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 そして今日もまた夜が訪れる。
 暗い室内には噎せ返るような薔薇の臭いが漂っている。かさりと音をたてる花束は、窓から射し込む月の光に幻想的に浮かび上がる。
きっとこの切り花たちは花瓶に活けられることのないまま散っていくのだろう。太陽のように赤く咲き誇る花弁を何故態々月の下に置くのか。まるで飼い殺しのようだと、ある男は言った。だが街の花屋でこの花束を作った男はそうは思っていないらしい。ある時その男はその旨を、花束を持った男に言った。すると男は、真っ赤な花弁を一枚。食んで散らして見せた。そして男はそのまま笑って言ったのだ。
『花は散るからこそ美しいんだよ』
と。その時の気障な雰囲気と言ったら。街の美丈夫も息を吐く程だった。あの男は家に帰ってあの花束を散らしているのだろうか。態々。金を払って手に入れたものを。一番美しい盛りの花弁を。
 小さな街という場所は噂が広がりやすい。広がりが早いのは噂だけではないが。男は街でも有名だった。毎週金曜日。日の暮れかけた頃に花屋に現れる。買っていくのは赤い薔薇の花。店にある赤薔薇全てを包んでくれと言うのだ。それほど大きな店ではない花屋は毎日薔薇を百本程しか置いていない。しかし男が毎週金曜日に来ると把握してからは金曜日だけ倍の数を仕入れるようになった。噂の男でなくても薔薇を買っていく手は幾つもある。
 今週もまた、男は花屋に現れた。男はいつものように薔薇をあるだけ、と店主に告げる。今週残っていた薔薇は百一本だった。店主がそのことを伝えると、男は一瞬目を丸くした。そして、ゆるりと微笑んでそれは良い、と呟いた。ふわりと甘い匂いがした。
 その屋敷は郊外に広がる森の近くにあった。街からは少しばかり離れていて、少しばかり不便そうだと街の人々は思っている。街の人々があの屋敷について知っていることは極僅かだった。毎週金曜日、花束やら紙袋やらを抱えた男が屋敷を訪ねて行くこと。月曜日の朝にはその男が屋敷から戻ってきて街を出て行くこと。それくらいのものだった。噂好きの街の女たちはあの屋敷について、男の妻子が静養している屋敷だとか、男が週末に休むための別荘だとかの想像を囁きあった。
 日が落ちてあたりが紫色に包まれた頃。男はようやく屋敷の扉に手をかける。今日もまたあの子と時間を紡ぐのだ。かさりと男の腕の中にある紙袋が音をたてる。忘れてはいけない。今日はとっておきのお菓子も用意したのだから。いつもとは違う香りが屋敷に零れる。薔薇の噎せ返るような匂いではなくて、熱を呼ぶような甘い匂い。紙袋の中には可愛らしく包装された箱がひとつ。果物や野菜、肉、葡萄酒などの食材と一緒に入っていた。
 男の革靴が規則的に床を叩く。テーブルに並べられた料理を片付けた男は、台所に買ってきた食材を片付けて花束と箱を持って寝室へと向かっていた。灯りをひとつもつけていない屋内は窓から射し込む月の光だけが頼りだった。銀色の光が男の端正な顔を照らす。長い睫毛が男の白い肌に影を落としていた。
 やがて男は一枚の扉の前に立つ。背筋を伸ばして、踵をあわせて、まるで紳士のように。男の服装は、釦をふたつほど外した白いワイシャツにベルトの無い黒いスラックスというラフな格好だが、端麗な容姿を持つ男にはよく似合っていた。
 男の薄い唇が弧を描く。コンコン。木製の扉を叩くと少しくぐもったような暖かみのある音がする。部屋の中から、小さな衣擦れの音。それを、男はどう受け取ったのだろう。入室許可の返事など返ってきていないのに、男は静かに扉を開ける。部屋には茎から落ちてしまった薔薇の花弁が散乱していた。しかしその香りは未だ残っているようで、部屋には薔薇の匂いが漂っている。ぱり、と音をたてて男が踏んだ朽ちた花弁は粉々に砕けた。部屋にある窓から入る月の光が、赤や茶の花弁が散らばる白い床を照らす。その色は白というよりも寧ろ青白いという方が相応しいだろう。
 寝台の上にはシーツでできた真っ白な繭がひとつ、できている。男からしてみれば、できていなければおかしいのもの、なのだけれど。今日もいつも通りなのを確認して、男の表情は自然と綻んだ。あぁ、いとしい愛しいひと。今日も自分たちの日常は廻っている。
 男は静かに寝台に近付いていく。その足取りはどこか軽やかなものだ。ダブルクッションの寝台に手をついて腰を下ろすと、スプリングの軋む音がした。そして男は白い繭に顔を近付ける。内緒話でもするように。
「Bonjour, Ma chérie」
囁くと、もぞりと繭が動いた。男は優しくシーツを退かして核となっていた者の顔を覗き込む。
「も、なむーる…?」
「そ。お前のMon amour」
舌足らずに答えた声は、寝起きだからか掠れていた。それすらも愛しいというように男は相手の髪に唇を落とす。相手の髪は絹のように柔らかい。男の薄い唇が触れると、相手はこそばゆいというように再びシーツに包まろうとした。それを止めたのは、他でもない。男だ。味わうように相手の髪に口付けていた男は、片腕に抱えていた薔薇の花束を膝の上に置いて、相手が頭まで引き上げようとしたシーツに手をかけた。そうして相手が再び繭になろうとするのを阻止する。シーツを引き上げようとした手の力は随分と弱いもので、男はその手を簡単に止めることができた。
「だぁめ」
ひどく甘い、砂糖と一緒に煮詰めた果実のような声。
「ひ、ぁ、」
シーツの中に差し込まれた男の手は冷えている。その手でなぞられた相手の四肢は突然の刺激に、大袈裟すぎる程ひくついた。手の冷たさか、シーツの隙間から流れ込む冷たい空気の所為か。相手の肌は粟立っている。だがそれも束の間。男の手が行き来を繰り返すうちに相手のひくつきは無くなっていき、零れる細い声も熱を取り戻していった。その熱は男にも伝播していく。
「今日はねぇ、チョコレヱトを買ってきたんだよ」
「ふ、ぁ、ア…?」
「薔薇と、チョコレヱト…なんかロマンチックじゃない?」
やがて男は繭に覆いかぶさるように寝台に乗り上げる。ぱらぱらと脱がれていない靴から土が落ちていく。
「どう? 似合うでしょ?」
あかい薔薇と、くろいチョコレヱト。男は微笑んで、花束を解き、箱の中身を零していく。呆気ない音をたててシーツに沈んでいくそれらを、相手は目で追う。伏せ目がちになった相手の表情は、何か神聖なものを彷彿とさせて、至極うつくしい。男の好きなもののひとつだ。男はうつくしいものを好む人種だった。その表情を恍惚と男が見詰めているのを気にも留めず、相手はそろりと手を伸ばす。白くしなやかな指が、零れ落ちた薔薇の輪郭を辿る。無彩色の中に落ちた赤は、ひどく生々しい。
「……あかと、くろ、」
無垢な声。無垢な瞳。そのすべてに、男は心を奪われる。
「うん。赤と、黒。白いお前によく似合う」
ほら、こっち向いて。視線を薔薇に向けていた相手に男は穏やかに言う。なに、と相手が言われるがままに男の方を見ると、唇に何やらかたいものが押し付けられた。それを拒む事無く食んで口の中に転がすと、かたいものは表面をとろりとさせた。少し経って、男は相手の唇に自分の指を当てる。とんとん。二回、やさしく相手の唇を叩く。ふ、と吐き出された相手の吐息は甘く湿っていた。
 粘着質な音をたてて相手の咥内を弄っていると唇の端から、こぷと黒い液体が溢れた。時折喉が上下しているのは見ていたが、どうやらすべてを飲み込めていたわけではないらしい。指を引き抜いて口付けてやると相手はやはり甘かった。茫洋とした眼で此方を見上げる相手に、男は淫靡に笑って見せる。
「今日は、隅から隅までドロドロに溶かしつくしてあげるね」
「…いつものことじゃ、」
どこか投げやりに返した相手が男のワイシャツに手を伸ばす。
「脱がしてくれるの?」
「なぜ」
面白そうに男は笑う。しかし相手は言葉の通り男のシャツを脱がさずに、シャツをなぞるようにその手を動かした。
「ねぇ、」
シャツを行き来する白い手を掴んで、男が囁く。
「触るならさ、直に触ってよ」
シャツを脱ぎ捨てて、男は掴んだ手を自分の素肌に置く。手が置かれたのは、丁度胸のあたり。心臓が脈を打っている振動が二人に伝わる。指先や手や唇は冷たかったのに、そこだけはやけに温かい。それは男がいのちを持っているからに他ならなかった。その鼓動を静かに受け取っている相手は、男以外の温かさを知らない。否。忘れてしまった、という方が適切なのだろう。そんな相手が男を見て、おかしそうに笑った。
「シャツに嫉妬でも?」
「まさか」
男は言う。しかしその反応が何よりの肯定だと、相手は再度笑った。無邪気な笑みに、自分の負けだと言わんばかりに男は眉をハの字にした。
 脱ぎ捨てられたシャツを見ずに口角を上げる相手の硝子玉のような双眸には男が映っている。男だけが、映っている。
 泣きそうな声だ、と男は唇を歪めた。あ、あ。と落ちていく相手の声は。腕や脚や双眸もまた縋るようにこちらに伸ばされる。まるで幼子のように。その、愛おしいこと。はぁあ、と息を吐くとシーツの擦れる音。相手は、男が溜め息を吐いたのだと思ったらしい。不安げに男を見ていた。
「なぁに?」
わざとらしく訊いてやると相手は視線を逸らす。溜め息を吐いたのではないと解ったらしい。
「かぁわいいの」
答える言葉は無かったが、シーツに押し付けた頭を小さく横に振った。シーツにまたひとつ皺が刻まれる。かたちの良い頭を撫でてやると、また頭を横に振る。照れているのだろう。熱で融けたチョコレヱトを舌で掬うとひどく甘い。あ。と、また声が落ちた。
 震える背中は白く滑らかだ。浮かび上がった汗の雫が、曲線と重力に従ってシーツに消えていく。そのつやめいた肌に、男は音をたてながら口付けていく。ちゅ、ちゅ、と可愛らしい音が部屋に落ちる。唇の触れる微かな感触にも律儀に反応を返す相手はくすぐったいのだろうか。もぞりと身じろぐ。しかし男を全力で振り払わないあたり、相手もその行為を嫌っているわけではないのだろう。そういえば、と男は思い出す。昔、友人というよりは腐れ縁といった方が良い知り合いと飲んだ時に聞いたことだ。背中に落とす口付けは、確認の意だったか。
 シンと静かな室内に音が零れる。何かが、軋む音。その音は、ぎしりと軋んだのは、はたして床の板か寝台の発条か。そのどちらかもしれない。微かな声と共に、しなやかな四肢が浮かび上がる。まるで白鳥が最期の時に歌う歌のように。
 高みから崩れ堕ちた身体は弛緩しきって柔らかい。街の花屋に並ぶどの花よりも、街の外れに咲き誇るどの花よりも芳醇な色香を放っているだろう。ふわりと甘い匂いが思考を侵す。それに加えて月明かりに照らされた部屋はひどく退廃的だ。
 すべてが終わった頃、寝室は棺の中ような光景になっていた。白いシーツの上や床には赤い薔薇が花弁を散らし、その中心では穏やかな表情で眠りについている者がいる。まるで死んでいるように。それを愛しげに撫で眺める男がいなければ、さながら棺の中の再現に見えただろう。否。その男がいたとしても、今生の別れの場面に見えた。
 月のある夜はそれがより顕著になる。月がひとを狂気に引き込むというのは、強ち間違いではないのだろう。などと考えてしまうのは、少々浪漫的すぎるだろうか。男は上機嫌に微笑む。
 檻のような場所だ、と相手は目を閉じた。相手がこの屋敷に来てまだ間もない頃の話だ。きっと当の本人は覚えていないだろう。男が相手を屋敷に入れてから、もう随分と経ってしまっているのだから。それに、男は相手の言葉を否定するつもりも無い。なぜなら、この屋敷は相手を閉じ込めておくための檻なのだから。必要最低限の家具も食材も、すべて相手を逃がさないための布石。相手がこの期に及んでここから逃げ出すとは考え難いが、念を入れておいて損することは無いだろう。相手を疑っているわけではないが、男は不意に不安になることがあるのだ。相手がいつかふらりと自分の前から消えてしまうのではないか、と。
 屋敷は男の作り上げた檻なのだ。男自身、屋敷をそう表現する。街から離れた場所に建てたのは相手をなるべく外界と触れさせないため。仕事の忙しい男はそれでも必ず毎日屋敷に赴いている。毎週金曜日は花屋に寄っていく。買うのは赤い薔薇。本数は週による。買われた薔薇が花瓶に活けられることは無い。屋敷のどこかで散らされるだけ。薔薇の墓場になるのは寝室になることが多い。散った薔薇たちは掃除されることなく床に留まり続けている。やがては塵となって層をつくるのだろう。数ある花の中で赤い薔薇を選ぶのは単に男の好みだ。週を重ねるごとに増えていく花弁たちについて、気紛れに散らされる薔薇たちは気の毒だと相手は言っていた。やさしいひとなのだと男は思う。
 そんな、男曰くやさしいひとは屋敷から一歩も出ない。庭に出て草花の世話をしたり、読書をしたり、時には男と一緒にお茶を楽しんだりすることはあるが、敷地の外に出ることはなかった。外出を制限されているわけではない。ただ、男が一言。屋敷に来た日に、外には出ないでね、と一度。言っただけ。相手はその言葉を律儀にも守っているだけなのだ。だから、外食や買い物など屋敷に来た日から一切していない。食べるものも、男が金曜日に街の市場や店で買ってくる一週間分の食材のみ。飲むものもまた然り。読みものだとか筆記用具の類は必要になったら男に言う。金曜日にまとめて持ってきてくれるのだ。ただ、屋敷には予め男が持ち込んだらしい本が大量にあるし、何かを描いたりするという機会も少ないので、そう言った買い物を頼むのは極稀なことなのだが。
 詰まる所、二人は屋敷での生活に不自由はしていないのだ。男は相手が待っていてくれる屋敷に帰ることができるし、相手は退屈せずに男を待つことができる。
 世界から切り離されたような、現実味の無い生活サイクル。二人にはそれが世界で、すべてで、幸せだった。
 しかし平穏というものはいとも簡単に破られるものなのだ。だからこそ尊いものなのだ、と高名な学者は言うのだろう。
 嵐は突然やってくる。
 月の出ていない夜のことだった。いつものように屋敷を訪れた男は、今日も真っ赤な薔薇の花束を抱えて寝室に向かう。男が歩く度に薔薇の匂いと甘い匂いがふわりと空気に溶ける。
 扉の前に立つと、いつものように背筋を伸ばして踵を揃える。赤い薔薇に埋もれている小さな箱の中身は、今日もシーツに包まっているのだろう、相手があの日あの後で珍しく気に入ったと微笑んだチョコレヱトだ。コンコン。男はいつも通りに扉を叩いた。しかし部屋の中からは何の音もしない。何か、おかしい。いつも微睡むような空気の流れる部屋から、今日は冷たい空気が漏れている。男は訝しげに扉を開けて中に入る。そして男は目を丸くした。薔薇の花束がやけに乾いた音をたてて床に落ちる。チョコレヱトの箱が、ことりと花束から零れ落ちた。
 目の前にはひとつの人影があった。寝台に横たわっている相手の頭を幼子にするように撫でているようだ。やがてその人物は呆然と立ち尽くしている男に気付く。寝台に腰かけていた人物はその手を止めて、寝台に腰かけたまま、空々しい笑みを浮かべて、此方を見詰めてきた。
「よォ…久しぶりか? 捜したぜ?」
片手を挙げ、親しげに声をかけてくる人物を、男は知っている。寝台の上で眠っているはずの、相手の身内だ。何度か一緒に飲みに行く程度には親交がある。しかしその親交もここですべて終わりだ。見つかってしまったのだから。男は相手の身内に微笑みかけた。
「うん。久しぶりだね。元気してた?」
男の反応に相手の身内は眉を顰める。男の反応について、相手の身内は屋敷に不法侵入したことで自分を咎めるなり慌てるなりするものだと思っていたのだろう。だが結果はこの通りだ。
「あぁ。おかげサマでな」
心中を悟られないように相手の身内は続けた。
「コイツが消えてから東へ西へ駆けずり回ったよ」
「…相変わらず過保護だってわけだ」
「否定はできねぇな」
「するつもりなんて無いくせに」
「違いねぇ」
双眸が弧を描く。互いに欲しているのは、ただひとつ。それも、同じものを。ひとりは愛してしまったが故に。ひとりは愛し続けているが故に。互いに、譲りたくはないのだ。穏やかに男が口を開く。
「何処で知った?」
「ハッ。どこでもねぇよ。俺とコイツが親しい共通の知り合いなんてそういねぇ。とある片田舎にある小せぇ街にその知り合いとよく似た男が出没するって噂と、その男が毎週だか毎日だか怪しげな街外れにある屋敷に赴いてるって噂聞ききゃあ、一応確かめてみるのが普通だろ」
「そっか」
皮肉気に片方の口角を上げて笑う相手の身内は、相当怒っているようだった。無理も無い。男は相手の身内唯一の肉親を無断で屋敷に連れてきたのだから。
「連れて帰るの?」
男は相手の身内に訊く。
「当たり前だろ」
獣が威嚇するように、相手の身内は男を睨みつける。しかし男は動じない。静かに穏やかに、口を開くのだ。
「連れて帰ったところで、無駄だよ。ここで過ごした記憶以外、その子は持ってないんだから」
「な、」
見開かれる目には、絶望と困惑と憤怒のようなものが渦巻いている。当然の反応だろう。唯一の肉親との記憶が無くなっているなど。簡単に信じられることではない。
「そんなの、嘘だ、」
確認するようなその言葉に、男は首を横に振る。本当のことなのだ。何のためにこの檻を用意したのか。相手をずっと繋いでおくためだ。じわりじわりと自分に関すること以外を溶かして忘れさせていくために。結果として、男の計画は成功した。相手にとって世界とはこの屋敷と男だけになったし、男以外の温もりも忘れてしまった。
 男の口から紡がれた言葉に、相手の身内は言葉を失う。嘘ではないということは、男の雰囲気から理解したらしい。
「そうか」
しばしの沈黙の後、相手の身内が呟いた。その手には小振りのナイフが握られている。
「なら、コイツの命と身体、連れて帰らせてもらうぜ」
殺して、文字通り引き摺ってでも連れ帰りたいらしい。しかし無駄ことなのだ。この屋敷は、住人含め狂ってしまっているのだから。
「無駄だよ。ここは俺たちの日常が繰り返される場所だから。干渉できるのは俺たち自身だけ」
その時。男の言葉が持つ意味を相手の身内が、はたして理解できただろうか。
「五月蠅ぇ…俺の、世界で一番大事なもン返しやがれ!」
叫んで、ナイフをいつものようにシーツに包まっている相手に突き立てる。じわりと、白いシーツに薔薇の花弁のような赤が広がっていく。相手の、最期の言葉など無かった。安らかに眠ったままだ。だが、男の目に涙などは浮かんでいない。寧ろ眉をハの字にして口元に微笑みすら浮かべている。それは、自分がしたとはいえ、唯一の肉親に刃を向けたのだから当たり前だろう、小さく嗚咽を漏らす相手の身内とは対照的な表情だった。
「ねぇ、また明日、来てごらんよ」
ここはこのままにしてさ、と男は囁く。相手の身内はその目に薄く水の膜を張らせたまま男を見る。そんな相手の身内に、男は子供をあやす時のように、ね、と優しく言う。静かに微笑む男の、その表情を、相手の身内はどう見たのか。
 日が昇り、件の屋敷にも朝が来る。白を基調とした屋敷にとって朝の光とは些か眩しいものとなる。白い朝靄の中に黒い人影が溶け込むことはない。そもそも黒という色は他の色と並べて綺麗に合うことがあっても、美しく混ざり合うことは無い。いつも個の色として存在しているのだ。ならば自分はそれと同じようなものなのだろうと屋敷から出てきた者は目を伏せる。
 その人はこの屋敷に住んでいる者の身内だった。しかしその肩書も今は何の意味も持たない。名前だけのものだ。形骸化してしまった。唯一の肉親だったのに。あれ程仲が良かったのに。もう、あの頃には戻れないらしい。ギリ、と大切なものを失った者は唇を噛む。
 あの屋敷で見たものは、はたして昨晩男が言った通りのものだった。あの後、男に促されるまま街に戻り、適当にとったホテルで一夜を明かした。そして夜の明けきらないうちに屋敷を訪ねたのだ。
 街から離れた場所に建つ屋敷に辿り着く頃には、空は白み始めていた。扉にある古びたノッカーで二回。扉を叩くと、男は数分も待たずに現れた。ようこそ。まぁ上がってよ。親しいものにするような応対。昨晩不法侵入した挙句、大切な同居人にナイフを突き立てた相手にする態度とは、とても思えない。互いに無言で寝室へと向かう。ひどく重たい空気だったように思う。がちゃり。どこか遠いところで開いたような扉の音だった。男はさも当然という風に寝台に腰かける。
 部屋に広がった舞台の配役は、昨晩とはまったく逆のものとなった。唯一変わらないのは寝台に横たわる人物だけ。
 呆然と立ち尽くす相手の身内を置き去りに、男が愛しそうげに真っ白な繭に顔を近付けて何事かを囁く。もぞりと白い繭が身じろぐ。嘘だ。だって、あそこに横たわっている人物は昨晩確かに。なのに、何故。
 シーツが、真新しいものに替えられている。シーツに突き立てた筈のナイフも無くなっている。昨晩の名残など、どこにも無い。寝台の、白い繭から掠れた声がした。舌足らずな声だ。あ、と声が滲む。男がチラとこちらを横目で見た。どう、言ったとおりでしょ。そう、言っているようだった。崩れ落ちそうになる足を叱咤して寝台に近付く。そこにいるのは、紛れもない。世界で一番大事なひと。なのに。その大事なひとは、此方を見て。生まれたての雛鳥のような無垢な瞳で此方を見て、だれ、と。
 そこで、耐えられなくなった。
 考えてみれば、よくあそこまでいったものだと思う。転がるように屋敷を飛び出した後は、行く宛ても無く歩いた。ふらふらと。死人のように。すべてを失ったように。事実、体感としてはそれに等しいだろう。
 相手の身内が出て行ったあと、相手は男に訊く。あれは誰だったの。男は微笑んだまま答える。俺の知り合い。嘘ではない。だがすべてでもない。男には、相手に真実を伝える気は無い。折角の努力を無に帰してしまうかも知れないのに。そう、仲良くね。何も覚えていない相手は男に言う。仲良くねぇ、と相手の言葉を小さく復唱して、男は善処すると笑った。朗らかな、笑みだった。
 相手の心はいつもここに無い。男は思う。すべて忘れてしまってから。いつもどこか遠いところを見ているような気がするのだ。相手が紡ぐ言葉に嘘は無いだろう。男だけに向けて紡がれる言葉たち。それはとても幸せなことだと思う。世界には、自分と相手の二人だけ。満ち足りていた。しかし、と男は思う。ふとした瞬間に訪れる途方もない虚無感は、なんだろう。
 ヒトという生き物は堕ちていく存在なのだ。堕ちていくからこそ求める。堕ちていくからこそ貪る。何もかもを。それは例えば愛であったり、温もりであったり、様々だ。
 だから男も求めた。簡潔に言ってしまえば、ただそれだけの話なのだ。
 月日は淀みなく流れていった。あの小さな街は相変わらず田舎臭さを残して健在している。男は相変わらず毎週金曜日に花屋でありったけの赤薔薇を買って行くし、その後その足であの屋敷に赴いている。街の女たちは未だに噂話を続けていたりする。何ひとつ変わっていないのだ。陽が沈めば月が昇る。月が沈めば陽が昇る。ただ、それを繰り返すだけ。繰り返しているだけ。日常は廻っていく。すべてを置き去りにして。
 あの日見た人が、なぜ泣き出してしまいそうだったのか相手は知らない。知らなくてもいい。男が教えない限り、知ることも無いだろう。あれから相手の身内に会っていないし、きっとこれから先、会うことも無い。風の噂で、相手の身内らしき人物が海に車ごと身を投げたと聞いたが、興味など無かった。自分がいて、相手がいる。それで十分だった。最近会った腐れ縁には、犬猿の仲だったはずなのに何故か心配されてしまった。意味が解らない。自分は今これ以上ないほど幸せだというのに。何故なのだろう。
 男は相手の髪を梳きながら思う。今日も白いシーツで作った繭の中で目覚めた相手は、男を見るとふにゃりと破顔した。窓から射し込む陽の光に融けてしまいそうなほど柔らかな表情だった。男には、かつて教会で見た聖母の微笑にも見えた。否。それ以上のものに。しかし相手には夜が似合うと思う。陽の下も十分に似合うと思うが、男は夜の方が良いと思っている。それは、何故だろう。二人きりだと感じやすいからだろうか。
 今日も男は仕事に出掛ける。働くのは当然のことだ。屋敷のことは相手に任せておけばいい。料理も掃除もそつなくこなす、理想の同居人だ。二人のことを知った大抵ひとは二人の生活を奇異の目で見てきた。だが男が構うことはなかった。幸せのかたちはひとそれぞれなのだから。繰り返される日常は、ひどく穏やかなものだ。誰にも邪魔されることのない平穏。何人も干渉させたりしない。その平穏を乱そうという輩がいるのなら、男は躊躇うことなくその輩の命を奪うことができるだろう。
 とある片田舎の小さな街の外れには森がある。そしてその森の近くには屋敷が建っていた。ある男曰く、その屋敷は檻であり、しあわせのかたちであるらしい。住んでいるのは、たった二人。駆け落ちしたというのが街で定説になっている。そんな屋敷に住んでいる住人の一人は、街の人間も時折目撃している。もう片方の住人は誰も見たことがないという。街に現れた屋敷の住人に訊いてみても笑ってはぐらかされるだけ。しかしその住人が同居人の話を零す時に、ひどく幸せそうな顔をするものだから、街の人間が屋敷のことに深入りすることはなかった。屋敷に住む住人がしあわせのかたちはひとそれぞれなのだと言うし、街の人間もそうだと思っているからだ。だから街の住人は街外れの屋敷に深入りしようとはしない。
 それはやはり月のある晩のこと。白い頸に指が食い込んでいく。しかしそれを止めようとする手は無く、寧ろ放すなといわんばかりの表情が浮かんでいた。言葉は無い。しかし意思を汲むには十分すぎる表情だ。そう、まるで、しあわせそうな。
 けれど朝になれば何事も無かったかのように二人の日常は始まるのだ。寝室の白いシーツが赤く染まったときのように。
 男は思う。この日常はあとどれだけ続くのだろう、と。終わることが怖かった。終わってしまうことが、恐ろしかった。
 そして今日もまた日が昇る。

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