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 かつ、と軍靴が床を捉える。
 ひらりと挙げられ、軽やかに振られる手と何処か皮肉気に上がった口角を見とめて、目的の部屋に向かって前進していたものは歩みを止める。
「よう、海のデカいの」
「貴方は、」
夜空に憧れた海の色をした髪から覗く右目が、少しだけ細められる。
「シュトゥーカ…シュトゥルツカンプフルークツォイクさん――否、ユンカースさんと言った方が、適切でしょうか」
「へぇ、態々そんな長ったらしい名前まで憶えてくれてんの」
「貴方も召集されたのでしょう? 同席する方の名前を頭に入れておくのは、普通のことだと思っていましたが…違ったのでしょうか?」
「生真面目なこって」
今度こそ、隠すことなく浮かべられた笑みに細められていた右目は閉じられ弧を描く。かくりと小さく首を傾げた所為で、左目を隠すように伸ばされた左右非対称な前髪が揺れる。鮮烈な梔子色が消え、滑らかな白い肌と艶やかな夜の海、ざっくりとした迷彩なのか傷なのかよく判らない色が残る。
「そうそう。生真面目っつったら、お前らンとこの御嬢様はどうした? 姿が見えねぇけど」
ひたりと凍りつくような笑顔を前にして、怯む事無く言葉を続ける。
「アレか? 御家で御留守番でもしてらっしゃるのか?」
にやりと鼻に付くような笑顔を向けられ、ぴんと空気は張り詰める。
「それとも――宰相の犬らしく御主人様の御傍にってか?」
大袈裟に肩を竦めてみせるものは、相手の胸の内を窺うように昼下がりの陽だまりのような目を細めて自分の双眸よりも高い位置に在る、白に隠された隻眼の梔子を覗き込もうとする。
「少し、静かにしていただけませんか?」
「お前らもイイ趣味してるよな。なんて言うんだっけ?ロリコンだっけか? なぁ、」
「――沈めますよ?」
言葉と共に、がしょりと言う不吉な音。それは砲の動く音によく似ていて、開かれても未だ薄く弧を描いている梔子の中にぼんやりと灯っている影を見とめ、僅かに後ずさる。
「というか貴方、ロリコンのロリータの範囲分かってますか? 十歳から十四、五歳くらいの少女のことですよ?」
妙に――妙にズレたところを指摘されて、がくりと肩が下がる。どうやら相手は予想とはまったく違う方向に唇を尖らせていたらしく、真剣に相手の出方を伺い気を張っていた自分が馬鹿らしくなり、警戒を完全に解いたものは盛大に溜め息を吐いて相手を見る。
「ねぇ貴方、沈みたいんですか?」
唇をへの字にして至極真面目に訊いてくるその内容と雰囲気の差に少なからず疲れを感じたものは両手を力無く挙げ、結構だと言わんばかりに振る。
「量産体制の俺たちみたいなのは少数派なお前らとは違うの。此処で俺を墜としたって意味ねーよ」
「それでも痛みは感じられるのでしょう? 貴方がやめてくださいと乞うまで、何度でも繰り返し、沈めて差し上げてもいいんですよ?」
「――…あの白いのと言いお前と言い、海のヤツらってなんでそんなんなんだ?」
至極真面目に訊く側が変わる。丸くなった梔子の瞳は穏やかな陽光の双眸を捉えている。そうして、何かを思い出そうと考えている素振りをしてから、縦にひとつ首を振る。さら、と少し硬そうな髪が揺れ、長い軍服の裾が微かな音をたてる。
「白い……シャルンホルストですね。会ったんですか」
「エントランスですれ違っただけだよ。あの阿媽こっちに絶対気付いてたぜ…軽く挨拶でもしてやろうかと思ったのに会釈もせずにシカト決めて歩いて行きやがった」
「はぁ…それは……」
「あいつって誰に対してもあぁなのか?」
「誰に対しても…というより、あれは好みとかじゃないでしょうか……僕も時々無視されます」
なんででしょうね、と苦笑を浮かべる相手に、そんなこと分かる筈も知る筈も無いものは同じような表情と言葉を返すしかない。ふたり揃って、むむむ、なんて唸り声を上げる。紅い道――毛足の短い臙脂の絨毯が敷かれた廊下の真ん中で立ち止まっているふたりの背後から聞こえてきたのは、規則的で硬質な音。こつこつと言う音と、そこに混じるかちゃりかちゃりと言う金属音。
「なんだお前たち――何時の間にそんなに仲良くなったんだ」
「あ、こんなところに居たんですか貴方は!」
次いで聞こえてきたのはよく聞き慣れた声。それが自分たちと同じように、此処に召集されたものの声だと知っているものは勢いよくそちらに視線を遣る。
「仲良くなんてなってないです!」
「誰が!仲良くなんてなるかよ!」
そしてほぼ同時に否定の声を上げる。あまりに綺麗に重なったふたつの声と言葉に、ぱちぱちと瞬く双眸もまたふたつ。
 黄金を薄く引き伸ばしたような白金の髪と陽だまりに溜まった陽光のような双眸を持つものの隣には、同じく黄金を薄く引き伸ばしたような――しかし此方には少しばかり赤みが有る――髪と夕焼けに照らされた若葉のような双眸を持つものが立ち、ふたりの向かい側には深い夜の海と昏い夜の空を思わせるような髪と梔子の右目と煌めく瑠璃の左目を持つものたちが立っている。伸ばした前髪と斜めに被った帽子で隠した――故意的に隠しているのかどうかは判らないが――目は示し合わせたように逆のもので、先程まで梔子の右目を持つものと話していたものは、どちらか一方となら兎も角、ふたり揃われると――しかもこのふたり大抵の場合並んでいる為、より――そこがどうにも気になってしまう。
「この子の相手をしてくれていたらしいな。礼を言う。何か無礼を働かなかっただろうか」
「違いますー向こうが絡んできたんですー僕が相手してたんですー」
詰まらなさそうに唇を尖らせて、からだの前で組んだ指を動かしているものに横から突っ込みが入る。静かに、しかし確実に脇腹へと入った肘鉄に前屈みになって震えている。
「あー、いえ。こちらこそ、ご迷惑をお掛けしましたようで…」
「違ぇし。ご迷惑とか掛けてねぇし。海のヤツら程ガラ悪くねぇし」
不満気にあらぬ方を向いて悪態を吐くものの足の甲に、隣で眉を下げていたものが表情はそのままで思いっきり脚を振り下ろす。ぎゅり、と革の擦れる音がして、不満気だった顔が痛みに歪む。文句を言おうと非難がましい目を向けるが、隣のものが纏う有無を言わせない雰囲気に何も言えなくなる。
「………空のものたちには世話になることだろうし、宜しくしてやってくれ」
「……えぇ。私たちとしても、協力出来るところは全力で協力したいと思っています」
各部の痛みに悶えている隣を置いてふたりは真面目な顔をして話し続ける。
「ですが、今の状況を見る限り、あまり期待はしない方が良いでしょう。くだらない矜持の為に必要な時に必要な支援が行えないなんてこと――あってはならないのに、あるのでしょうから」
「……それは、あぁ。勿論承知している。しかし、だからこそ、その言葉が嬉しい」
「貴女はこの国の希望と言っても過言では無いのです。壊される筈が無い等と思い上がらずに、協力体制を整えておくのが当然でしょうに」
「自惚れはしないつもりだがな…大人らしく歩み寄りを見せても良いだろうに」
「自惚れるだなんて、乗組員や佐官将官がしても貴女がするとは考え難いですよ」
「…私は空の優等生になかなか高い評価を貰っているようだ」
どこ寂しげに悲しげにそんな会話をしていたふたりは会釈をして別れる。その後に付いていくものたちは互いを一瞥するだけ。梔子の実と楓の蜜が交錯して散る。
 召集され、指定された部屋に入るまではまだ時間がある。
「――ところで、どうしてあのひとと一緒に居たんです?」
ならば一旦与えられた控室に向かおうという道中、ふとした疑問を零す。
「あぁ、此処へ来た時偶々会ってな。少し世間話をしていた」
それぞれ違う場所から思い思いの道を使い集まったものたちは、普段顔を合わせることはあっても話す機会があまり無い為、自由に使える時間を持てるこのような時に言葉を交わすことを、度々する。今回もそのひとつなのだろう。やはり途中で合流して来れば良かったかもしれないと胸中で爪を噛んでいるものを――読心が出来るわけではないから当然だが――おいて、隣を往くものは変わらない速度で歩く。
「……そう、ですか」
「不満気だな」
「まぁ、貴女の姿を一番に見たいですからね」
「何を馬鹿な――近いうちに同じ港に入るだろう?」
「それは…そうですけど……滅多に無いじゃないですか。こうして余裕を持って、ほぼ私的に会える機会なんて…だから、いいじゃないですか」
ぷぅと頬を膨らませて見せるものに微苦笑を浮かべる。
臙脂のやわらかな道を往くふたりの前方に揺らめく白が現れる。それを視認したもの――梔子の右目を持つものは立ち止まり、短く声を上げた。釣られるようにして梔子が向けられている方を見た瑠璃もまた、同じように短く声を漏らす。その視線の先、窓から射し込む光に照らされ、輪郭を曖昧にしている前方のものもまた、同じようにふたりを見とめたらしく、僅かな時間その場で動きを止める。そして踵をつかつかと鳴らして近付いてくる。その速度は明らかに今まで出していた速度よりも速い。真っ直ぐに、並んで立ち止まっているふたりに近付いて――と言うよりも、猛然と突っ込んでくる。色素の薄い瞳が映しているのは、瑠璃の双眸。
「宰相――あぁ、宰相じゃあないですか……」
うっそりと、卯の花色の双眸が細められ、ほっそりとした白い手が伸ばされる。ふたりと同じように白く上等な布に包まれたその手が向かうのは、自分のそれよりも一回り程小さく細い手。流れるような所作で、掬い上げるように包み込むように捉えられた手の持ち主は困ったような表情を浮かべ――そのまま引き寄せられて腕の中に閉じ込められた。他のものとは明らかに趣を異とする、純白の衣装を纏った至極女性らしい曲線。ぎゅうぎゅうと抱き締められているものを、呆然と見ていることしか出来ていなかったものは開いたままだった瞳を漸く瞬かせる。
「――って、何してるんですか貴女は!」
「………あら。うふ。あなた…居たのね」
緩めていた頬はそのままに、ぐるんと首を声の方へ向ける。色の抜け落ちた、絹の様な髪の合間から覗く双眸はわらっていない。
「まぁ総員召集だから――そうよね。あなたも居るわよね」
お気に入りのぬいぐるみを大事そうに抱え込む無垢な少女のような姿。
「そうですよ。総員召集。空から海まで、全員が召集される」
言葉を聞いているのかいないのか、熱に浮かされたように茫洋と囁く。
「うふふ。かわいい。可愛らしい、わたしたちの宰相――ねぇ宰相、処女航海の際には勿論わたしを連れて行ってくれるのでしょう? 初めてなんですから、わたしがその手を牽きましょう」
「――…っぷは!苦しい! おい長いぞ!」
「あら……あらあら。ごめんなさい」
やわらかな檻から漸く顔を上げたものは話を聞いているどころでは無かったらしく、平時よりも幾分か瞳を潤ませて自分を閉じ込めていたものを見上げる。完全には解放されていないが先程よりはからだに余裕が持てるようになっている。
「……というか、一体いきなり何なんだ」
「うふふ。申し訳ありません。あなたの姿が見えたものですから」
「わけがわからない」
「そういえばユンカースさんに会ったらしいですね?」
思い出したように梔子が卯の花を見る。僅かに――眉が下げられたことによって――寄せられた眉間の皺を知ってか知らずか、ほんの少しも表情を変えずにやわらかそうな唇は動く。
「あぁ――あぁ、そういえばそんなひとを見たような見なかったような」
一握りどころか一滴の悪気も無く言い切る、その清々しさ。纏う白の中ではどれだけの色が混ざり合っているのだろうと、思った。どうにも――自分の興味が向いた相手にしか私的な反応を示さない、らしい。軽い無視をされたりはするが、問い掛けに答えられている辺り、興味を全く持たれていないわけでは無いと言うことは判るのだが、それを喜んで良いのかどうなのかは――いまいち判らない。人知れず頭上に疑問符を浮かべていると、何やら慌ただしい足音が聞こえてくる。
「あぁ、姉さん!此処に居たんですね…!」
「あら…うふ。なぁに?」
ふたりの後方――卯の花の前方から、武骨な軍靴の音を引き連れて現れたのは左右に特徴的な装飾を吊るした軍帽を被った素色の双眸を持つもの。額に薄く滲んだ汗を拭って一息吐いたものは、改めてさんにんを視界に捉え、これまた慌ただしく衣服や姿勢を正す。
「こ、これは失礼いたしました! まさかおふたりがいらっしゃるとは……大変お見苦しいところを、申し訳ありません」
背筋を伸ばして踵を揃えて模範的な挨拶。やや目深になった軍帽から覗く朱は微笑ましい色。
「いや――構わない。姉を呼びに来たのだろう?」
「っ、はい。姉――シャルンホルスト級巡洋戦艦一番艦シャルンホルストに私、シャルンホルスト級巡洋戦艦二番艦グナイゼナウ共々呼び出しがあったものですから、」
「あらあら…それは何とも、面白くなさそうな話題ねぇ……あなたはもっと姉想いの用事――そうね、一緒に休暇が取れたから遠出しようとか、美味しくてお洒落なお店を見つけたから一緒に行こうとか、そんな感じの用事で走ってきてはくれないのかしら?」
「うっ……無茶言わないで下さいよ、この御時世で」
「あら、残念。わたしはこんなにあなたを想っているのに」
腕の中にお気に入りを閉じ込めたまま言い放つ。素色に影が落ちる。
「俺――私だって、姉として唯一の存在として貴女を想っていますよ……けど!」
「うふふ。知っているわ」
「――、貴女ってひとは本当に…!」
「それじゃあ後でまた会いましょう。わたしたちの宰相」
俯き頭を抱えているものを置いて、目蓋と掬い上げた手の甲に唇を落として純白のものは踵を返して先程報せが走って来た方へと軍服の裾を遊ばせながら歩いて往く。やわらかな感触とあたたかな温度を仄かに残して去って往ったものを、呆然と見つめることしか出来ないもの。嵐に見舞われたような、あっという間の出来事に、梔子は丸くなっている、そのまま。
「……あ、あ! ちょっと待って下さいよ!置いてくなんて! ちょっと!」
ふたりを現実に引き戻したのは唐突に上げられた声と再び床を蹴り駆けていく軍靴の音。
「え、えーと…大丈夫、ですか?」
「あ、あぁ。それで、部屋に往くのだろう…?」
たっぷり数分は取り残されていたふたり。漸く音を発したものは徐々に広がっていく朱を隠すようにそそくさと歩を進める。二歩と半歩ほど遅れること、その背を追うものが動く。
そうして辿り着いた――相も変わらず敷き詰められた毛足の短い臙脂の絨毯を踏み締め、結局何か言葉を交わすことも無く、一枚の扉の前に立ち金のドアノブを回して入室した――部屋に漂うのは、勿論あたたかな穏やかな、微笑ましい空気。どちらが頼んだわけでも無いが自然と珈琲を淹れるものと茶菓子を出すものに分かれて――そしてやはり手際良く用意して――席に就く。ふわふわと漂う香ばしい匂いと仄かに甘く溶ける匂い。部屋に置かれた時計の針が等間隔に時を叩き奏でる音を聞きながら

豪奢な建物の中で、国の為に造られたものたちが集い、忠誠を誓い、これからどう動くべきかの指示を受け、各々が持ち場に戻ろうと動いている、丁度その時のこと。進水式を終えたばかりの比較的若いふたりは、軍服に提げられた勲章の数に見合うような恰幅の良い、老年の陸軍将官と相見えていた。品定めするように、舐め回すようにふたりを眺めているその双眸に対して、観察されていたものの、高い位置に在る梔子色の瞳が隠すことなく不快感を示す。
「――何か、御用ですか」
眉間に皺を寄せる、自分より背の高いものに怯むことなどせず、将官は口角を上げる。
「ふむ――お前たちが、例の」
「そうですが、御用は何でしょうか。陸軍の将官殿が私たちに御声をかけるなんて、余程の件が有るのだと、お見受けしましたが」
牙を剥き地を蹴り、今にも目の前の肉塊に襲い掛からんとする、獣のような剣呑さを色濃く浮かび上がらせた梔子の持ち主は一歩前に出る。長い軍服の裾が小さな衣擦れの音をたてた。その、明確な威圧を軽く受け流して、陸軍将官は梔子に守られるような位置に佇む華奢な矮躯に目を向ける。眼下に、やわらかそうな昏い色の髪が見える。軍帽を斜めに浅く被っている所為で、はっきりとした表情は分からないが、そんなことを気に掛けること無く陸軍将官は続ける。
「なに。大したことではない。ただ、お前の――あぁ、失敬。お前たちのような何の役にも立たない浮かぶ鉄屑が、しかもこんな小娘が、この国の生みの親と言っても過言では無いあの鉄血宰相の名を持つなど、片腹痛いと同時にあの鉄血宰相への侮辱であると、そう思っただけだ」
陸を行く者は、唇を歪めて、言う。
「その名を汚さぬうちに返上することだ。所詮お飾りに過ぎん。お前に期待など、誰もしていない」
「貴様…ッ!!」
「――やめろ、」
隠されもしない嘲笑に今度こそ、その喉笛を噛み千切らんと大きくからだを傾けたものを止めたのは、他の何ものでもない。今までその隣に佇み沈黙を守っていたものだった。腕を伸ばし、ふたりの間に静かに割って入る。入れ替わるように前に出たそのものが纏う軍服の丈は短く、紺青の布と相俟って、ゆらりと揺れるたびにそこから伸びる、膝上まである軍靴に包まれた、白い二本の脚がやけに艶めかしく見える。
「……確かに、昔から――否、この国の基盤となった国の時代から、此処は陸軍国家だったそうですから、私たち…海軍がそのような評価をされていても、仕方のないことでしょう」
「ほう。自分たちが見かけ倒しのハリボテに過ぎないということが、そこの海軍元帥殿とは違って、鉄血宰相殿はよく解っているようではないですか」
見下ろされているものは、自分を見下ろしている者の双眸を真っ直ぐに見上げる。
「しかし」
夜の海に星屑を撒いたような瞳は、おそろしいほど凪いでいる。
「果たして陸軍だけで、空軍だけで、この地――祖国の地を護り切れると、言い切れるでしょうか?」
静謐な、一点の曇りも無い硝子玉のような眼。
「確かに、私たちは維持されるために莫大な財源を必要とします。時間を、技術を、資材を、場所を必要とします」
「な、にを、」
そんな双眸に真正面から縫い止められた陸軍将官は、僅かに後ずさる。
「そんな私たちが無用であるか、無駄であるか――それとも、意義のある、必要なものであるのか、決めるのは祖国です。貴方や、貴方のような、一個人の人間では、ありません」
決して大きくは無いが、凛とした声音で以て言い切られ、小さな体躯に気圧された哀れな男は蹴躓き、無様にも床に背後から倒れ込むかたちとなる。じゃらじゃらと、金属の擦れ合う音。既に殆どの出席者が退室してしまった室内に残っている人影は少ないが、それでもその音と姿は人目を集めた。先程とは真逆――見上げるかたちになった双眸は、その色、印象そのままに冷たく男を見下ろしている。頭に、斜めに乗せられている軍帽の中、上からでは見えなかった、その顔の全貌がよく見える。ぴくりとも動かない柳眉も、嗜虐的なそれとは明らかに違う、冷たい視線を寄越す冷徹な双眸も、淡々と言葉を吐き出していた、かたちのいい唇も、白く滑らかな頬も、すべて。それは、見れば見る程人形のように、至極整ったつくりをしている。国の力を集めてつくられたものなのだから、それは当然なのだろうが、それでも、人間では到底及ぶことの出来ないうつくしさだと、思った。
「――クソ、鉄屑風情が…!」
しかしそれを面に出すこと無く、よろよろと立ち上がった男は捨て台詞じみた悪態を吐いてふたりに背を向け去って行く。残されたふたりも、自分たちの持ち場に戻ろうと扉に向かう。
「…まったく、失礼な方でしたね!」
これだから陸のひとたちは嫌なんです会いたくないんですと唇を尖らせるものに、帽子を軽く被り直したものは苦笑する。並んで歩くふたりの歩幅が、その身長差にも関わらずあまり変わらないのは、どちらかがどちらかに合わせている為なのか、それとも元々同じだからなのか、分かるものも知っているものも、この場にはいない。
「お前は少し、血の気が多すぎるな」
「だってそれは!」
「それは?」
「……貴女が、要らないと、言われたから」
「………ほう。自分ではなく、私の為だと?」
「悔しくないんですか?お飾りだのハリボテだの言われた挙句、要らないなんて言われて!」
思わず立ち止まって声を上げた隣のものに釣られるように歩を止め、その顔を見上げる。幾分か丸くなった煌めく光の粒を閉じ込めた母なる海は、黄昏のように仄かな哀しみを滲ませた陽光を見詰め、それから少しして、細められる。不思議と懐かしさを感じさせるその眼差しに勢いを殺されたものは、ついぽかんとその双眸を覗き込むようにして言葉を止める。そうして再び歩き出したその背を、取り残されかけたものは慌てて追う。
「そういうことは――そうだな。確かに堪えるものがある」
「でしょう?」
その、可憐な外見に似つかわしくない口調。
「でも私は、」
未だ、性差さえ顕著に現れていないからだ。
「お前が、私の為にそう思ってくれるだけで十分だよ」
いつもよりやわらかに感じられる声でそう言い、華奢なその双肩には大きすぎる国の未来を一欠片乗せているのだろうものは、速度を緩めることなく歩いて往く。普通のそれとは違い、爪先を護るように金属が備えられた、重たげな軍靴を鳴らし、持ち場の方へ戻って往く。
「そういえば、あの子から宣誓状貰ったんですって?」
「あぁ、やけに時代ものめかした、な」
言葉と共に少しだけ口元を綻ばせる。
「む…ズルいです」
「なんだ?お前も欲しいのか?」
「違います!欲しいんじゃなくて、僕も貴女に誓いたいんです!」
「ふ、はは、なんだそれは」
片や唇を尖らせ、片や仕様の無さそうに眉をハの字に下げ、歩いて往く。
 その途中、立ち止まった所為で前後に小さく揺れた長い軍服の丈を気にすること無く、半歩ほど前で揺れていた手を握る。
「それじゃあここで、非公式で私的極まりないものになりますけど、誓わせてください」
突然のことに、振り向いたその双眸はパチパチと瞬かれている。
「貴女に、誓わせてください」
そう言い、手を取ったまま跪く海軍元帥の名を負うものを、未だ呆然と取り残されている鉄血宰相の名を負うものは止められない。右から左へと、音が時間が流れ去って行く。目の前に跪いているものが何と言っているのか、その言葉が何を意味するのか、わからない。理解する前に、儚い泡のように消えていく。そうしてどれほど経ったのか。意識は手の甲に落とされたやわらかな感触で、すべての感覚が急激に引き戻される。炯と輝く梔子と潤んだ瑠璃がかち合う。
「な、な、な――何、を…!」
ようやく表情を変え、音を発するに至ったものは、力任せに手を振り解いて、じり、と後ずさる。先程まで白かった肌は仄かに朱く色付いている。
「これで貴女は、僕の――否、私の主、ですね……なんて…ふふ、」
「ばっ、馬鹿じゃないのか、お前は…!!」
ふにゃりと破顔した、その締まりの無い顔を抓ろうとしたのだろう、伸ばされた手を、表情に見合わず素早い動作で掴んで引き寄せた。腕の中に閉じ込めて、耳元で囁く。その声音は微かに震えている。
「叶うなら、ずっと傍に居させてください。守らせてください」
息を呑む。
「そしてどうか――僕のことを、憶えていてください」
歪み、滲んだ視界はどちらのものだったのか。
生まれ落ちた場所よりも、北に在る港にて、並び立つ。もう二度と会うことは出来ない気がした。本能的で、直感的なものだった。外洋での任務を与えられたものと、未だ不完全故に北方の海に留まることを命じられたもの。現在の戦況は決して芳しいものでは無く、退く事も進む事も儘ならない。
そうして時は流れ、その瞬間はやって来る。
「内部に異常は無いな――?!」
「馬鹿者!冷静に迅速に行動しろ――貴様ら瓦落苦多人形じゃあないだろう?!」
「艦内に見慣れない乗組員だァ…?! そんなわけあるか!」
あちらこちらから聞こえてくる怒声は――しかし何処か楽しげなもので、極力人目に付かないように顔を覗かせたものは口元を緩める。艦上の活気が希望となる。艦内の熱気が動力となる。ひとりでは何も出来ず、何にもならないけれど、ひとりでなければ可能性は際限なく広がるのだ。
「確認は終わったか?!報告をしろ!不備の見落としは無いか?!」
予定よりも幾分か早まった出立の為、迅速にその内部の調整をした後、最後の確認――それは準備とも言うのだろう――を終えたそれは、遂に往くべき場所へと、熟すべき任務へと赴く一歩を踏み出す。与えられた名と姿に恥じぬ厳格な訓練の風景は正にあの軍事国家のもので。
 同行する筈だった軍国出身の軍制改革者にして参謀本部初代参謀総長の名を冠する純白の戦艦は機関の故障故に軍港に留まり、また前者と同じく軍制改革者であり軍国の陸軍元帥である者の名を冠する戦艦は件の軍港にて受けた攻撃の損傷個所を修理する為欠席せざるを得ず、誇り高き鉄血宰相は同胞の国出身の貴族にして名高い軍人の名を持つ重巡洋艦と行動を共にすることになった。無念の言葉とも惜別の言葉ともつかない言葉たち――特に純白の美しい姿を持つものからのそれは熱が籠っていた――を贈られ、春の海に踏み入っていく。きらきらと光る青と、ゆらゆらと漂う白。
「もし――そこのお方」
「?」
「よろしければ、少し手をお貸し頂けないでしょうか」
「あぁ――勿論、構わない。喜んで手を貸そう」
道中、人助けをしたりして風と戯れながら、波に馴染みながら進む。跳ねる飛沫。流れる泡沫。踊る魚たち。その視界に映り込むものは全部――初めて自身の目で臨む世界は耳にするよりも広く美しく、また厳しいものであった。
 どうしても海からでは目が行き届かず、対応と確認が遅れてしまう場所――空からの襲撃を警戒して、空で任に着くものの中でも優等生と言われている刀鍛冶師が、その茜空の下に生きる若草の瞳で世界を睥睨している。流石に失ってはいけないものだと言うことが、仲の良くない上の者たちにも理解出来ているらしい。前回とは違い、刀鍛冶師と言葉を交わす機会も時間も少なかった。結局会話らしい会話と言うものが出来たのは最後の最後辺りだった。其処を発つ、別れ際に贈られた言葉の声音と表情――ゆるゆると頭を振る、淡い炎のような光を湛えた若葉や下げられた柳眉なんか――がやけに不安気なもので、つい此方も眉を下げて答えたことを憶えている。
 これは至極当然とも言えるが、その名と姿から砲を向け合うものたちから警戒されていた鉄血宰相は、そろそろ夏めいてきた頃の早朝、敵方――英国の淑女と王太子に捉えられる。
 悠然と、気高く誂えられた衣装の裾を揺らし、余裕の微笑を以て自分よりもずっと若く初々しい宰相を見据えている。傍に控える王太子は偉大な淑女の影に隠れるようにして好奇心に満ちた瞳で目の前に現れた初めての相手を凝視している。交わされる囁きは勝利を確信している音を持っている。

(以下、未完部。ながれていくものへの流用有)

大した間も置かずに放たれ始める砲撃に、波は高く白く唸りを上げる。しかしこの時英国の淑女が砲撃していたのは鉄血宰相ではなく、その御付きの貴族軍人であった。数分か、或いは数時間か。勘違いをされたまま、したまま時間が経っていく。その間に縮まっていく両陣営の距離。そうして互いの距離が随分と狭まった頃、艦長の命を受けた鉄血宰相は満を持してその牙を敵――英国の淑女に向ける。轟いた砲声は、それこそ百獣を統べるものの咆哮にも聞こえただろう。ふたりの決着は、鉄血宰相が放った、五回目の斉射に着いた。
その第五斉射の結果、遭遇から一時間もしないうちに鉄血宰相は美の極致を持つと謳われた英国の誇る世界最強の淑女を海の藻屑へと還した。最期の最後に一矢報おうと言うのか、死の間際において気高く咆哮を上げるも、そのからだの一部も後世に残すこと無く消えた英国の淑女を想う敵陣営の感傷は如何ばかりか。自分の身に起こり得ないことでは無いと、凄絶なその光景を目にしたものたちは息を呑む。そしてまた、王太子からの砲撃を受けていた宰相はそのからだに大きな穴を開け、多量の海水を流れ込ませていた。応急的な対策を施したが――淑女を奪われた敵からの報復が必ず来るであろうことは容易に想像がつくことから――療養は急がれる。鉄血宰相は忠実な御付きと別れ、このような海上と比べれば格段に安全な港を目指す。通り過ぎて行くその後には点々と、しかしはっきりと、その足跡が残る。溢れ流れ出続けている液体をその場で止める術など生憎持ち合わせていなかった。流れ込んだ海水の重さに前屈みになりながら、その歩幅を狭めながら、ひたと走り続ける。未だ敵に追われていることは明白だった。そして、その日付が後どれ程で変わろうかと言う頃、再びあの咆哮――しかし今度の咆哮は、同じく海の上に居るものへ向けられたものでは無く、空からの、招かれざるものたちへ向けられたもの――が響く。敵を迎撃しようと牙を剥きつつ、攻撃を避けようと動く。その結果、その戦闘での被害を被ることは無かったが――前の戦闘での傷口は広がり、そのからだに掛かる負荷は増した。そしてその傷と、それに対する対応が、命運を分けた。
その存在を知っている者は――例えそれがそのものを造った者たちであろうと、今此処で生活している者たちであろうと――少ない。それが人前に姿を現すことが滅多に無い為である。しかし決して居ないわけではない。何時だって何処か――割かし近い処に居るのだ。そう、今現在のように。
 人気の無い、おそらく滅多に人目には付かないであろう場所で床に膝を突き、からだを折り曲げ赤の溢れる首筋を手で押さえ嫌な汗の浮かぶ額を床に触れ合わせている。限られた者しか容易に入ることを許されない故、人の目に付き難い場所と言った時に、千を超える者たちが居る此処において、即座に脳裏に浮かんだのは、この場所、士官室だった。壮年の男性が部屋の隅を見遣る。
「――大丈夫、なのか」
かけられた声に、拾われてきた警戒心の強い猫のように部屋の隅でからだを丸めていたものは、掠れた声で以て応える。
「…、あぁ、まだ、まだ大丈夫、だ。まだ、行ける」
小さく震えている、一見しただけではその性別すら判らない、未成熟とも言えるからだにどれだけの痛みが走っているのだろうと男は目を細める。そんな胸中を読み取ったのか、確固たる意志を孕んだ声と言葉が続けられる。
「こんなところで散るわけにはいかない。こんなところで終わるわけにはいかない――そうだろう?」
翳りを見せた青い瞳を、煌めく瑠璃の瞳が捉える。
「私は、まだ、任務を完遂していないのだから」
そして苦しげに眉を寄せ、かふ、と苦しげに咽たものは細く深呼吸をして立ち上がる。首元や四肢は赤く、ぬめりと光を返していて、とても軽傷に見ることは出来ないが、床に手を突き立ち上がったものはズレてしまった帽子を取り、解れた髪を整えていつものように被り直す。右目を隠すように斜めに浅く、被ると言うより乗せると表現した方がいいような、特徴的な被り方。凛と立つものは口元の赤を拭う。
「もしも万が一の時は、そうだな――構わず切り捨ててくれて構わない」
「何を、言っているんだ」
「……今此処に居る者たちは若い者が多い。多過ぎるくらいに。まだ先の永い彼らを優先するのは、当然だろう? 私が消えたとしても、彼らさえ生き延びてくれれば、それで国の為になる。私のようなものに態々命を懸けるなんてことは、勿論お前も、してくれなくていい」
「それは…、お前を捨てて生き延びろと、そういうことか?」
その問いに答える声は無く、ひとつ首を縦に振られる。不運にも、既に此処でその一生を終えてしまった者も居るのだが――それ以上増えないことを、叶うことは無いのだろうが、切に願っているらしいというのは、その声音や表情から読み取れる。悲哀によく似た表情を浮かべた男は続けて訊く。
「………君は私たちを…否、私を恨んでいるか? 女性形代名詞ではなく、男性形代名詞で呼ばせ、その存在を、そう扱ったことを」
「何故」
本当に、不思議そうな視線が男を捉える。
「そもそも戦場とは、ありとあらゆる意味で女性が立つべき場ではない」
きらきらと輝いている双眸は何時か見上げた夜空のようで。
「それに、元々この名前――ビスマルクとは、オットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼンという、偉大な鉄血宰相である男性の名だ」
ゆらゆらと揺蕩う穏やかな光はあの日眺めた海洋のようで。
「……それと、ひとつ。付け加えておくならば、私のこの姿や口調は誰の所為でもないぞ」
「……ふ、あぁ、そのようだな」
そう言った、その時の声だけは外見相応の拗ねたようなもので、男は思わず笑みを零す。張り詰めていた室内の空気が少しだけやわらいだのは言うまでもない。
 未だなお――当然と言えば当然であるが――敵の挙動に細心の注意を払わなければならない、緊迫した状況は続いている。追われ続けているのは明白であるが、既に捉えられ迫られているのか、それとも後ろ姿を追われているのか、いまいち曖昧ではっきり判らないと。心理面精神面に、至極負担をかける状況である。そんな折に艦隊司令官から乗組員へ伝えられた言葉は、そこに織り込まれた言葉とそれを伝えた声に潜む感情を以て、今までやんわりと漂っているだけだった絶望の色を濃くさせるのに十分なものだった。しかしそれを聴き、全体に広がった雰囲気を払拭しようと即座に先程広められた言葉とは百八十度ほど違う言葉を飛ばした男――艦長のおかげで、その場は昏い海底のようなままでいることは免れた。
 休息は束の間のこと。空から再度現れた招かれざる来客に、そのからだに与えられた爪を牙を惜しむ事無く向け、振るう。死をも厭わぬらしいその客人たちと相対する。昼下がりのことだった。一難去り、よろめき思うように進むことの出来なくなったものは、自然の流れにその身を任せる他ない。目的地へと進む為の脚に傷を負い、呻き声をあげる。その声を、若い兵卒のひとりが聞いていたとか、いなかったとか。
再び日付の変わる頃のことだった。やはりというべきなのか、どうなのか――敵に遭遇したものは再びその武器を展開させる。休むこと無く、不規則的に続けられる戦闘にじりじりと疲弊していくものを援護する為に、空の刀鍛冶師曰く、やれば出来る子、や他の部隊からの支援が寄越されるらしいということが伝えられる。それが実現するかどうか――という前に真実であるか虚偽であるか――判らないが、その最善の結果に縋ることはあまり得策ではないだろうと、停まって進んでを繰り返しながら目的地を目指すものは思う。
日の落ち切った暗闇の中で藻掻き、足掻く。もう何度目かもわからない攻撃。士官室に、その名を、その孫娘から与えられた例の鉄血宰相の写真と今祖国を統べている者の写真と共に掲げられている、額に入った宣誓状――それは同時に養子縁組証書でもある――が、波に風に揺れる所為でかたかたと不安定な音をたてている。如何なる場所で、如何なる災難が降りかかろうとも――そこに記されているように、描かれているように、悲劇の姫君を颯爽と救う騎士の登場を、御伽噺ではないのだから期待できない。
海は昏く、不気味な程の静けさを孕んでいる。その中で、ぽつんと漂うその孤独を拭うことが出来るものはいない。また、何時訪れるともわからない運命の時をただ待つだけの息苦しさを、解くことの出来るものは、やはりいない。相も変わらず鉄錆の臭いと味が消えないまま、自力での思うような行動が叶わなくなったものは波の心地良い胎動にそのからだを任せていた。
さいごのとき。ひとは走馬灯と言うものを見るらしい。何時か何処かで聞いた話を、何故だろう、ぼんやりと思い出していた。
「――……祖国に、どうか栄光のあらんことを」
ぽつりと、誰にともなく呟く。脳裡に浮かび、消えていくのは生まれた場所のこと。これまで出逢ったものたちの顔、かたち。自分のようなものがそんなことを考えるなど、と自嘲するように歪んだ唇は、けれどすぐに引き結ばれてしまう。滲んだ視界に、少しだけ息が出来なくなる。
もう逃げられはしないというのに、四方を敵に囲まれている――否、正確には、未だ断言はできないが、そうなるのは時間の問題だ。
轟音が響き、空が揺れる。幾つもの水柱が立ち上り、徐々により近い場所に現れるようになる。じわりじわりと近付いてくるそれは、やがてからだに直撃するようになるのだ。飛来する熱く重たいモノが皮膚を喰い破り肉を噛み千切り骨を砕いていく。彼方を臨み照準を合わせる為の部位は潰され、伝達する為の連絡機能も失われていく。それでも懸命に――死にたくないと言う本能からだろう――蠢く若い命はその光を灯し続ける。少しでも生き延びる確率を上げようと、敵を討とうと手を動かす。真っ赤な炎と、真っ黒な煙がその身を包む。
異常とも言える過剰攻撃に晒され、残されたものが極僅かであることは、何処から、誰の目から見ても明らかである。不吉な音と、怒号と、悲鳴が渦巻く中で、その呼吸音はひどく小さなもの。
「……っ、ふ、ぅ…!」
満足な手当てを施すことが出来ずに居たことのツケが、回ってきている。
「ぐ、あぁああ、ぁ……!!」
悲痛な声と共に、ぼたぼたぼた、と命が勢いよく床に落ちていく。腕から、脚から、口から、溢れ出て行く。焼けるような――実際に焼けているのだろう――からだ中の痛み。降り注ぐ砲弾が途切れてから、喧騒と入れ違いのように自分の置かれた状態に見合う感覚がやってきたのだ。その場に倒れ、自分で自分のからだを抱き締めるように小さくなる。しかし痛みに悲鳴を上げのた打ち回る等と、無様なことをそのものがする筈も無く。苦痛をやり過ごそうと震えている。
「…ひ、ぅぐ、あ、ゃ、嫌、嫌だ…まだ、まだ、」
赤く染まった指先を持ち上げた、その瞬間――轟音、衝撃。
「――ひぃ、ぎっ、ぃ、うぁ、やぁああぁあぁぁああああッ」
堪らず見開かれる瑠璃。跳ね上がるからだ。咆哮を上げたものは反射的に敵のすぐ側へ――続ければ確実にその息の根を止められるであろう程の精度で――砲弾を見舞う。痛みを堪え、繰り返すこと三度。確認してみると、牙のひとつは使い物にならなくなっている。その好機を敵が見逃してくれる筈も無く、更にからだを壊す為のモノが四方から、それこそ完膚無きものにする為に破壊し尽くす為に容赦無く叩き込まれる。満身創痍、無数の傷でからだを彩られ、完全に黙した。否、もう砲声を上げることができなくなったのだ。しかしそれでも沈むこと無く、なおその場に留まっているものは立ち昇る黒煙の中、その姿――辛うじて残っている軍帽は焼け煤け、いつも撫で付けられていた髪は解れ、片目は失われ、腕も脚も自由が利かなくなり、腹を重点的に全身に穴が開けられ、それに伴った火傷でからだを飾った姿――でも、うつくしく其処に在る。気高く、誇り高く、それ故に可愛らしい強情さを持った姿。それは確実に畏怖と畏敬を相手に与えていた。だが、その足元に撃ち込まれた狂気とも言えるだろう駄目押しに、とうとう――ゆっくりとだが――頽れ始める。
 脚を折り、膝を突き、手を突く。至極苦しげに肩を上下させつつ、未だ完全にからだを倒そうとしないのは、中に残っている者たちを思ってのことなのだろう。さいごは自ら沈むことを選ぶのだろうということは――此処を指揮する者の、その矜持の高さ故容易に想像がつく。手のかかること等せずに早く逃げればいいのに、と思う。
どんどん軽くなっていく感覚は、失ったからだの一部と、生き延びる為に離れていく命たちの所為なのだろう。それでいいと、表情はやわらぐ。一気にからだが軽くなったと感じた頃、動けない、動けなくなった者たちを除き、そろそろ皆が出られただろうかと考え、目蓋を閉じた、丁度その時。あたたかな感触に、薄れていた意識は呼び戻される。
「…大丈夫、ではなさそうだな。ビスマルク」
「――、お前、は、」
ぼろぼろになった華奢なからだを横抱きに抱き上げ、ぼんやりとした瞳を覗き込んだのは、優しげな青色。自身も――他の兵卒たちと同じように――身体中に傷を鏤めた男は、兵卒を傍に一人連れて、自分が指揮した艦――ビスマルク級戦艦一番艦ビスマルクに微笑みかける。
「艦長、その方は…ビスマルクって、」
男の傍らに立つ兵卒は知らなかった者らしく、ふたりを交互に見て疑問符を浮かべている。
「あぁ――これは戦艦ビスマルクに相違ない。正確には、戦艦ビスマルクの意識が具現化――人の姿をとったものだ。シャルンホルストやグナイゼナウ、プリンツ・オイゲンなんかの、他の艦にも在る…勿論、ティルピッツにも」
「ティル、ピッツ、」
眉をハの字にして語る。話に登場した唯一の同型艦の名に、ぴくりと反応する。その小さな呟きに頷く。男の説明を聴いた兵卒は目を丸くして、はぁ、なんて話を呑み込めているのかいないのか曖昧な声を返している。
「な、んで、どうして、お前たちは、まだ、」
男の腕の中で小さく呻く。見下ろすそのからだは、記憶の中のものよりも幾分か小さく感じられる。抱き上げるのは初めてだが、これ程自分たちの身体と大差が無いとは。
「私はこの艦の艦長だ。艦と運命を共にするのは当然だろう?」
真っ直ぐに見つめられ、さも当然だと言わんばかりに、否、実際に言い切られて、残された瞳は大きく丸くなる。そして、意地で動かされた手によって塞がれる。その後に、ひどく照れくさげにぽつりと零された言葉。
「馬鹿者………あぁ、私は――しあわせものだな」
目蓋を、閉じる。
 適当な場所――仮令瓦礫と死体の山だとしても、やはり其処は気高い艦であることには変わらない――に、ちょこんと降ろされたものは、安堵したようにひとつ大きく息を吐く。腰を下ろしたのは薄汚い無機物の上だというのに、玉座に坐しているようにも見える光景に兵卒は息を呑み、その存在を横抱きで其処まで連れてきた男は跪いて赤黒くなってしまっている、元は白く滑らかであろう手――普段は白い手袋に包まれているのだが、今は焼け爛れ、煤け千切れて申し訳程度の僅かな面影しか残していない――を取り口付ける。
「我らの誇り。我らの矜持。我らの、ビスマルク」
惜しむように――愛しむように、その手を抱き締める。
「どうか、永遠に」
そして最後の別れを告げに行くのだろう、二人は去って行く。その後ろ姿を見送る瞳は穏やかに凪いでいる。それは、漸く訪れる終わりの瞬間を感じているからだろうか。
 ごぼごぼと沈んでいる。首が頬が水に浸かり、最後には頭の先まで水の中に入る。負けて、そして沈んでいくのだなと実感する。きらきらと、光が遠くなっていく。解れてしまった髪と、脱げてしまった軍帽が頭上でふよふよと漂っているのが見える。
「あぁ……出来れば、叶うなら、もう少しだけ、生きてみたかった、な――」
泡がひとつ、消えていった。
 室内に、物音はない。ただ、一定の間隔で時を刻む時計の音と小さな衣擦れの音だけが、空間を何食わぬ顔で闊歩している。
「……そんな、嘘、だろ?」
優等生――刀鍛冶師の隣の席に座っていた、やれば出来る子が思わず立ち上がり、声を漏らす。
「だって、この国の全部を注いで造られたんだぜ?」
その言葉に、召集されたものすべて――陸を往く虎ですら同意を示す。時間が動き出したかのように騒然とし始める室内。先程の言葉は首を横に振られ、否定される。伝えられたことは紛れも無い事実そのものだった。
「あの子が負けたなんて……そりゃ、ちょっと生意気だなとか、思ったりはしたけど、」
誤報であることを願う目をした虎が明るく口を開こうとして失敗する。嘘だと、信じたい。けれど、どことも繋がらなくなった通信機と、それらが感じ取ることの出来る、同族の気配が消えたことで、それが真実であり事実であるということが、嫌でも判ってしまう。脳裡に浮かんだのは、あの唯一の同型艦の存在。よく、懐いていた。慕っていた記憶がある。きっと同じように伝えられたのだろう、この報せを聴いて、どんな顔をするのか――想像するのは難くない。
 丁度時計の針二本が円盤に書かれた十二の上でぴったりと綺麗に揃う、一回り前になる頃、その事実は伝えられた。いやに無機質なノイズ音に紛れて流れ込んでくる言葉に、その場に居たものたちは皆一様に口を噤む。戦艦ビスマルクが英国戦艦と交戦、自沈した、と。
 梔子色の瞳が丸く大きく見開かれる。え、と笑おうとして失敗した歪な唇から音が零れる。紺青に染め抜かれた制服の裾が揺れる。
「一番艦が、ビスマルクが沈んだ…? こんな時に何を……そんな、馬鹿なこと――笑えない冗談はやめてくださいよ、」
渇いた笑い声。どうしても揺れてしまう瞳。
「そんな…だって、ビスマルクは、欧州最大最強の船でしょう?就役してから二年も経っていないのでしょう? 貴方たちは、何を言って、」
詰め寄りながらも縋るような視線は迷子のそれによく似ている。花園で魚が泳ぐ日はとうの昔に過ぎ去っている。そうでなくてもこの国の人々はこの手の類の娯楽が苦手だと――少なくともこのものは――思っている。そして何より、そんな冗談を言っているような、言えるような状況ではない。解っている。解っているけれど――信じたくなど、無かった。
「嘘、嘘だ…、そんなこと、嘘だ…!」
梔子が瑞々しく潤んでいく。寄せられた眉は八の字を描いている。力任せに胸倉を掴まれた壮年の男性は、男性も悲痛な表情を浮かべている。潮騒に紛れて聞こえてくる嗚咽は波紋のように広がって行き、押し殺されなくなり、やがて啜り泣きと成る。理不尽に掴んでしまっていた男性の服から手を放し、ふらふらと後ろに退がる。まるで何かに怯えるように、からだの末端を震わせているものを、目の前の男性含め周囲にいる者たちは気遣う。大丈夫ですか。無理はなさらないで下さい。控えめだが、確かに優しさを含んだ言葉たち。それを受け取ったものは顔を伏せてぐしゃりと髪を掻き乱す。そうしてその場を去っていくものの背を追おうとする者は、追える者は、誰一人いなかった。
 ぼろぼろと水滴が零れ落ちては渇いた地面に色濃い染みを残していく。あまりにも早い離別であり死別だと思った。これでもう隣に並び、立つことは出来ない。あの場では漏らすことの無かった嗚咽が、いやに冷たく感じる水滴と共に溢れ出てくる。それを隠すことも無く、滂沱としているものは、別れの言葉というか最後の言葉すら聴くことが出来なかった無念と、何故自分に一言でも遺してくれなかったのかという孤独感。その他にも色々な感情が混ざり合う感覚に膝を折る。ぼたぼたと黒い染みが増えていく。置き去りは、ひとり残されるのは、寂しくて悲しくて、嫌だと思った。
寒さからか、それとはまた別のものからか――白く重たい空気が下りた空間に、劈くような無線の音が響く。
そうして今まで沈黙を守り静かに腰を下ろしていたものは漸くその姿を現すこととなった。千年の孤独から、歩み出すように。悠然と、泰然と、それこそ気高く、数年前に消えたあのもののように、歩を進める。僅かな前進。決定的な出撃ではない。しかし世界を臨むその眼に温情などは無く。世界を睥睨するようなその眼に悲愴などは無く。腕のたつ職人に誂えさせたドレスにも見える、丈の長い軍服を翻して立つその姿はまるで無機的で機械的で、無情な兵器、そのものだった。獰猛に牙を剥いて、唯一の同族を失った、世界に一匹残された最後の番犬は、腹を食い破られていても、綺麗に歪にわらってみせた。
冷たい。冷たくて、暗い。痛い。最後に見えた赤い光と灰色の煙に触れた時は、ひどく熱かった気がするというのに。ごぽりと赤が混じった泡を吐き出して、梔子はゆらゆらと輝いている水面を見上げる。ばらばらになってしまった乗組員たちは無事だろうか。外に出られなかった者たちには申し訳ないが、どうすることも出来なかったのだ。あまりに唐突で、不意で、突然のことだった。また、ひとつ。控えめな音をたてて生まれた泡が、きらきらと輝く水面の方に昇っていく。ごめんなさい。小さく唇が動く。それは、何に対しての謝罪なのだろうか。誰かが聞いているわけでもないけれど、その唇は未だ動き、言葉を紡ぐ。
「ごめんなさい――沈んでしまって、守りきれなくて、ごめんなさい」
周囲に滲み出ていく赤はボロボロになってしまった紺青の布を染めながら蒼の中に漂い続けている。皺一つ無かった衣服は煤け破れ裂け、痛々しい。断続的に昇って行く泡とは逆の方向へと進むたび、上から降り注ぐ光はどんどん減っていく。光はやがて届かなくなり、真っ暗な――眠りに就くには丁度良いくらいの海の底に、そのからだは落ち着くのだろう。
本体と乖離した意識は、無意識的に求めるものの近くへ向かおうとしていた。もう碌に動くことなど出来ないというのに、少しでも懐かしさを感じる気配を追い、そちらへと手を伸ばす。白く上等な手袋は焼け爛れ、覆い隠していたしなやかな手を指先を、直接外界と触れ合わせてしまっている。太陽の光と触れ合うことが、ほぼ皆無だったその手はやはり白く、切り傷や擦過傷に彩られ、生々しい赤さがよく目立つ。それを気に留めることなく、嘗てあのものに触れられた其処を至極愛おしそうに眺めた梔子は細められ、胸の前でその手を、だらりと下げられていたもう片方の手で包むと同時に伏せられる。意識を包みからだを揺らす周りの海水は冷たく、傷口をざりざりと抉るように撫でていき、決して優しいものでは無いけれど、それでもこの水の中を進んで行けばあのもの――欧州最強と謳われた誇り高い戦艦、ビスマルク級戦艦一番艦のビスマルクに逢えるのだと思えば、こうして水中を降下しつつ漂っていることが、とてもしあわせなことだと思えた。過剰殺傷とも言える攻撃に晒され、ひとりぼっちで沈んだという鉄血宰相の元へ繋がっているのだと思えば、同型艦唯一の戦艦、ビスマルク級戦艦二番艦ティルピッツは口元を綻ばせることが出来た。側に行くことが出来る。その名を負うには些か華奢過ぎるとも言える、あのからだに触れて――髪を撫で、頬を寄せ、孤高を拭い、労うように――抱き締めてあげられる。そんなこと――生温い飯事のような行為を、きっと厳しい軍部のひとたちには怒られて、仲が良いとは言い切れない陸や空のものたちには馬鹿にされてしまうのだろうけれど、それこそ、そんなことはもういいかな、なんて思えた。ごぽ、と昇って行く気泡を見送ること、何度目か。再度世界を捉えた梔子は穏やかに凪いでいて、そっと動かされた腕が伸びた先には、辛うじて形を保っているのだろう、通信機。淡い色のそれは揺蕩う蒼と滲む赤をその身に重ねている。数年前に途絶えて、それ以来繋がらず、本来の使い方をされていなかったもの。
 壊れ、外れかけたヘッドセットを押さえて呼びかける。
――聞こえますか。
相手からの応答があるかどうか、出来るかどうか、わからないけれど、呼びかけてみる。
――聞こえますか、ビスマルク。
酷い雑音が入ってしまっていることは呼びかけている時点でわかるけれど、それでも言葉すべてを隠してしまうような程ではないと信じて、続ける。
――こちらティルピッツ。恥ずかしながら英国の攻撃により転覆、大破着底しました。
――……………、…、……ッツ、な………んだ、の…?
幾度目かの呼びかけの後、ヘッドセットから聞こえてきたのは、昏い潮の音と掠れた呼吸音と、何時位ぶりか分からない、懐かしい声。碌な状態ではないと言うのに、その声が聞こえた途端に声音と心が弾んだ。
――はい、こちらティルピッツ。ビスマルク級戦艦の二番艦。貴女の姉妹艦に当たる艦です。憶えていますか?
か細い呼吸音、声。その一欠片も聞き漏らさぬように、二番艦は耳をよく澄ます。
――………あぁ、も…ろん、……えて…い…、
苦しげな、しかしどこか安堵したような嬉しそうな声。
――ようやく、ようやく同じ場所に立てます。けれど、側に、居たいのですが、申し訳ありません。もう、動けそうになくて、どうか繋がっている海の中で貴女を想うことを、お許しください。
――…………構わ…い、……きに、し………
一番艦の、押さえ切れていない喜色に気付いた二番艦は、隠すことなく嬉々として返事をする。その声に対してだろうか、次いで聞こえてきたのは、はふと言う掠れた音。何時途絶えてしまうか分からない繋がりを、必死に繋ぎ止めようとしながら、ぽつりぽつりと言葉は交わされる。そうして海の底に触れていること、幾何か。どちらともなく呟いた。嗚呼、もう、そろそろかもしれない、と。限られた時間の、その瞬間が近付いていると、それとなく感じ取れたのだ。
――眠りに、就きますか。
――……あぁ、…………も…、
――…そう、ですか。そう、ですね……どうか、安らかに。我らが鉄血宰相。
応えは、無かった。最後に聞こえてきたのは、海の鼓動に溶けていくような、細い吐息。笑って、思わず吐き出されたようにも、聞こえた。そして、残された北海の孤独の女王と謳われた艦は、変わらずキラキラと輝き続けている水面を見上げて、ひとつ泡を漏らし、今度こそ静かに目を伏せた。今度こそ、ずっと同じ場所に居続けられると信じて。
 すべてが終わり、しかし傷跡が未だ色濃く残っている――色濃く残っていなくとも、負けたという事実がある限り――世界が敗者に優しくないというのは、常である。穏やかな潮の胎動に身を任せ、永遠の眠りに就いた――実際にその艦は眠っていた――と思っていた艦は、からだが裂かれるような痛み、からだが軽くなっていくような感覚に、再び目蓋を開いた。ぼんやりと漂い、結ぶべき焦点を探していた梔子は、構わず繰り返される音に痛みに感覚に、はっきりと覚醒する。
「――っ、」
頭上を見上げると、水面に蓋をするように残っていた筈の部分が、小さくなっていた。その周囲には小さな影が在り、火花を散らしながら、どこか忙しなく動き回っている。その動きと共に音が生まれ痛みが走り、軽くなっていく。解体されているのだと理解するのに、時間はそれほど必要なかった。浮かんでいたからだの大部分が、無くなっていく。
「ぅ、あ、あ…やめ、やめて、くださ……また、また離れ離れに、なって…!」
その度に薄れ消えていく意識を繋ぎ止めようと水面に手を伸ばすが、それは、何の意味も成さずに、僅かな泡を生み、それが昇って行くだけにしかならなかった。水中に落ち着いたからだは決して多く大きくはない。
「自我、が、嫌だ、まだ、まだ僕は、僕でいたい…!」
からだがバラバラになるということは、自我が保ち難くなるということで、いくら部品が揃っていようと、それがただの瓦落苦多の山になってしまえば、そこに意識が宿ることは至極難しくなる。落ちてくるからだの一部――だったもの――は潮の流れを断ち切り海底の砂を巻き上げ、周囲に打ち捨てられたように落ち着く。拾い集め、元のかたちに合わせようとしようにも、それを達成できるだけの力など残されておらず、伸ばされた指先は、その中でも運よく触れられた欠片を撫でるだけに留まり、それ以外の殆どは、伸ばされた、それだけだった。その姿は、かのものの興亡と衰退をありありと物語っているようで――抵抗空しく徐々に消えていく意識の中で、とうとう艦はその手を離してしまった。ごぼごぼと泡が水面に昇って行く。脳裡を過ったのは、もう一度会いたかったという、細やかな願望と、もう二度と離れ離れにならないと言っていたのに、という申し訳なさだった。
 小さく騒めく海の声に、ひとり消え、またひとりになったのだと、深い眠りに就いているはずの艦が感じ取れたのは、単に唯一の同型艦のことを少なからず気にかけていたからなのだろう。昏く冷たい海の底、再びひとり残されることになった艦は、しかし居なくなった艦を恨むことなどはせずに、時流の流れにただ身を委ねる。ひとりは慣れていると、言わんばかりに。
 今の世界がどうなっているのか、海の底に居て知る由は無い。どれだけ時が経ったのか、考えることも止めてしまった。時々現れるいきものを感じながら過ごしている。残っているからだのすべてが朽ち果て塵へと還るまで、あとどれ程なのか。分からない。そんな日々が変わらず過ぎていくと思っていた時のことだった。頭上で水音がして、不自然な波が起きる。段々と近付いてくる何かの気配に、沈み切って停まっていた意識はふわりと浮かび上がる。そして、誰か――何かが、からだに触れる感触。やわらかく、小さな感触に、閉ざされていた瑠璃の双眸は開かれる。沈み、埋もれ、錆び付き、動くことの出来なくなったからだを、何者かが撫でているらしい。その姿を確認することは出来ないけれど、何故かその感触が、ひどく懐かしいと思った。何か、喋っているらしいということは、波の動きでわかったが、何と言っているのか、肝心なところがわからない。誰、何、なのか。何をしているのかと、無理にでもからだを動かし止めさせようとした、その時、やわらかな感触。こぽこぽと水面に泡が昇って行く。そして、からだ――艦の中に、入って来る感覚。不思議と不快感や拒絶感は無く、寧ろ安心感や懐かしさと言った類のものが溢れて、再び触れられたその温かさと、漸く視界に入れられた姿に、思わず笑みが零れてしまう。
「あぁ――お前は、本当に、本当に――馬鹿じゃないのか」
すべてを包む深い海に煌めく星々を砕いて鏤めたような瑠璃の双眸は、しあわせそうに閉じられる。此方を熱い視線で見つめている梔子は、見えた回数が少ないとしても、その鮮やかさを見間違う筈がない。あの二番艦のもので。水中に踊る、光の届かない深海のような色の髪はこの海底においても尚その暗さを伝えている。それもまた、あの二番艦のものと相違無く。
 今時では珍しい、古風な――軍国出身の、海軍元帥と同じ名を持つ人物は世界地図を広げていた。必要最低限の荷物を積み込んだ船の上、舵を握る者の訝しげな視線をものともせずに、生まれた国よりも南の方にある海をじっと見詰めている。その表情はひどく幸せそうに見える。これから行おうとしていることは決して容易で生易しいものではないというのに。
 目的の場所に着いた船はその動きを止め、ひとり海の中に入った人物を残して漂う。名残惜しげに未だ留まっている船に手を振るその人は、陸に帰るつもりが無いらしい。船の持ち主はやがて諦めて帰って行った。もう、引き返すことは出来ない。数千メートルを潜ることの出来る装備を携えた人は、よしと軽く微笑んで、長い道を歩き出した。やはりこの海は、北の入り組んだあの海よりも暖かい、なんてことを考えつつ、今度は自分から沈んで――否、潜っていく。
 やがて眼下に見えてくるのは静かに横たわる巨艦。巻き上がった砂利と降り積もった生物の死骸、塵屑を被って横たわっている、誇り高い鉄血宰相の名を冠したその艦は、海上に居た頃よりも少しだけからだを小さくして、静かに眠っているようだった。凸凹と大小様々な穴が無数に開いたからだは、しかし威厳のあるままで、満身創痍、多くの傷に彩られていたとしても、その気高さを失うことは無い。凛とした姿のままでいる艦を目にして、その人は破顔する。
「あぁ、貴女は、本当に――本当に、美しいひとだ」
そっと輪郭を指先でなぞる。
「ねぇ、褒めてください。僕、憶えてましたよ。貴女のこと。解体されて、自我が保てなくなって、あぁこれでもう終わるんだって思って、でも貴女のことは忘れたくなくて、そしたら、目が覚めたら、未だこうして僕は僕でいられた。もう艦じゃないけど、僕はビスマルク級戦艦の二番艦ティルピッツでいられた。貴女に、もう一度逢うために」
ね、偉いでしょう、と、大好きな母親――若しくは姉に褒めてと強請るような言葉、表情。それらがどれだけ相手に伝わっているのか、わからないけれど、それは構わないようだった。
「そういえば、艦長さんも一緒、だったんですよね。人間だからきっと、すぐに逝ってしまわれたのでしょうけど、でも、貴女が完全にひとりぼっちじゃなくてよかった。羨ましいな、とかは、そりゃ思いましたけど」
ごぼりと、何時かのように泡が昇って行く。少しだけ変化した艦とその周囲の雰囲気に、眠っていた艦が目を覚ましたのだと、会いに来た二番艦は知る。此処に落ち着いてから経った時間を考えると、もう碌に動けないだろうに、動こうとしているらしい一番艦に二番艦は苦笑する。
「どうか、そのままで。会いに来たのは此方なんです」
薄汚い堆積物をそっと掃う。抜け落ちた砲塔から、中に侵入した小さな二番艦は一番艦の中へと降りていく。生き物の影がひとつも見えないのは、何故だろう。暖かな命の気配が感じられない。
「あの時は、以前は守れなかった約束を、今度こそ果たしに来たんです」
言いつつ、今の自分の両掌を眺めた二番艦は、このからだじゃ抱き締められないじゃないかと眉を顰める。指を開いて閉じてを繰り返す。目の前のものと、自分の手を見比べて、唇を尖らせる。あの頃は――あれが普通だと思っていたから――まったく気にならなかったが、こうしていると不便極まりない。時間が流れ過ぎ、互いに姿を存在を違え、もう、あの頃のように見え触れ合うことは出来ないのだと、思い知る。一番艦の懐に潜り込んだ二番艦は上を見上げ、それから胎児のようにからだを横にして丸くなり、目を閉じる。
「今度こそ、ずっと、側に居させてください」
その言葉に、願いに、許可が出たのかどうかは分からないけれど、微かに騒ついていた周囲が落ち着きを取り戻していることと、此方を受け入れてくれているような雰囲気に、ほぅと安堵の息を吐く。刻々と、確実に遠退いていく意識。ぼやけていく視界と思考。胸を締め付ける苦しさはからだを包む冷たさと共に命を攫って行くようで。
 光も音も何も届かない場所で、愛しいものの懐で、目蓋を閉じる。
 夢を――夢、だろうか。幸せに想いを馳せるものは、懐かしい風景を見た。あの頃の、風景。だけれど、決してあの頃ではない風景。だって、自分とあのひとはあんなことをしていなかった。あんなに言葉を交わしたことはなかった。触れ合うことなんて、並んで歩くことなんて、叶わなかった。単なる、過去を映した夢ではない。そうだとしたら、それは願望なのだろう。細やかな願望を見せた、幸せな夢。あの時の色が、音が、温度が、鮮やかに蘇る。そんな、幸せな幻の中で、あのひとが此方を向く。綺麗な瑠璃色の瞳。さら、と流れるのは海の蒼を重ねた髪。すべて、そのすべてが焦がれたもの。それらが、此方に向けられ、此方に何かを伝えようとする。かたちのいい唇が動く。何と言っているのか、聞き取ることは出来なかったけれど、それでも何故か無性に嬉しくなった。膝下まである、長い丈の裾を靡かせて差し伸べられた手を握る。細くしなやかなその手は、やはり自分のものよりも小さくて――小さいけれど、手を握り、牽く力は、痛いくらいに強く確かなものだった。

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