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廻転する孤独は幾度弔鐘を聞く

 夢から覚めて、はたと思ったことがあった。

 考えたことも無かった。否、考えたくは無かったから。自分が何者で、どのようなものなのか知ることが怖かったから。誰かの、何かの妄想の産物だとは思いたくなかった。この世界が、誰かの見た夢だと。自分たちが、誰かの見た夢の中で生きる記号だとは思いたくなかったから。誰かの意思で踊る操り人形などでは無くて、自分たちは自分たちであると。民に呼ばれて求められて生まれ、民と共に消えていく。そういう当たり前の存在だと、揺るぎの無い存在なのだと、確信していたかった。

 神と人間に対する責任を自覚し、合一されたこの地域における同権をもった一員として世界の平和に奉仕せんとする意思に満たされて、その憲法制定権力にこの基本法を制定した。という言葉からはじまる根本規範を持つ国で、その国を愛していると高らかに言うことは憚られている。生まれた土地、場所にも関わらず、だ。少し前までなら、それはごく当たり前で普通のことだと、人々は言っただろう。元は別の国の名の下に生まれたものたちですら、その国をつくるものの一部だと思ったものたちもいるし、また実際にその国に溶け込んでいった。にも関わらず、その国を愛していると叫ぶことは躊躇われている。ひとのいない場所で叫んでいるものも、いるのかもしれない。もちろん嫌悪しているものもいるだろう。それはその国へのものであり、その国をつくったものへのものでもあるのかもしれない。何にせよ、公然と愛されることを捨てた国はたしかに在った。それだけのことをしたのだと、それ自身もわかっていたからそれに文句を言うことは無かったけれど、それでも他のものが自身にかけられることのない言葉を当たり前にかけられているのを目にすると、少しだけ胸が痛んだ。個人的に言われることは、もちろんあるけれど、それでも報道機関にそれが見つかってしまえば何と言われるか、考えたくもない。たった一言で大切なものの歯車が狂ってしまうのならいっそその一言を胸の内に留めておいてほしい。そんな、相反するこころ――自分たちのような存在が持っているなんて――を抱えながら、今日もその国という存在は世界の一部として在るのだった。

 お前はきっと知らない。ほんの、一寸だって気付いていないだろう。それでいい。知らなくていい。気付かなくていい。今のままでいい。それがしあわせ。それがよろこび。お前はそのままでいてくれればいい。

 はじまりは遠く永く遡る。まだひとびとが剣を持ち馬を駆け土地という土地を奪い合っていた頃まで。そんな場所がはじまり。そのはじまりの場所に、彼はいた。一番古い、目を開けて最初に見たものを、風景を記憶を、曖昧にしか覚えていないけれど、彼はひとり剣を振るうものだった。ただひたすらに剣を振るい他を薙ぎ己のためだけに世界を臨むようなものだった。世界でいちばんだと思っていた。自分と、それ以外。彼の世界はそんな構造をしていた。まわりもそれを知っていたから、彼に必要以上に近付くようなことはしなかった。見ればいつでも唇を引き結んでいる彼の機嫌を損ねてうっかり首に物騒なものを突き付けられる、なんていうことは御免だったから。まわりは彼と近く遠く距離を持っていた。つまるところ、彼はどこまでもひとり剣を振るうものだったのだ。けれど、やはり彼も他と同じものだった。たくさんある個の、ひとつに変わりなかった。そんな彼に転機が訪れたのは偶然だった。いや、必然だったのかもしれない。

 ふっくらとした、白いものがこちらに伸びてくる。それに眉を顰める彼の、その表情は穏やかなその場にとても不釣り合いな表情だった。ちゃりと金属の擦れるちいさな音。もしもその場に彼を知るものたちがいたら、そのものたちはきっと顔を蒼くしていたことだろう。それくらいの表情だった。ちいさく唸る。ふっくらとした白いものは相も変わらず彼の方に伸ばされていた。ときどき空を掴むように動かされるそれは降り注ぐ光に透けるようだ。きれいだと彼は思った。彼と比べてとてもちいさなそれを、彼は指先でちょいとつついてみる。ふにゃりと、つついた場所がへこむ。見た目通りの、やわらかさ。しろくてやわらかい。口に入れたら、甘いのだろうなと思った。思っていると、それが彼の指を掴まえた。ちからなんかは微々たるものだったけれど、彼はそれを振り払うようなことはしなかった。できなかった。あたたかい、やわらかい感触。触れ合う指先にほんのりと熱が灯る。じんわりとあたたかい。どこが。また、ちいさく唸った。彼の目が、ゆるりと弧を描く。ふっくらと白いものに手を伸ばして、それを持ち上げる。青い空を背景にしてそれは笑う。己を持ち上げているものに手を伸ばすそれを彼はどう見たのか、なんて彼を見れば明らかだった。笑っていた。それはそれは、うれしそうに目を細めて。今まで世界を自分とその他のふたつに分けて見ていた彼が、それを何と振り分けたのかは後々わかることになるのだけれど、彼がそれを自分の元に置いておくとしたことを知った、まわりのものたちは彼を丸くした目で見たり気味悪がってみせたりした。

 それを拾ってから彼は自分の目の届くところに置いていた。そこは大きな彼の屋敷だった。彼自身は相変わらず剣を振るい馬を駆け土地を奪ったりということを繰り返していたから、その屋敷にはあまり居なかったのだけれど、それでも現地から屋敷に帰って来るとそれの顔を見に行っていた。清潔な服を買ってやったり美味い食事を与えてやったりやわらかい寝床を用意してやったりして、上等な生活をさせる程度に彼はそれのことを大切にしていた。逆に、それもまた彼のことを少なからず気に入っているようだった。まだ彼の用意した寝台から起き上がることはできないようだけれど、彼が部屋に入って来るとそちらの方に視線を向けるのだ。彼の方というか、それは音のした方に視線を向けるのだけれど、それでも、彼に撫でられたりすると気持ち良さそうに目を瞑ったりした。彼はそんな反応をまわりのものが見たことも無い表情で見ていた。そしてもっとそれを見ようと、つついたり撫でくり回したりを繰り返してみた。不思議と泣かれることは無かったのだけれど、あまりしつこくすると徐々に飽きていくらしく、反応は薄いものになっていった。彼は何度か繰り返すうちにそれを学習した。しつこいのはお好きでないらしい。結果として、彼はそれを観察することになることが多かった。いっちょまえに、なんて思ったりもしたが、不快感を覚えることはなかった。今日もまた嵌めていた手袋を外して、シーツに埋もれているそれの頬を撫ぜてやる。無垢な寝顔と触れ合っている素肌がじわりとあたたかくなった。と同時に自分の赤に塗れた手と、触れている白くやわらかな頬。ふたつは対照的で、相容れることのないものだと思った。彼の顔が歪む。まろい頬の上を滑っていた手が微かに震えた。その震えが伝わったのか否か判らないけれど、ふるりと閉じられている薄い目蓋が震えた。起こしてしまっただろうかと、彼は反射的に手を引っ込める。寝台からも、僅かばかり身体を離して様子を見ていると、ゆるりとその目蓋が持ち上がった。やはり起こしてしまったようだ。ゆるゆると緩慢に瞬きをして、それは彼の方を見る。彼はバツが悪そうに頬を掻く。しかしそんなことは気にしていないようで、それはふにゃりとわらった。彼は泣きそうになる。ふらふらと寝台に近付いて、ちいさなからだをぎゅうと腕の中に閉じ込める。腕の中のぬくもりが心地良い。ちいさくみじかく湿った吐息が漏れた。白いシーツに灰色の影が落ちる。それはなぜだろう。

 川でさかなを見た。ちいさな川でのことだった。現地から屋敷に帰る途中の、道のわきに流れている川にさかながいた。おおきなものと、ちいさなもの。きっと二匹は親子か何かだったのだろう。市場でよく見かけるような、地味な色の、決して珍しくはない種類のさかなだったのだが、その時の彼にはそのさかながとてもうつくしいものに見えた。そしてその日、初めて寝台に乗っているだけだったちいさな拾い物が寝台の外を知った。寝台から出て、よたよたと進む危うい足元を気遣いながら彼はそれを見つめる。決して彼に助けを求める手を伸ばそうとしない姿勢に感心しながら、どこかではその手を伸ばしてはくれないかと思っていた。結局、そんな彼に手が伸ばされたのは最後の最後で、遂によろめき倒れそうになった時だけだった。けれど彼はそれだけでも十分だった。

 その後も彼はひとり剣を振るい続けていた。しかし、剣を振るうその目的はいつの間にか自分のためというものから、ちいさな拾いもののためというものに挿げ替わっていた。ちいさな拾いものは、まだまだちいさくやわらかいものだったから多くのものに狙われた。彼はそんなものたちを端から睨みつけて、彼らに牙を剥くようなものには嚼みついていった。ちいさな拾いものを護るために、だった。実際、ちいさな拾いものに手を出そうとしたものは悉く彼によってひどい目に遭わされたという。護られている、当のちいさな拾いものは、彼が屋敷に帰って来るたびに、どこか泣き出してしまいそうな目で出迎えた。彼がその理由を訊いても頑なに口を閉ざすものだから彼は訊くのを止めた。これは訊いても答えてくれないだろう、と判断したからだった。それと同時に無理に聞き出すというのもアレだろうと思ったのだ。拾った頃と比べれば随分大きくなったけれど、彼からすればまだまだちいさな拾いものは今日も眉を寄せて、帰ってきた彼を出迎えた。細く白い手を伸ばして硝煙と鉄錆の臭いを纏い薄汚れた彼を、かつて彼にそうされたようにぎゅうとする。ほのかにあまいにおいが、彩度の低いにおいの中に溶けていく。汚れてしまうと思ったが、背に回された手や身体に押し付けられる四肢がどうにも心地よくて、彼はぎゅうと返した。指先はこわれものを扱うようにちいさく震えている。こわれてしまわないように。こわしてしまわないように、できるだけやさしく。そんなに簡単にこわれてしまうなんてことは、無いのだろうけれど。

 数年が流れて、世界は比較的大きな転換期を迎えていた。彼はその中心だった。かのものが何処かへ消えてしまってからバラバラに、好き放題していたやつらをまとめあげて、いけすかない坊ちゃんを黙らせて、準備を着々と進めていた。あの日拾ったちいさな拾いものはゆっくりと、しかし確実に成長していた。ふっくらと丸かったものも、今ではすらりとしなやかに伸びて、顔つきもあどけないものからキリリと凛々しいものになっている。背だって伸びた。自分の足でしっかりと立って歩くこともできる。多くの知識を蓄え、物事を深く思案して発せられるその言葉は、彼と共にある人々のものの中に混じっていても違和感を感じさせることはなかった。しかし彼にとってはまだまだかわいいもののようだった。けれど期は満ちた。やけに煌びやかな宮殿の中を闊歩する彼はにやりと口角を上げる。かつんかつんと、堅い床と彼の靴底が一定の間隔で音を奏でる。外はまだ騒がしく、外と内とを隔てる硝子を覗けば、遠目に黒い煙や揺らめく赤が見えた。宮殿の周りも心なしかぼんやりと薄い砂色のフィルタがかかっているように見える。かつん、と靴音。振り返ると、この宮殿や大きな川と共にあるものが苦く笑いながら立っていた。彼はその表情にとてもいい笑顔を返す。この宮殿が墜ちているのだから、目の前に立っているものが近いうちに、彼の前に膝を折ることは容易に想像できる。ひとこと、ふたこと。言葉を交わして、彼らは真逆の方向に歩いていく。彼らが次に相見えたのは多くの銀製品が飾られた、大きな十七の窓と鏡のある間で、だった。彼らは張られた帆に風を受けて広大な海をいく船なのだから、決定権を勿論持たない。そこにあったかもしれない友情なんてものを、持ち出してはいけなかった。そのことを十分に理解しているからこそ、彼らは彼らたりえるのだ。目蓋が重たくなるような宣誓の言葉が終わり、暫しの静寂が訪れた後、制帽やらサーベルやらが高々と掲げられる。豪奢な装飾が施された間を背景に、丁寧な刺繍で装飾された多くの旛が揺らめく。沸き上がっているものは歓声か否か。そうしてそこに広く若いものが生まれ落ちた。それは彼のおうさまだった。

 持つものと持たざるものは斯くて立場を異とする。端々の土地を、かつて彼がそうしてきたように奪われていき、自分たちが失ったものを取り戻そうと更に要求を出してきた。それらはすべて成長したとはいえまだ若い彼のおうさまに向けられる。当然のことだった。当然のことだったが、それでも叩きつけられたものは、疲弊したものからしてみれば到底応えられるようなものでは無いように見えた。それでもおうさまは懸命に応えようとした。応えようとして昼夜問わず働き続けた。そんな姿に一線を退いていた彼は盛大に眉を顰める。今や立場は逆転しているも等しい状態だったが、例え護る必要が無くなったとしても、彼にとって拾いものだったおうさまはいつまで経っても大切な拾いものだった。持っているくせにもっともっとと持たないものに強請るのか、なんて意を込めて久々に見えた、かつてかの宮殿を借用させてもらったものに視線を向けてやると、その唇が因果応報ってねと動いて弧を描く。それに口元がひくりと動くのがわかった。その日を含めてしばらくの間、彼は眠るまでおうさまの姿を見ることが無かった。けれど日が昇って食事を摂ろうと食卓の上を見るとそれらしい質素な食事が用意してあるのだから帰宅しているにはしているのだろう。いくら要求に応えるため奔走して多忙だといってもからだを壊してしまっては元も子もないというのに。まだまわりはじめきっていない頭でぼんやりとそんなことを考えながら彼は白い皿の上からパンをひとつとる。あまり水気の無いそれを珈琲で流しながら、彼は机の端に置かれていた新聞に手を伸ばす。どこからどこまでが本当のことか、彼の知ったことではないが暇つぶしくらいには、それでもなった。紙面には最近巷で有名になっているらしい政党の名前なんかが踊っている。その政党が彼らを引っ張っていくことになったのは、それからそんなに時間の経っていない頃だった。

 空を裂き挙げられる手の背景に棚引く赤と白と黒の旗が揺れるのは万人が喚呼する所為か。徐々に要求に応えることが難しくなってきたことで、人々は今までの政党に見切りをつけたようだった。そうして選ばれたのがかの政党だったのだ。彼のおうさまが再度戦いに身を投じていくことになることを、その時は彼のおうさま自身を含めた誰もがきっと知らなかった。否、きっと皆こころのどこかではわかっていた。わかっていたけれど、そうする以外に何をどうすればいいのか、答えを見つけられなかったのだろう。暗い街に赤く燃える星が降る。轟音と共に星が落ちた場所には、何も残っていなかった。何もかもが砕けて散って失われていた。その光景に、彼はやはり眉を顰めるけれど、同時に他のところも自分の場所と同じようになっているのだとどこか落ち着いていた。一番の街だった場所には、瓦礫と空になった薬莢と人々の屍が山積みになっていて、とてもひどいにおいが漂っていた。瓦落苦多と死臭の海で何を思ったのか。彼らは一番上を失った。そうしてある日を境に、赤く燃える星は落ちて来なくなった。やがて音も途絶えて、静かな夜が再び訪れるようになる。それが何を意味しているのかなど、彼に向けるにしては至極簡単な問題だ。彼のおうさまもまたそれを理解し受け入れていた。二度目に提示された要求は、大部分の土地を統治されることだった。あれで終わりなのだと言われていたのだから、それを持っていかれることはないはずだった。だがあれで終わりだからこそ北や東は持っていかれるようなものだ。名前だけのものになる。過去のものになる。それで事無きを得るのならば、彼はそれでよかった。寒さの厳しい冬が長くなることは遠慮したかったが、それと平穏を秤にかけてどちらに傾くのかなど、答えは明白だった。持たざるものに権利など無い。そうしてひとつは分かたれたのだ。惜しみ愛しまれるふたつを置いて、季節はよっつの風を時間と共に何度も何度も運んでくる。それは何度目かの木枯らしが運ばれてきた頃だった。互いを求める声がふたつの耳に届く。どちらも限界が近いようだった。人々は手に手に工具を持ち聳える壁に向かう。

 そうして再びはじまる彼らの物語と、それまでの物語の、前口上と納め口上は、彼の浪漫的なことばだった。

 お前の目は朝陽の色だと、はじまりの色なのだと。うつくしい東の色。陽が昇り、せかいが目を開き、廻りはじめる、合図の色。そして俺の帰ってくる場所。お前がはじまりの色、はじまりの場所が在ってくれるから、俺は戻って来られる。俺の帰る場所は、お前なのだと。そんな彼の言葉に、彼のおうさまは返して言った。貴方の目は夕陽の色だ。あざやかな色。せつない西の色。はじまりの朝陽を約束する、沈んでいく夕陽の鮮烈なその色を、俺はいつも見送ることしかできない。貴方のあざやかな色。俺の目を奪う、ひどくあざやかな色彩。迷うことのないように灯された、暖かな光。俺の辿り着くべき場所は、貴方なのだと。面映ゆそうに、どこか切なげに言った。

 俺は知らなかった。というか、知ろうとしていなかった。こわかったのかもしれない。今ここにあるしあわせを失くしたくなかったから。今ここにあるたいせつを失くしたくなかったから。無意識のうちに変化することを拒んでいたのかもしれない。移ろう時流が、怖かったのかもしれない。随分と弱くなったものだと思う。

 本当はここまで面倒を見るつもりなど無かったのだ。彼はそうこぼす。照れくさそうに眉を下げてグラスを傾けると、黄金の泡が弾けた。長く彼を見てきたものたちは彼のその言葉に各々反応を返す。あるものは予想通りだというように首を縦に振り、あるものは予想外だというように目を丸くした。当人のいない場所で話は弾んでいく。賑やかな、というよりは騒がしい無礼講の場で、その一角だけが穏やかな雰囲気のまま盛り上がり始めていた。

 持っていかれたような大部分を取り戻そうと彼のおうさまは奔走していた。もうおうさまとは言えないのだけれど、それでも彼のおうさまに変わりなかった。一番大事な規則も、ひとつに戻ってからみんなで決めるのだと言ってずっと定めずにいたし、行けなくなってしまった方への支援を惜しむこともなかったし、結局戻ってこなかった場所には別荘とも言える建物を建てた。名を捨ててもそれ自体を捨てるようなことはしなかったのだ。それを無意味だと笑うものもいたようだったが、結果としてふたつは以前の姿を取り戻した。完全に同じだとは言い難いし、未だに分かれていた頃の名残はあちらこちらに見え隠れしているが、罅割れたようなそこを、彼のやさしいおうさまはその武骨な両手で、大丈夫だと繰り返し呟きながら覆うのだ。そのあたたかいこと。あの頃と変わらない温もりに彼は目を細める。ぽたりと手の上にきれいな雫が落ちていった。きらきらと光を照り返すそれを眺めて、彼はちろりと舌で掬う。薄く、いきものの生まれた場所の味がして、胸になにかあたたかいものが広がる。おうさまの方を見ると、相変わらずの表情で相変わらず忙しそうにしていて、彼は眉間にやはり皺を寄せてその手を摑まえてやる。と怪訝そうな視線を向けられた。彼もなのだが、決して良いとは言えないおうさまの目つきはいつにも増して鋭い。仕事が上手くいっていなくて、自身に苛立ちを覚えている所為でもあるのだろう。そんなおうさまをじっと見つめていると遂に言葉がかけられる。彼に向けて発せられる、耳に心地良い低音が紡いだのは久しぶりの会話らしい言葉だった。困ったような顔をして、掴んだ手を早急に離すようにとおうさまは言うが、その言葉に彼が首を縦に振ることは無かった。低く唸り声をあげると同時に、ぐぐと谷が深くなっていく。それを見たおうさまの表情は益々おさないものになっていった。からだなどは彼よりも大きくなっていたが、彼よりもまだずっと若く真っ直ぐなおうさまは、彼を押し切りきることがなかなかできずにいて、その時もまた例の如くとなる。振り払うことを断念したらしい手を引くと、そのからだは簡単に彼の方に傾いた。なるべく早く彼の気を済ませて仕事に戻ろうという心算なのだろうが、彼にはそんなことお見通しのようで、おうさまの耳元で何やら囁くと、その浮かない顔にじわりと朱が差した。それを視界の端に見ると、彼はくすくす笑って、幼子にするように、おうさまがまだちいさかった頃にしたように、やさしく頭部を背中を撫でる。そうするとおうさまのからだから少しだけ力が抜けていったようだった。はふと息を吐いて目を閉じたおうさまは彼に凭れかかるようなかたちになる。その姿はまるで歳の離れた兄に甘える弟のそれだった。とんとんとやわらかく、彼は広くなった背を叩いてやる。彼には見えなかったけれど、その時おうさまはいつかのように泣き出してしまいそうな表情をしていた。彼がまた何事かを紡ぐと、おうさまはゆるゆると首を振った。その様子に、やはりとでも言うように彼は笑う。穏やかな光を湛えた双眸が細められる。

 現在と過去を比べて、どちらが良いものだったかを言い争う姿というのは、皮肉なことに何時の時代も変わらない。今この時代もまた然りで、様々な物事について様々な立場の人々がそのように埒の明かない議論を繰り返していた。そんなものはただの暇潰しにしかならないだろうにと、彼は思うのだがどうでもいいことだ。万人すべてがこれだと納得するような、ひとつの解には辿り着かないだろうし、そもそもそんな理想的な解など無いのだろうから。過去には戻れない。過ぎ去ったからこその過去なのだから当たり前だ。現在もまた然り。今ここに在るのだから。なにがあっても歩を進めて行くしかない。当時を回想し懐古することはできても、その踵を返すことなどは許されていない。それ故ひとは安堵したり涙したりする。積み重なっていくものは彼らをつくる大切なものだ。折り重なって地層のようになったそれは、言い換えれば彼らの歴史そのものだ。その中には勿論、ひとつふたつくらいの隠しておきたいようなものがある。彼もまたそれを持っているものだった。ちらと彼は振り返る。自分は今までどのようなものだったのかを。

 はじまりは遠く永く遡った頃だ。彼というものは定まった場所を持っていなかった。道を切り拓いて東北の方へと足を進め、点々と拠を移しながら、ようやく辿り着いた場所で彼らの物語は始まる。血で血を洗い肉を切らせて骨を断つ。使えるものは何でも使ったし、奪えそうなものは奪えるだけ奪った。無我夢中で自分という存在を世界に知らせようと駆けてきた彼が、それに気付いたのは割と最近のことだ。否。それは彼が気付くよりも前から存在していたのかもしれないが、存在を顕著に確認できるようになったのは比較的最近のことだということだ。初めて目にしたそれは、ひどくちいさな存在だった。ちいさく白くまろいそれは彼にとって、触れれば壊れてしまいそうな硝子細工に等しいものに見えた。人気の無い場所で、茫洋と空を見つめていたそれに、彼は手を伸ばした。愛情などからでは無かった。極僅かな懐疑とそれを上回る大きな興味からだった。彼は優しいという性格には分類され難い性分をしていたから、それを見つけた時も、育てるとかいう考えよりも先に、自分のために何か利用できないかという考えが浮かんだ。そういう存在だった。そもそも目の前にあるものはどのような存在なのだろうと目を細める彼に、それは怯みも怯えもせず真っ直ぐに彼を見つめていた。面白いと思った。いつだったか、女中たちが幼い子供に対してやっていたことを真似て、抱き上げてやるとそれは笑った。その時に、彼の最初の考えは揺らいだ。揺らいだだけだ。拾いものを自分の糧やら何やらに利用してやろうという彼の考えが変わったわけでは無い。その為に態々拾って屋敷まで運んできたのだ。とりあえず不自由の無い暮らしをさせてやって、懐かせておいた方が後々言うことを聞かせやすくなるだろうと踏んだのだ。多忙な彼はあまり屋敷にはいなかったのだけれど、それでも屋敷に帰ってこれば、拾いものが逃げ出していないか弱っていないかと部屋まで顔を見に行った。休みの日には、なるべく懐かせておくという名目で相手をしてやるのだけれど、彼はちいさな拾いものの扱い方なんて知らないに等しかったから、殆どちいさな拾いものを観察しているようなものだった。何だかんだと理由を付けては、ちいさな拾いものに構う彼の姿は、なるべく時間を作って自分の愛し子との時間を増やそうとする多忙な親のそれによく似ていると、当時の使用人や側近は微笑ましく思っていた。そうしていつしか彼は自分のためでは無く、それの為に剣を振るうようになっていった。彼はまだそれを認めていないところがあるようだったのだけれど、それは拾いものが歩けるようになった頃のこと。焦土から帰ってきた彼を出迎えた拾いものは、泣きそうになりながら抱き締めたのだ。どうしてそんな顔をされるのか、彼には分からなかったけれど、何故かひどく嬉しく感じた。その時に彼は自分のすべてを擲ってでも、これと共に在りたいと思うようになった。彼らの戴くべき存在だった。だから彼がそれの為に奔走したのは至極当然のことだったのだろう。彼でなくても誰かがそうしただろう。辿ることになる道は大きく変化したのだろうが。兎も角、彼を含めた、それと近い縁のあるものたちは彼の働きによってそれを戴くこととなった。隣国と銃弾を刃を交えている最中だというのに墜とした隣国の宮殿を使って王を戴いた、そのツケは数百年としないうちに回ってくる。周囲のものたちの唇が弧を描く。それは勝ったものが浮かべる笑み。いつの時代も変わらない、下卑た表情だと思った。その頃から歯車は嫌な音をたてていたように思う。何故そうなっていったのかは、誰にもわからない。他にやり方があったのなら、そうするべきだったのだろう。しかし当時、そのやり方というものは無かった。ツケはいつまで払い続ければいいのだろうと彼は思った。それは一線から退いた彼が払うものでは無く、彼のおうさまが払うものだった。進んで極寒の地へと赴いたのも、おうさまに回されるツケを少しでも減らしたいと思ったからだ。結果として、おうさまは彼を呼び戻そうとそれまで以上に奔走することとなったのだけれど、大きなものたちからの要求は、曖昧なラインまで放り込むことができたと言っても過言では無いだろう。だが問題はまだ残っている。過去のものは勿論残っているし、新たに積み上がってもいっている。目まぐるしく移り変わっていく世界の中で、立ち止まっている時間など無くて、皆何かに追われるように、それでも楽しそうに日々を過ごしていた。交えるものは刃から論へと変わり、飛び交うものも弾丸から言葉へ変わった戦の場は、机上へと場を移された。いのちの遣り取りをしていた頃と比べれば、生温く進みの遅い戦いは欠伸の出るようなものだが、罪の無い血が流されることも無いし、一応それぞれの意見を出すことができる。それは嘗て、彼のお膝元とも言える場所に生まれて、生涯其処から出ることの無かった男が理想とした世界の姿に近いのではないだろうか。もう随分と前に聞いた理想なのに、今になってそれに近いものを見ることになるとは。時間の流れに感服しつつ彼は今日も今日とて変わらず気ままに過ごしている。

 話をしたいと思う。そんな深刻な内容の話ではないけれど、不真面目な内容の話でもないから、二人でゆっくりしながら話をしたいと彼は思っている。生真面目で誠実な相手は、言えば無条件に応じてくれるのだろう。だが、彼は相手を誘うようなことは無かった。自然な成り行きでそういう雰囲気になったら口火を切れば良いと思っているからだった。それは自分の性格に似合わない話題だからだとか、自分が語るにしては気恥ずかし過ぎる内容だからだとかの諸々の理由から、ずるずると機会を引き延ばしているからだ。実際、彼にはこれまで面と向き合って話し合う機会が幾つもあった。思わぬ邪魔が入ったりしたこともあったが、それでも話をするタイミングは幾らでもあった。さっさと話してしまえば良いのに等と、彼と比較的付き合いの古いものは言うが、そんな簡単に言ってくれるなと彼は思う。気質が違うのだ。あちらのようにひとに声をかけることも、人の良さそうな笑みを浮かべることも、こちらは苦手なのだ。知っているくせにそんなアドバイスを寄越すなど。元から当てにはしていなかったのだが。

 彼らにしてはゆったりとした時間の流れる日の話。

 意識はふわりと漂う朝の匂いに浮上した。ぼんやりと霞む視界には、いつもと変わらない部屋の風景が映っている。すんと鼻を鳴らすと先程よりも鮮明に朝の――朝食の匂いが嗅ぎ取れた。香ばしいその匂いに、彼は空腹を覚えて寝台から足を下ろす。まだ冷たさの残る朝の空気の中を彼は行く。途中にある部屋には何の気配も無い。

 リビングの扉を開けて、彼は真っ直ぐに香ばしい匂いの元となっている台所へと向かう。見慣れた後姿が、やはり其処にあった。極力音をたてないように背後に周り、手元を覗き込んでみると、簡素だが彼好みの朝食が用意されているところだった。

「ん。美味そうだな」

声をかけると小さく肩が揺れた。やはり背後に立たれていると気付いていなかったらしい。呆れたような声が返ってくる。

「、危ないからそういうことは止めてくれないか」

「ゼンショするぜー」

適当に返事をすると今度は溜め息が返ってきた。

「まったく…そこの皿を運んでくれ」

そして彼は指示通り、カウンターに置いてある料理の盛られた白い皿を食卓の上へと運ぶ。空腹を抱える身としては、その皿の上に乗っているものを今すぐにでも口に運びたかったのだが、折角ふたり揃った休日なのだからと彼は向かいの席が埋まるのを待った。

「先に食べていてくれて構わなかったのに」

数分後に向かいの席が埋まった。先に片付けられる物を片付けていたらしい。

「いやー? そんな気分だったからな」

その何気ない言葉に、どこか嬉しそうな微笑が零された。

「あぁ、そうだ、」

食べ物を口に運び入れる寸前でのこと。思い出したように彼が言う。

「な、なんだ?」

突然のことに驚きの視線が向けられる。相手もまた彼と同じく食べ物を口に運んでいるところだった。かちゃりと冷たくかたい音がする。相手は改まった話だと思ったらしい。だが彼にそんな話をする気はもちろん無い。そういえばまだしていなかった、朝の挨拶をするだけだ。いつもより遅い朝の挨拶をすると、相手の唇もゆるりと弧を描いて、彼に朝の挨拶を返した。その端正な顔には、たまにはこんな朝も悪くないと大きく書かれている。

 持ち帰った仕事は既に終わっているらしい。いつもより幾分か機嫌が良さそうに家の掃除に精を出している姿を見て彼はそう判断した。

 時計の針が十と六を指す頃。瑞々しい緑を湛える庭に面している、硝子の窓からは空に昇りきった太陽の暖かい光が差し込んでいて、リビングを心地良い空間へとしている。そこでは規則的に紙が捲られる乾いた音がしていた。それと、時折わふ、という間の抜けた音が、柔らかな毛束が不規則に床を叩く音と一緒に。

「――、」

穏やかな空間の中の規則的な音が止まった。ぱた、と柔らかな毛束が床を叩いて、もぞりとあたたかそうなきんいろが身じろいだ。そして彼の方を一瞥して、また頭を下げる。わふ、とくろときんが混じったのが言った。今度は伏せられていた眼が彼の方を捉える。その視線の、おさなげなこと。

「ん? どーしたよ」

口角が上がるのを隠しもせず彼は問う。

「…いや、その」

頬を掻いて、視線を少しだけ逸らして、相手は答える。

「なにか用でもあるのか? その…、そんなに凝視されると気になるというか気が散るというか……」

読みかけの本を指で辿りながら言う。どこか歯切れの悪い物言いは成る丈彼を傷つけないように言葉を選んでいるからなのだろう。

「いんやー?別になんでもないぜー?」

彼の双眸と唇がゆるりと弧を描く。零れ落ちる言葉は穏やかな音を持っていた。

「…そう、か」

そして再び視線が本に落とされる。だからといって彼が相手の観察を止めたわけではないのだが。

 時間は緩やかに流れていく。彼は相変わらず本を読んでいる相手を見つめていた。完全に本の世界へ旅立ってしまったらしい相手は、もう彼の視線を気にしていないようだ。ふ、と間の抜けたような、しあわせを溶かしたような空気が零れた。読書の邪魔にならないようにと、ちいさく呟かれた言葉を知っているのは、きっと彼自身だけ。

 街には、肌の色は勿論、髪の色や瞳の色、表情も服装も様々な人々がいて、皆一様に自分の向かうべき場所へと歩を進めている。大きな駅のある方にはスーツ姿の男性が走って行き、前方にある大通りの向こう側には仲の良さそうな学生たちが手に手に鞄を持ち親しげに笑い合って歩いていく。吹き抜けていく風はまだ冷たいけれど、ふわりと運ばれてくる土や草花の匂いと、優しく降り注ぐあたたかな太陽の光は、季節の移り変わりを確かに感じさせる。

 容器の底が見えてきていた小麦粉と、擦り切れてしまった布巾と、休暇を無駄にしないための本を数冊。その他も色々と買い歩きながら二人は見慣れた風景の中を行く。二人にとっては庭のようなものだ。そんな街には、東洋に浮かぶ極東の島国から送られた、友好の証らしい樹が、薄紅色の可愛らしい花を咲かせていた。薄紅の小さな花びらが舞う中を、とてとてと二人の横について歩く三匹は飼い主の邪魔にならないように、近付き過ぎず離れ過ぎない距離を保っている。賢く可愛らしいこのいきものたちを、飼い主である二人はそれはそれは大切にしていた。

「あと何か買うもんあったか?」

ひとさまの邪魔にならないように、あまりひとの流れが無い路地で立ち止まって彼らは確認する。

「あぁ、そうだな…あとは、」

言われたものに、彼が目を丸くして、それから細めて至極嬉しそうに笑う。

「おう、買ってこうぜ」

だいさんせいだと、飼い主の広い背中を叩くもうひとりの飼い主を見て、三匹の中でいちばんちいさなものがひとつ鳴いた。いちばんおおきなものは、鳴きはしなかったけれど、ふさふさとやわらかそうな尻尾を振った。まんなかのやつは二人の飼い主の顔を交互に見て首を傾げていた。

 二人と三匹が家に帰り着いたのは、日が落ちかけて空が赤紫に染まる頃だった。三匹は足を拭ってから家の中に入る。足を拭われている間、賢い三匹はやはり大人しくしていて飼い主の手を煩わせることはなかった。

 ほくほくとした表情で、彼は買ってきたものを棚にしまっていく。今日は何か良いことがありそうだ。朝からそんな気がしてならない。実際、今日はどちらかといえば良いこと尽くしな一日だったと思う。

「随分上機嫌だな?」

仕事を終えて、ソファを占領していた彼に声がかけられる。その声も、随分上機嫌なものだと思うのだけれど。などと思いつつ声のした方を見ると、朝と同じようにエプロンをつけた後姿が見えた。そんな背中に、彼はやはり上機嫌に返事を返す。きっと今自分の口角は上がっているのだろう。別に隠すことでもないから、気にはしないけれど。

「まぁな」

晩御飯の支度を始めているようだ。程なくして、食欲を誘う音と匂いが漂ってくる。今日はきっと二人の好きなものが並んで、食卓がいつもより少しばかり賑やかになるのだろう。雑誌を捲りながら彼は即興の歌を口遊む。

 はたしてその日の夕餉は豪勢なものだった。少し張り切り過ぎてしまっただろうか、なんて眉を下げられれば――否、下げられなくとも、そのすべてを腹に収めないわけにはいかない。めずらしく間食を摂っていなかったのは、こうなることが、そこはかとなくわかっていたからなのだろうか。兎も角、彼、というか彼らは料理を楽しんだ。

 賑やかな空気の後には静かな空気が流れる。それも何故か必然的に、だ。祭りが終わった後やパーティーのふとした瞬間に訪れるその雰囲気は、嫌いではないけれど、どこか寂しさが興るから好きというわけでもなかった。ちらと向かいの席を見ると、相手は未だ手中の硝子を傾けている。そんな空間で彼は、あ、と声を零した。

 穏やかな沈黙の降りた部屋は、ぼんやりと薄暗い。山吹色の泡が硝子の中でちいさく弾けている。彼の向かいに座る青年は、それを傾けながら不思議そうに一言零したきり静かな彼を見つめていた。気まずそうに視線を逸らしている彼のその様子を、青年はどうとったのだろう。ごとりと硬質な音がして、青年のかたちの良い唇が動く。

「…どうか、したのか?」

耳に心地良い低音が彼を気遣う。

「いや、別にそんな――大したことじゃねぇ」

青年の声を、黄金のようだと形容するならば、彼の声は黒金のような声になるのだろう。いつもならしないような、曖昧な返答をして、彼は幾分か温度の上がった山吹に口をつける。

「けどよ、なぁ、」

彼は喉を鳴らしてから手中のものを机上に置く。そして彼は、相変わらず視線を逸らしたままだが、言葉を続けた。

「ちょっとばかし、したい話があるんだ」

彼が頬を掻きながらそう言うと、相手は頷いた。篤実という言葉を体現したようなこの青年は心を許したものに対して殊更真摯に接する。

「ほんとに大したことじゃねぇんだけどよ、その、なんつーか一度はしておきたい話だよなー…って思ってよ」

一度咳払いをして、彼はようやく相手と視線を合わせた。

「むかし、お前を見つけた時、俺はお前を自分の為に拾った。利用価値があると思ったし、実際お前には十分過ぎるほどその価値があった。だから拾って帰って世話をした。最初はそれだけだった。自分が大きくなるための道具だと、お前を見てたんだ。見てたけど、いつしか俺はお前を大きくするために世話をするようになった。お前に剣を向けては、傷付けてはいけないと思った。寧ろお前の側に在りたいとすら思った。だから俺という意識よりもお前という意識が強くなったんだろうな。実際お前は俺たちの王だった。お前を戴くことができて俺たち…少なくとも俺はしあわせだった。勿論今もだ。けど、まったく都合が良いよな……なぁ、お前はこんな俺を憎むか?愚かだと、嗤うか?」

努めて気楽そうに語る彼に、訊かれた相手は静かに目を伏せて答えた。

「…知っていた。かつての貴方が、小さい俺をそんな風に見ていたこと」

その言葉に彼は絶句し、目を丸くする。

「最初に会ったときからな。こちらを品定めというか、探るような眼をしていたから…――だが、貴方を憎いだとか、愚かだとか、思ったことは無い。寧ろ尊敬している。…今も昔も。きっと貴方には一生敵わない」

青年は真っ直ぐに彼の目を見つめて言う。意識せずに青年の姿に、青色に視線を固定していた彼の紅色の目と、青年の青色の目が重なる。

「それに貴方はどんな時だって俺の味方でいてくれた。貴方があるから俺があるんだ」

そして当たり前のように、ありがとうと感謝の言葉を彼に対して述べたのだ。

 なんて、純粋なことばたちだろうと彼は鼻をおさえる。自分には勿体無いおうさまだと思うと同時にこれが自分のものなのだと。

 言い切ってから、恥ずかしくなったのだろう青年は、差した朱をアルコールの所為だと誤魔化すように山吹色を呷る。しかしそれでは隠しきれないと知っているのだろう、低く唸って頬を掻く。普段寄せられるものとは違う皺が、青年の眉間に寄る。忘れてくれ、なんてぼそりと呟くその愛らしさに、彼は隠しもせず笑みを浮かべる。忘れてなどやるものか。はいはい、なんてこれっぽっちも思っていない返事をして、彼は胸中で呟く。立派に成長した同性に愛らしいとかの感情を持つなんて、と思われるだろうが、彼には関係の無いことだ。手塩にかけて育てたものを愛して何が悪い。自分が青年をいちばんあいしているという自信が、彼には有る。いちばんは、自分なのだ。

 それから暫くの後、彼は沈黙を破りもう一つ訊く。

「……なぁ、お前今幸せか?」

答えなど、わかりきっているのだけれど――。

 ここだけの内緒話を、彼らは時々する。

「なぁ、ホントに大丈夫か?ホントのホントに?」

「あぁ、大丈夫。大丈夫だ…そんなに信用が無いのか?」

「でもよー……」

「大丈夫だ……たぶん」

「たぶんってお前」

「それは!貴方が!」

「俺の所為かよ!」

「……」

「…や、なんか、うん、悪ぃ」

「いや…」

時折見られる仲睦まじい姿を、あるものは悪態を吐きまたあるものは微笑ましげに眼を細める。

「あー…その、あ、ありがとう」

「! いやいやいや!俺の方こそ!」

「そっ、そんなことは!」

「お兄様がハグしてやんよ!」

「! え、遠慮する!」

「遠慮すんな! 大人しくハグされろ!」

「結構だ!」

 それはきっと幸せなこと。

「…あいしてる」

「ん、俺も、」

 二十年と少し前の、彼らの判断が、決断が、正しかったのかといえば、現在の人々の中には小首を傾げる者もいるだろう。傾げるだけでは無く、あれは間違いだったと、嘗ての方が良かったと、あの頃に戻れば良いと、言い切る者もいるだろう。しかしそれは彼らの望むところではない。彼らを形作る大切なものの一部だとしても、大切な存在と再び別たれるなど、欲しいものを好きなだけくれてやると言われても丁重に、謹んで、お断りさせてもらおう。欲しいものは、望むものは、その大切な存在なのだから。

 昔からそういう場所だった。同じ民族の筈なのに、幾つもの国が在り、幾つもの考え方が在り、幾つもの性質が在り、決して協調的なものたちではなかった。それらを彼が一つとして纏めた。民族の色を、彼らの誰よりも鮮やかに映したものを頂点として。もし仮に、彼自身が民族の戴く存在になっていたとしたら、おそらく今ほどこの国は平穏ではないだろう。戴いたのが彼でなくても相変わらず彼に良い顔をしない、南のものが、その中心となるだろうというのは目に見えている。未だ秋の頃に開かれる祭りや度々開かれる集まりで顔を合わせても、そのたびに飽きることなく繰り返される憎まれ口の――中に時々どきりとさせるような、冗談とは思えないような言葉を織り込んだ――応酬をしているのだから。いい加減に止してくれないかと、彼らを纏めるものは言うけれど、それは無理な要求だと彼らの意見は一致する。一昔前ならばそれは物騒な内容の言い合いだった。しかし現在は違う。百八十度くらいは違うだろう。それは、物騒とは程遠い、当人たちからすればとても重要なことのようだが、外野から見れば、それはそれは微笑ましい内容の言い合いだからだ。渦中のものは、一昔前の泣き出してしまいそうな面持ちとは違い、困ったように、しかしどこか嬉しそうに眉尻を下げて彼らに落ち着くように求める。

 そのものたちが、そのもの自身とそのものと共に在る人や物の為に何――たとえばそれは友情であったり同族の情であったり――を擲ってでも存続を望むというのは当たり前のことだった。発展と栄光と存続の為に周囲のものを食い破り取り込み、或いは従わせて、揺るぐことのない確固たる基盤を築いていくというのが常だった。しかしその中で彼は違う選択をした。もちろん、そこまで辿っていた道は他のものたちと大差は無かったが。他のものたちが支配下に置いたものたちに対して宗主または盟主という立場をとっていたのに対して、彼はその宗主を育てるという判断をしたのだった。決して、特別大きな土地を持っているわけではなかったし、同族内でも大小様々な諍いが絶えない場所で、自分が上に立つのではなく、自分たちが戴くものを育てるというのは楽なことではないだろうに、戴くべきだろうものを見つけた彼はそういう判断を下し、それを拾って帰って世話をするようになった。何故そのようなことをしたのか、今となってはもう分からないし知る由も無いけれど、その理由はやはり己のためだったのではないかというものが一番強く囁かれている。彼と、彼に育てられたものたち当人らはそんなこと気にしていないようだけれど。

 生まれるということが幸せなことなのかそうでないのかというのは、とても難しい問題だと或る人は言った。彼らのような存在などは特にそうだろうと。そもそも命というものは望む望まざるに関わらず与えられるもので、特に望まれた命が望んだ命であるかどうかは能く口論になる話題であろうと思う。生きるということは喜びと共に痛みに触れることでもあり、それに伴って笑うことも涙することも多々あることだ。それは危うい拮抗の中で成り立ち、少しでもバランスを崩してしまえばその存在を、いとも容易く破棄してしまうことだってある。止める言葉も吐けずに掴む腕も伸ばせずに、それを見送ることしかできないのが殆どだ。彼らのようなものが簡単にそういうことができないのは当たり前だけれど、そういうことをする人が多くいるというのは、後々彼らに反映されてもおかしくはないだろう。そして、彼ら自身も似たようなことを思うことがある。もういらないんじゃないかとか、もうここらでいいんじゃないかとか。怖くて訊くことができないけれど、生まれてきて良かったと思われているのか、自分に育てられて良かったと思ってくれているのか、今ここに在ることが苦になっていないだろうか等、積もるものは多い。幸いなことに彼の育て方が良かったのか質が良かったのか――目立った弱音を吐くことは、あまり無いけれどこの御時世だ、抱えているものが大きく重たいことは容易に想像ができる。もっと頼ってくれればいいのに、とは思うのだが、果たして今の自分に出来ることは如何ほどだろかと歯痒くも思う。何もできないことは無い、と思うけれど、慌ただしそうな姿を見ていれば、伸ばしかけた手は降ろされて、邪魔にならないように少しでも手助けになるようにと、ひっそりこっそりと影から支えることしかできない。慌ただしそうな、その当人は優しいから、大丈夫だとか、ありがとうとか言ってくれるけれど。

 たとえば、国という存在ではなくて、ただの人の子として在ったら、と思う時がある。それはきっと他のものたちも同じで、一度くらいはあるだろう。自分たちと言う存在は永く、ほぼ普遍的に在り続けるから、ヒトが生きる時間という、季節に開く花のように儚く短いものとは比べものにならない。けれどそれは、だからこそ、とても魅力的なものだと思う。ごく限られた時間の中で自分の生を如何するか、何を残そうとするのか、遺したいと思うのか、あの短い時間の中で生き、その思考に触れてみたいと。小走りに駆け抜けていくスーツ姿の男性の、どこか懐かしい気のする背中を視界に捉えて、じんと視界がぼやけた。

 最近ではあまり見かけなくなったレコードがくるくると廻っている。素朴なデザインの家具と少し暗めの照明。路地裏にひっそりと建つ、そんな喫茶店。

​BGM:真珠(天野月)

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