き締まっていき、しなやかな筋肉が薄い皮膚の下で息づいている。ゆっくりと大人になっていく互いは、きっとずっと先になってもこうして時々顔を合わせて笑い合っているのだろうと、何の確証も無く思った。

 それはふたりが大人になり、青年の目が光を失っても揺らぐことはなかった。大人になった青年の身の回りの世話もしながら、大人になった少年は彼の怪我の具合を見る。その目は何も映さない。目の前にいる者の姿はもちろん、いつかのように降り積もった雪景色を見ることもない。あの日その手で拾い集めていた紅色も見ることはない。自分が彼の光になれれば良いのに――と思ったが、彼の光は彼が救った弟なのだと知っている少年だった男は今自分が独占できている彼で自分を宥める。こうして彼の傍に居られるのは、自分だけなのだから。

 机の上に置かれた薬の器を手に取って声をかける。

「そろそろ包帯を変えようか」

寝台に腰掛けているひとは声のした方へ顔を向けて笑う。

「そうか。すまないな、毎回」

「謝らないでくれ」

巻かれていた包帯を解き、傷の具合を見て薬を塗る。塗り終わるとその手はそのまま肌をなぞり始めた。頬、唇、顎を辿る指のこそばゆさに肩を揺らすと動きが少し止まり、また動き始める。首から肩へ降り、以前のように身体を動かせない分細くなったように思える腕から指先へ。触れ合った手を、どちらともなく絡め合えば、自然とふたりの距離は縮まった。

 あの頃と同じことをしているはずなのに、ふたりの間に横たわる空気はあの頃と違い艶めいたものだった。場違いな、と頭の冷静な部分がわらう。けれど身体は動いていた。拒まぬ相手と止めぬ自分が可笑しい。あの頃よりも近く頬を寄せ合って、そのまま唇を合わせる。絡んでいた指は解け、互いの身体に触れていた。片手で支えながら寝台に横たえた身体を見下ろせば、己とは無関係だと思っていた征服欲が満たされていくような感覚。不安げに伸ばされた手に応えるように身体を沈める。憧憬が慕情に変わった時など憶えてはいない。部屋の外、他の場所で待つひとたちには悪いが、譲る気はなかった。寝台の軋む音と、衣擦れの音が部屋に広がっていった。

 空を舞う鳥たちの眼が届かない場所で、朱と白が交じり合う。

 小鳥の囀りが聞こえたと思えば、小さな翼が羽搏く音が聞こえた。暖かい日差しに男の目蓋がゆっくりと開かれる。視界には優しい青と緑が飛び込んでくる。見慣れてしまった、荒廃した世界では考えられない風景に、あぁそういえば、と思い出す。そういえば、自分は――と思い出に耽っていたところで、サヤと吹いた風に色の抜けた白練の髪が踊った。何か、肩の荷が下りたような気がして息を吐くと、背後で誰かが笑う気配がした。ハッとして振り返ると、そこには案の定、自分よりも先に逝っていた盲目の白鷺が立っていた。気高く凄絶な最期を遂げたとは思えないほど穏やかな表情、姿。仄かに青みを帯びた銀の髪が風に揺れている。あ、と声を上げて立ち上がった男は堪らず相手の身体を抱き締めていた。

「あぁ――会いたかった……会いたかったんだ。またこうして、あなたに触れたかった……!」

小さな子供のように縋る男の背を懐かしい手が優しく叩く。

「私もだ。会いたかったよ……髪も、だいぶ伸びたな」

「あなたの髪も。懐かしい――全然変わっていない」

たっぷり数分は温もりを分け合っていたが、ふと男が身体を離し、真っ直ぐに相手を見た。そうして、思い切ったように言葉を発した。

「今、此処で、キスがしたい」

あまりに真剣な声音でそんなことを言う。訊かれた者は小さく噴き出して、眉尻を下げた。

「それを、私が断わるとでも?」

再びふたつの影がひとつに溶ける。あたたかな温もりが、ただひたすらに心地よかった。

 並んで腰を下ろし、ポツポツと話したかったこと――今までにあったことを、ふたりで辿る。中身は必然的に連絡を取れなかった間のことや、最期のことが中心となった。殊、灰青の髪の男の最期となると白練の髪の男は苦い顔をする。何故あんな無茶を、とか、いくら星の導きと言っても、とか呻いて、悶々とする。当の本人が別段気にした風が無いにも関わらず、である。ふと、白練の髪の男の肩に灰青の髪の男の頭が乗る。より近い距離になった懐かしい顔。

「あなたは――昔から何でも一人で背負い込み過ぎる」

「そうだろうか?」

「……私の兄弟は不器用だが、あなたもあなたで不器用なひとだ」

「それはお互い様だろう」

しょっぱそうな表情を浮かべる顔と穏やかに緩んでいる顔は、次いでほぼ同時に揃って噴き出した。そして、ふ、と肩に乗っていた重さが消えたことを、惜しいと思った。甘えることはもちろん、甘えるような仕草を見られることはレアであると言うのに。けれどそんな内心を悟られぬよう、男は真面目な顔を作る。

「ふふ、こうして叱られるというのは新鮮だ」

「遊んでくれるな。ひとが悪い」

「お前だからだ……もし私が間違えても、同じように叱って欲しい」

「さて。あなたのことだ、間違えることがあるのやら」

「買い被らないでくれ。あまり出来た人間じゃないんだ。知っているだろう?」

フイと視線から逃げるように微かに逸らされた顔に手を沿え、目元を撫でる。空白が一拍。それから流れを切るように、男が口を開いた。

「これからはどうする? 何か、したいことなんかはあるのか?」

「此処でなら大抵叶うだろう――幕は既に降りているからな」

それなら、といつかの少年のような無邪気さで男が言った。

「あの花を育てよう。私たちが小さかった時、冬に花を咲かせていたあの花を、今度はふたりで」

「構わないが、私は――」

「きっと見える。幕はもう降りているんだろう? なら、見えてもいいはずだ」

相手が言い終わる前に言った声の、力強さ。それは病を患う前、快活に身体を動かしていた少年の声。それだけで十分だった。目蓋を閉じた男は、あぁ、と頷いた。心なしか、暗く閉じた視界の向こうが白んでいるような気がする。

 仲良く並んでいるふたつの背に、賑やかな喧騒が突撃してくる直前、というところ。空を舞う鳥たちの目の届かない場所を確保しなければ――と人知れず思う男がひとり居たのであった。

​BGM:カメリア(天野月子)

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