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 斯くて生温い仲良しごっこは終わり国と国は真っ向から向かい合うこととなった。彼らが短い間に築き学んできた事柄はそれを与えてくれたものに最悪のかたちで返すことになったのだった。

 寧ろ今までよくもあれ程穏便に来れたものだと男は今まさに発とうと言う街を見回しながら思う。同胞の古い街並みを多く残したこの街、国を戦火に晒すことは惜しまれるが、仕方のないことだ。友好関係が終わってしまったのだから。向かい合う関係になってしまったのだから。そして自分は軍人で、自分のつくべき国はこの国ではない。変わらない、変えようのない事実に、頭を抱えたくなる。何故。このような展開はよくあるもので、男自身もよく目にし耳にして、実際にその身を投じたこともあることなのに、何故今回に限って迷い戸惑いなんぞが胸の内に生まれ、またぐるぐると渦巻いているのか。一地方の軍事後進国に。軍事先進国と言われている自国に、負ける要素など何処にも無く、ただ単に街の景観だとか文化だとかを守りたいというのなら短期決戦で講和を結べば良いし、そういった場所を極力避けてやればいい。多少ならば壊れてしまったって修復すれば元の風景が戻ってくる。けれどきっと、そうじゃない。そういうことではない。男の中に燻っているのは、もっと原始的で本能的な感情だ。だからといって私情を挟むことを許されることではなく、ぎりと奥歯が軋み手が白くなる。

 車窓から見える風景の流れる速度が上がり、それなりに慣れ親しんだ街が遠ざかっていく。誰にともなく吐き出された言葉は何ものにも拾われることなく空に溶けて消えてしまった。嫌味なほどに澄み切った青に浮かんでいる白のような自由を、これほど望んだことは無いだろう。

 誰が悪いのかと犯人捜しをしても、そこ何の意味が有るのだろか、何も無い。何時かは訪れることだったのだ。錯綜し氾濫する情報の中で、そう結論付けた男が、願わくばこのような展開にならんことをと毎夜密かに祈っていたことは誰もが知らず、知らなくても良いことだった。進む道は茨の道だ。何事も最善の結果になることなど、それこそ奇跡や魔法でもない限り有り得ない。己を含め、誰もが少しずつこの結果になることに加担していたのだろう。無数にある運命の歯車が、嫌な組み合わせと筋書きを組んで廻り始めてしまった。退くことはできない。しかし勝機も雀の涙ほど。早期に講和やら何やらを結んでしまえば壊れるものも失うものも少なく済むだろう。が、その後、この国はきっと名を失い力を失いただの搾取される畑として従属することになるだろう。そうなるくらいならばいっそのこと何も残さず、与えぬよう、完膚なきまでに滅んでしまった方が良いと思うのは、男のエゴなのだろうか。ふと窓から見えた空には白い鳥が浮かんでいた。

 国家の中の、一個人の力などたかが知れている。それが他国の者で、尚且つそれなりの地位を持つ軍人ならば尚更。しかし、そんな男に期待をしていなかったと言えば嘘になる。信じていなかったと言えば、嘘になる。事実その男はこの国に大いに貢献してくれたと言ってもいいだろう。それでもまだ男の祖国には遠く及ばないのだろうが。

 それは、任務だったからだろうか。勿論そうだろう。その言葉は、嘘に塗れていただろうか。嘘を八、真実を二くらいで混ぜ合わせると良いらしい。結果としては全てが全て嘘ではないと言えるだろう。その表情は、繕ったものだったのだろうか。勿論、そういうことには慣れているだろうから、そうなのだろう。きっとこの国でなくても同じように笑い、眉を寄せ、口を開いたはずだ。何もこの国が特別だなんて自惚れてはいけない。

 ありふれた言葉で言うのなら裏切りだ。国内の情報が必要以上に漏れ出し、また反軍国感情を煽られ済し崩し的に、しかしはっきりと対立したのだ。その情報の中には明らかにデマだと分かるものも審議を要するものも本当のことも有り、一般的な庶民は当然、知識層ですら攪乱せざるを得なかった。時間に余裕があったなら、ここまで酷いことにはならなかっただろう。どの新聞が正しいのか。どの雑誌が正しいのか。時間の無かった国では第一権力者の言葉に従うしかなかった。誰もが責められない。誰もが責められる。双方が上手くやっていると思っていたのだから。双方共に、相手と対立することは今はまだ無いだろうと思っていたのだから。

 与えた牙が爪が丸くなっていないことを願う。己に、ひいては己の守るべきものに仇なすものへ向けるための刃が錆びついていないことを。お飾りを求められたわけではない。お飾りとして扱った憶えなどない。ハリボテに何かを守ることなどできはしない。よくて相手を怯ませるくらいだ。相対するならば全力で。手を抜くということは侮辱にして屈辱。騎士としてではなく、人として立てと。

 風が紙の束を捲る。さして興味も無さそうにそれを眺めている男は今日何度目かも知れない溜め息を吐く。頭に入れておくべき事柄も、どうにも入りにくくなっている。これでは駄目だと言うのに。軍人が聞いて呆れる。もう一度あの男に会えないだろうかと考えてしまうが、叶わぬ願いだろう。或いは白兵戦で前線に出られれば、とそこまで考えて男は口元に自嘲を浮かべた。どこまでも私情に塗れていると。いくら結末の見え透いている戦争とはいえナメすぎじゃあないかと。平和ボケしたものだと、今度はとうとう小さな嗤い声が漏れた。たったひとり、想う存在がいるだけでこのザマとは。この調子では命を落としかねない。あぁしかし。それもいいかもしれない。

 悲鳴と怒鳴り声と銃声、轟音。開始直後から優劣は目に見えていた。当たり前だ。あんな短期間の、付け焼刃で軍国と謳われる国を一地方の国が何とかできるわけがない。長期戦になることもないだろう。刃を交えることも、ないだろう。まるで弱い者いじめのようだと誰かが言った。最初から分かっていたことなのに。きっとこの国の名は残らない。歴史の中にのみ残り、現在の地図からは消え去る。土地は周囲の国に分けられ治められることになり、地域によって属する国の名が異なることになるのだろう。小高い丘の上から前線を眺めていた男は眉を顰めた。敵陣の中には見知った顔がある。実践とは程遠い、飯事のような経験しか積んでいないようなあの若者たち。足元が赤く染まりつつある敵陣営はじりじりと後退していく。背を向けて退がらないことは褒めてやりたいが、如何せん此処から離れることはできないし、軍人として私情を挟むなど言語道断だ。早く終わればいい。こんなもの、無意味だ。

 果たしてその戦争は軍国の圧倒的な勝利に終わる。街の中心部まで達することは無くとも焦土と化した、豊かな自然を一望できる丘には、人影がふたつ。傷の手当ても汚れを落とすこともロクにしていないが、凛と気高くふたりは其処に立っていた。多くの血と涙が流された場所を眺めて。嘗て国だった土地の、美しい線を描く壁の中から馬車や蒸気機関車が出て行く。規則的な音。空に響く鳥の鳴き声が静けさを取り戻した地に染みていく。敗者の心など知らぬように。世界は変わりなく廻っているのだと知らせる。黒く焦げ付き、抉れた大地とそこに残されたままの者たち。それをほんの少しの変化で気に留めるまでのことでもないというように時は流れていく。雨を降らせそうな雲がちらほらと何処からか流れ、戦勝を讃える音色が、戦を終えて尚凄惨な場に影を落としては消えていった。

 生き残ってしまった王族は問う。あの時どうしていれば良かったのかと。どうしていればこの惨事を回避することが出来たのだろうと。或いは、こうなってしまったのはやはり自分の所為なのだろうと。

 問われた軍人は答えて言う。あの時はどうしようもなかったのだと。どうしようもなく、この惨事を回避することは出来なかっただろうと。そして、貴方があの混乱の中で理性的でいてくれてよかったと。

 何が嘘で本当なのか分からない中で、自分の選んだものを信じ、語り、伝える姿勢は、容易く煽動され誘導される民衆より芯のあるものだった。それは煽動者にとって邪魔になるもので。その存在を危惧した者たちが万策を練ったことは言うまでもない。そうして結ばれていた手は離れ、取り返しのつかない場所に堕ちた。踏み外した道は、引き返すことは出来ず前に進むしかなく、二度と交わることのないだろう道でもあり、しかし辿り着く場所は同じだった。踏みつけられた草花は二度とその顔を上げることなく土へと還っていく。

 主人を失った犬は、その主人を待ち続けるらしい。では城はどうだろうか。座る者のいなくなった玉座は。戴く者のいない王冠は。護るべきものを失った騎士は。

 影は動き、腰に下げられている細い筒が動いた。美しい白刃が晒される。引き抜いた者は相手の新緑のような双眸を真っ直ぐに見つめて唇を動かした。その言葉に、新緑は大きく丸く見開かれ、しかし対する菫の瞳は常と変らず美しい光を灯していて、新緑は何も言えなくなる。そうして、手を伸ばせば触れ合える距離でふたりは剣を構えて相対する。ひとりは至極悲しげに剣を構え、ひとりは至極辛そうに剣を構えて、古い古い、前時代的な一騎打ちの決闘のかたち。最後に立っているのはひとり。残されるのは、ひとり。何故そんな顔を、と言うものは無く。ひとふ、ふたつ、儀礼的な言葉を交わして、その後。ぽつりと零されたことばは懺悔か、告白か。それにこたえる声は無く、土を蹴る音だけが響いた。金属音、息遣い、足音。泣き出してしまいそうな影を落とす空の下、泣き出してしまいそうな表情をして剣を振るうその姿の、なんと幼げな悲惨なことか。互いに望んでいないことに、仕方ないからと手をつけるような。鋭い金属音。鍛えられた鋼の音。湿った息遣い。薄らと滲む視界。軽やかな足音。一歩進んでは一歩引く足遣い。それを繰り返すこと、流れていく雲の欠片を幾つか見送るほど。その、結果は。鮮やかな花を一輪咲かせ崩れ落ちるものがひとり。事故、ではない。態とでもない。手を抜いたわけでは、もちろんない。では、どうして、などと、そんなこと。一歩引けば、溢れる赤。見事にからだを貫いた白刃にはべったりと赤が付着して、てらてらと光を反射していた。新緑は丸く大きく。目の前の光景を映している。ゆっくりと、静かに頽れていくからだ。それを抱き止めた手に伝わってくるのは、記憶に残っているものよりも低い温度。止まらない流れ。心なしか軽くなっていくその重さ。押さえても、意味は無く。慟哭は音と成らずに虚空へと散る。震える嗚咽は意味を持たない単語ばかり。じわりじわりとぼやけていく視界の中で揺れている、覗き込んだ菫はひどく穏やかで、今までそんな表情を見たことがなかった新緑の瞳は、何故、どうしてという疑問ばかりを雄弁に語っている。弱々しく伸ばされた腕が新緑の雫を拭い、頬を撫でた。その手を必死に掴んで頬に当て続ける。その反応に、少しだけ菫が丸くなった。そして、薄く色付いた、かたちの良い唇が動く。動いて、ゆるりと弧を描く。それを聴いて一瞬呆けた表情を浮かべた新緑の持ち主は、今度こそ絶叫する。閉じられた目蓋。その表情はとてもしあわせそうなもの。流れていく雲。落ちていく雫。残されたのは枯れ落ちた花。立ち上がり去っていくのは、十字のような影が一つ。

 落ちる雫は流れる雫と混ざり合い地を潤す。それは糧となる恵み。勢いは弱まることなく振り続け、視界は狭くなる。誰そ彼などと問う時間帯ではないのに人は影となり個を隠された。その中を男は歩いていく。腕の中に大切なひとを抱えて。自分と同等か、もしくは自分よりも少しばかり体格の良い成人男性を横抱きにして歩くなど、決して楽にできる芸当ではないが、男は気にせずに歩いていく。

 腕の中の男がその高貴な菫を見せることはもう二度とないだろう。それは男自身が望んだこと。文字通りの、最後の我が儘。逃避だと、卑怯だと罵り詰る者が勿論いるだろうが、その願いを図らずも叶えてしまった男はそうは思わなかった。見苦しく生き延びるなど、似合わないと思ったから。このままのうのうと生き永らえるなど、らしくないと思ったから。遅かれ早かれ訪れる死という瞬間。その瞬間を、間近で、ひとりで見られたことが、救いだけれど、まさか自分が与えるものだとは思っていなかった。手に残る感触。胸に残る感情。かたすぎない肉を貫き、伝わってくる鼓動。高潔を奪った後悔と、最愛を奪えた喜び。仄暗い景色。

 重なる日常は交差することがあまりなかった。その時に向こうが何をしているのか知らなかった。知る術も、由も暇もなかった。時折重ねるてのひらは互いの知らないところで互いの知らないものに触れているということを拭おうとするように互いの感触を求める。いくら手の甲に指先に口付けようと欲は満たされず、左の薬指の付け根に首筋に白い脚に噛み傷を残し愛を囁き熱を注いでようやく近くに感じられた。手を伸ばしたものは欲するもの。欲しいのならば手に入れるだけ。地位も名誉もそうやって手に入れてきた。きっとこれからも。

 そして手に入れたからだを、どこへ連れて行こうというのか。街の方でも、自国の方でもない、人気の無い方へ歩みを進めていく。その先には木々の生い茂る森。時々顔を覗かせるのは清楚な白百合、可憐な野薔薇。紛れない個。個は個である以上他と混ざり合い一となることはできない。

 冷たい雫は木の下にいても届き体温を奪っていく。黒い雲の隙間から降り注ぐ雫は太陽の光に照らされてきらきらと輝いている。それが、陽の下に立っていた時の、腕の中の男の色と重なった。色を無くしていく男を見つめるのは、穏やかな、とも形容できそうな力無い新緑。守りたいものがあるということは力の増幅に繋がる。では、その守りたいものを失ってしまえば。小さく零された願いはもう叶わない。今までだって聞き入れられた願いではないのに。ひどいひとだ、と。しかし、らいよなぁとも思う。向こうから仕掛けて来てくれたことなど殆どなく、あったとしても分かり辛いもので、おそらくごく少数の者にしか分からなかった。分からなかったし、分からなくていいと思った。寧ろ自分以外気付かなくても良いと。以前は特に気にかかることが少なかったが、こうしてみると自分は独占欲が強いのかもしれない。現に、これでずっと、誰の目にも触れることもなく一緒に居られると思っている自分がいるのだから。地位や肩書きを失って、国を抜けてもいいと。そうして誰も知らぬ土地で過ごそうと。思いながら考えながら歩き続けて、視界が広くなった場所で、男は歩を止める。

 ぽっかりと開けた森の広場の中央に腰を下ろし、改めて腕の中に視線を落とす。無機物のような冷たさ、白さ。穏やかな表情。どれも知らないもの、見慣れないもの。そうなる前に、いとしいひとは言った。どうかその手で奪い、看取ってくれと、あいする声で瞳で言ったのだ。

 たとえば街の片隅に在る公園のベンチで語らったり、娯楽施設のやわらかな客席で交わす談笑。雨の日に見た潮の騒めきや晴れた日に歩いた海岸。冷たく濡れた手のぬくもり。

 何もかも、どれもこれもまだしていないことばかりなのに、したかったことなのに、それらは叶うことなく滲み消えていってしまう。浪漫的な、けれど至極恋人のような細やかな願い。それすらも許されない世界。もう少し時間が在れば。或いは、こんな筋書きでは無かったら。問いかけてみたところで返事は当然なく、凪いだ声は静かな森に紛れてしまう。深く大きく広がる森は外界からの喧騒を殆ど通さずにいきものたちの安寧を守る。何気ないことがありがたく思えた。降り注ぐ雫に打たれる草花は頭を垂れ、乾いた大地はその色を濃いものへと変えていく。

 世界的に見て、そこまで大きくもなく重要でもない戦禍の火の中に消えたものは数知れず。その中には敵も味方も入り混じっており、未だに全員を特定するに至っていない。敗国の王族は皆行方知れずとなり、死亡したのではないかという噂が飛び交っている。勝国の被害は少ないものだが、それでも有望な人材を幾らか失った。遺体が見つかっていない者もいるが、態々捜されたりしないのが普通だ。一段落したところで帳尻を合わせていくのだろう。そうして片され、残るものは荒廃し殺伐とした過去の栄華。帰ってくるものはおらず、ただ時に抱かれ風に包まれ朽ち果てていくのを静かに待つのみ。空をいく雲は白砂に影を落とし草花に冷たい雨を落として何処へともなく流れていく。凋落した花は踏まれ砕かれ忘れられて土へと還る。開かれていた門は閉ざされ、その錠は錆び付く。隔たれた世界はしあわせな箱庭たり得るのだろうか。鈍く煌めく貴石。滑らかな白磁はどこまでも冷たく。溢れる想いはすくわれることなく。零された言葉は決別にして決意。表舞台から去った役者が次に立つ舞台は果たしてどこなのだろうか。

​BGM:劔、花冠、青紫(天野月子)

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