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 探求も探究も、所詮好奇心に過ぎぬ。

 如何に大仰な表し方をしても、仰々しい語り方をしても、結局それは赤子が「なぜ」「なに」と大人に訊くのと大して変わりはしないのだ。

 

 

 

 宇宙は空に。獣は大地に。相反するふたつが、だからこそ表裏なのではないか、と考えられたのは「血」と「病」の関係からしてごく自然の流れだと言えた。

 探究の副産物と言える「病」は、探究者たちにとっては大した問題ではない。今、彼らが夢中になっているのはその「病」を「空」――あるいは「宇宙」――に利用できないか、と言うことだ。空より滴り落ちた血から獣が生まれるのなら、落胤と言うにも烏滸がましい獣であってもまた遥か高みの宇宙に依る恩恵を預かれるのではないか?と。

 きっかけは、そんな誰かの出来心だった。

 しかし、知らぬことへの理解を少しでも多く得たかった探究者たちは、その出来心に首を縦に振った。まったく、善悪も解せぬ幼い子供を褒めそやすようなものだった。

 

 男は教会の狩人だった。今や処刑隊と呼ばれる組織は無いが、それの後身――獣狩りや暴動の鎮圧などを主任務とする実働部隊に属していた。

 男は数日前、上司に当たる狩人から呼び出された。任務の話だろう、と男は考えた。だが、上司の部屋へ行ってみると、そこに自分以外の狩人は呼ばれていなかった。代わりに、およそ「狩人」とは思えない、小綺麗な装束を纏った人間が数人いた。その人間たちが発する、自分たちが日頃関わっている荒事とは縁遠そうな空気に、これが教会上層部の人間なのだな、と男は漠然と思った。

 上司と上層部の話は済んでいたらしい。否、話など無かったのだろう。教会の狩人が教会の上層部の意向に沿えぬことなどあってはならない。「上層部」あっての「狩人」なのだ。どこか申し訳なさそうな表情で自分を見る上司に、努めて穏やかな顔をして男は一礼をした。

 そうして、一人の男の名が教会の狩人の中から消えた。

 

 女は教会の学者だった。物心ついたときには孤児院に居た。親の顔なぞ知らぬままに育ったが、女には大した問題ではなかった。安全な寝床と清潔な衣服、十分な食事が与えられる上に読み書き算術と言った教育が与えられる生活だったからだ。女は孤児院が好きだった。施される教育は尋常な思想とは言えなかったけれど、女は孤児院の人間や孤児院の後ろ盾に人並みに恩を感じていた。

 だから女が「大人たち」の意に沿って学者となったのも当然だったのだ。

 女は聡い娘だった。否、元より簡単なことだったのだ。乾いたスポンジに液体を浸して吸わせると言う手段は。大人たちにとって、女は好い娘だった。そうして女は「歴史」を紐解き「血」への理解を求め「宇宙」にのめり込んでいった。特に、赤子を失い、求めると言う「上位者たち」に、女の興味は引かれた。

 女は自分――正確には自身の身体――が嫌いだった。故に「赤子を失った」上位者たちに興味を持ったのだ。失えば、欲しくなる。そういうものなのだろうか。と女はいつしか自分以外の何かに至る道を探すようになった。

 故に、気紛れであっても一端であっても、女に星海を見せた精霊はやはり慈悲深いのだろう。

 

+++

 

 禁忌とはその実、大した柵になりはしない。むしろ興味と好奇の油となりさえする。特に、探究者の前であるならば。

 

 かつて教会の狩人であった男は――、否、男は今も男であった。かつて失敗し秘された試みに、今になって供された男は、幸か不幸か男であり続けられた。もっとも、優しげな「抱擁」を受け入れてしまい、おぞましい獣の姿となった男を、誰がそうであると判ってくれるかは分からないけれど。

 まるで罪人を捕えておくような独房が、かつて少なからず市民を獣から守った教会の狩人に与えられた部屋だった。狩り装束はあの悪夢のような実験の前に脱いで、それきりだ。まるで「患者」が着るような簡素な上下を着せられている。

 つまり――自分には何が求められているのだろう、と男は考える。頭を使うのは得意ではない。けれど自分が今このような状況に置かれているのは何故、と考えずにはいられなかった。「教会」ひいては市民のため、だとは思うのだが。知らず、渇いていく喉に獣のような唸り声が漏れた。

 「お待たせしました」

 男が無意識のうちに両手を背後で括る枷をガチャガチャ鳴らし始めた頃、独房の扉が開かれた。ゾロゾロと数人の人間が入ってくる。その人間たちは――もうずっと前に思える――あの上司の部屋で見た人間たちと同じ装束を着ているように思えた。

 「ようやく仕事の時間か」

「はい。彼女……いえ、アレの相手を。してもらいます」

どんな獣の始末をさせられるのかと男は思っていた。けれど実際に示されたのは、獣でも何でもない者の相手だった。

 ソレはどこかもったいぶった様子で扉の陰から姿を現した。

 言い表すならばそれは、樹木だった。病に罹った、若木。それが、人の身に生えている。

 頭部が異形と化した女らしいそいつは、男の前で教会の一礼をしてみせた。

 「……俺は人?狩りはせんぞ」

戸惑う男の言葉に、仕切り役と思しき人間が小首を傾げて答える。

「いえ、貴方には、そちらの相手をしてもらうんです。狩りなんてそんな、野蛮な仕事を、我々が直々に指示しに来るわけないでしょう」

「……?」

ますます困惑の空気を発する男に、仕切り役は最後に小さな声で囁いて、他の人間がそうしているように壁際へと下がってしまった。

 ――彼女、「女」が嫌いらしいので、そういった言動はしない方が良いですよ。

 それは探究者が物分かりの悪い男に対する親切心から見せた、確かな善意の言葉であった。

 

 仕切り役と入れ替わるように女が男の前へやってくる。寝台に腰かけた男の膝に乗り上げ、元の面影も髪色も塗り潰された獣面に手を伸ばしてくる。背中で両手を括られたままの男は、至近距離でようやく五指だと分かる女の濡れた指先を受け入れる他ない。ピチャリ、と顔を濡らす指先に、思わず足が動く。ガシャリと足首に繋がれた鎖が鳴った。

 見上げさせられた相手の顔は、まるで病葉だった。およそ人――生き物だとは思えぬ異形は、真冬の湖に積もった白雪が如く青白い。だが、ところどころに赤や黒や、緑と言った染みが滲んでいる。出来損ないのように。不完全であるかのように。

 目も鼻も口も無い「頭部」に、それでも「見られている」ことを理解して男の肌が粟立った。自分よりも華奢な相手に腰が引け、全身の毛が倒れる。一目見て感じた驚愕よりもなお質の悪い、悪酔いにも似た不快感がせり上がる。

 ガチリと奥歯が鳴った。その、男の反応を、どう思ったのだろうか。女は男の頬を両手で包んだまま、獣面を覗き込む。

 「ボクはね、アナタ。あのカレらが欲する赤子がどんなモノか、感じてみたいんだ。カレらを焦がす赤子をこの手に抱けたなら、ボクもこうして生まれたコトに納得できる気がするんだ」

 囁くような声が降る。男は鼓膜を震わせた女の声に、星降る夜を見た気がした。

 男は頭を使うことが得意ではない。だから、女が吐いた言葉の意味を捕えあぐねた。

「――……君は、それはつまり、俺との間に子を成したいのか」

「そうだよ。ボクは赤子を抱いてみたい」

確認のために、未だ震えの残る口を動かす。だが、帰ってきた言葉は、やはり凡そまともとは思えないものだった。当然、男は鼻白む。

「やめたまえ。命はそう軽々しく扱って良いものではないはずだ。それに、君の身体だって大切にするべき――!?」

男の声が途切れる。

 次いで、じゅるる、じゅぶ、じゅろろ、と酷い水音が響いた。

 「!? んぶっ――ぉ"ぼっ、お"ぇ"……ッ、ごっ――お"え"ぇ"っ"、ぅ"ぎっ……ん"ぐぅ"ぅ"ッ"」

口の中に、唾液――ではない、何かが流れ込んでくる。僅かに粘り気を感じる液体。その中に、何かぶよぶよとした固体が混じっている。それが、口に、喉に、腹に、流れ込んでくる。嚥下のタイミングなどお構いなしに、詰め込まれる。

 突然の無体に、当然男は抵抗しようとした。

 したけれど、まず驚愕に見開いた目で目の前の病葉を改めて注視したところでもう駄目だった。ゾクゾクと背筋が冷え切り「コレに逆らってはいけない」と本能が屈した。知るべきではないことがあるように、逆らうべきではないものがあるのだと。

 んぐ、と閉まる喉をこじ開けて、胃の腑へ得体のしれない何かが落ちていく。

 それは滑り落ちた先で、否、途中の道ですら、這いずりのたうっているようだった。

 「お"っ――え"、げ、ぇ"、う"ぶ……っ、」

「出さないでね。ちゃんと、飲んで。腹に収めて」

枯れ木にしては瑞々しさを感じる頭がようやく離れる。その時、目も鼻も口も無い、幹のような頭部の一部が洞のように裂けているのを見て――そこが、テラリと濡れているのを見て、男の喉が震えた。

「う"――、」

「だめだよ」

上を向かされたまま、言い付けられる。ヒタリと、青白い指先が男の口を塞いだ。

「――、ん"ん"ー"!"」

せり上がってくる不快感の逃げ道を絶たれた男は逃げようとした。首を振って、体を捩って、目の前の存在から逃げようとした。

 けれど元より手足の自由を奪われ実験に供され、心身共に消耗していた男に大した抵抗などできるわけがなかった。むしろ暴れようとしたことで後ろに倒れ、そのまま寝台と相手に挟まれることとなった。

 「ちゃんと、飲んで。良い子だから」

声だけは優しげに相手は言う。

「大丈夫。だから、全部飲んで。全部飲めたら、褒めてあげる」

褒めて欲しいなど、男は微塵も思わなかった。けれど口を押えられる息苦しさから早く解放されたくて、必死に喉を動かした。んぐ、んぐ、と獣の喉が上下する。

 やがて男の呼吸は落ち着きを見せ始める。その様子に、青白く湿った手が、そっと男の口元から退いていく。

「よく、できました。素晴らしい。きっと精霊は応えてくれる」

涙と鼻水に濡れた獣面を、ひたひたと柔い指先が辿り、拭う。その感触に、男は再び浅く喉を引き攣らせかける。

「アナタが「狩人」ながら神秘にある程度の適性があるコトは分かってる。だから、きっと、精霊もアナタを気に入るよ」

相手の言葉に、自分もこんな訳の分からない頭部になるのだろうか、と男は恐怖を感じた。収まりかけた吐き気が、ぶり返す。腹が震え、湿った手のひらから逃げるように顔が横を向く。がふっ、と咽る男を――まるで男が吐き戻さないと知っているかのように――見下ろして、女は独り言のように囁く。

 「でも、精霊がアナタのどこに宿るかは、まだ分からない。もしかしたら、ボクたちと同じように胎に宿るのかもしれない。そうしたらきっと、ボクの穴がひとつ埋まったみたいに、アナタに穴がひとつ穿たれるのかな」

 

 その日はそれだけだった。件の女――結局、女と言って良いのだろうか――が男の上から退き、寝台を下りて退室すると、他の人間たちもその後に続いてゾロゾロと出て行った。はじめに一言かけてきた、仕切り役と思しき人間が「では、また近いうちに」等と言っていたが、寝台に転がったままの男に届くはずもない。

 「う――ぐ……げほっ、ぉ"え"っ"……ぇ"げっ、」

部屋が静けさを取り戻して少し。男が身を捩りシーツに額を擦り付ける。ぜぇぜぇと荒れる口元には、しかし涎が数本垂れるばかり。

「ううっ……う"う"う"……」

 今日と言う日を意識の外へ追い遣ろうとする獣の唸り声が、寂しい独房に降り積もっていく。

 

+++

 

 あれから数日が経った。独房は相変わらず静かで、男を訪ねてくる客もいない。けれど男にとって人目が無いことは幸いだった。

 あの異形頭に得体のしれないものを飲まされた日とその翌日こそ、気持ち悪さに寝台から起き上がることができなかった。まあ、それでもそれなりに誇りを持って「教会の狩人」をしていた男には十分人目を避ける理由になったのだが。だが、体内を這い上がる気持ち悪さを上回る違和感に気付いたのだ。

 忘れようにも忘れられない、あの青ざめた異形。アレが、目蓋の内側に浮かぶ度に、胸が締め付けられるような感覚がする。

 ありえない、と男は思った。だってそうなる理由が無い。

 だのに――どうしてか、身を苛む寂寥感や焦燥感や不快感を「アレならば埋めてくれる」と頭のどこかが囁くのだ。

 

 「慕われる、と言うのは、案外悪くないモノだね」

首筋なのか蟀谷なのか、今はもう分からない「頭部の横側」にグリグリと擦り付けられる獣面を好きにさせながら女が言った。

 「――まったく、何が悲しくてこんなゲテモノ同士の睦み合いを見なきゃならないんだ」

「そう思うならアナタはまだ上層には戻れないね」

「結構。俺ァ今の生活がそれなりに気に入ってるんでね」

「残念。その白装束より、上の装束の方が似合うと思うけどな」

 今回の記録役として駆り出された教会の白装束――孤児院で同じ時期に世話になっていた――と気安くそんな言葉を交わして、女は男に向き直る。男は、それこそ獣のようにグルグルと喉を鳴らして、女の意識が自分に向けられるのを待っていた。

 「調子はどうかな。いま、どんな気分なのか、教えてくれるかな」

ひとりの夜に何度も思い出し、剰え「自分に都合の良い」言葉を紡がせた声が、今、直に鼓膜を揺らす。

「――っ、ぅ、うぅッ、きみ、おれっ、おかしい……っ、」

唸るように男が言う。熱に浮かされたような拙い言葉は、女の問いに対する答えとなっているとは言えないだろう。けれどそのことに男は気付かない。そもそも何をか言われたから返さねばと、それだけで呻いていた。ハッハッ、と浅い呼吸を落ち着かせるように、やはり異質な若木に鼻先を埋める。

「ふむ? 熱がある?身体の方に異変は? 精霊は何か言ってる?」

哀れにも小さく震える男の背を撫でさすりながら女は訊く。しっとりとした指先が辿るのは、いつか市街で見た親子がしていたものだ。

 邂逅の時とは違い、今回は男が女の膝の上に跨っている。女と記録役が独房を訪れた時、男は寝台に額を擦り付けていた。その様子を見るために――それと、単純に座りたかったと言う理由で――女は寝台に腰かけた。そこに、ズルズルと緩慢な動きながらも男が寄って来たのだ。それから、男は親に甘える幼子が如く、女の頭部や肩口に額を擦り付けている。

 「ゎ、分からない……っ、俺、君が、欲しい……っ? ちが、いや、ゃ、だめ、ダメだ……!」

その気になれば容易いだろうに、自分を押し倒すことも無く見下ろしてくるばかりの獣面を、女は静かに見上げる。どうして泣きそうな顔をしているのだろう、と女は思う。女はそう思ったけれど、おそらくその場に居合わせた記録役ならば「お預けを喰らっている犬のような」顔だと、男の顔を判じただろう。

「欲しい? ボクが?」

それはつまり、どういう意味?と人の感情に疎い女は首を傾げる。男にしてみれば、それは無情な要求だった。男の、「男」としてのプライドを、目の前の異形頭は幼子が砂山を崩すように、無邪気に悪意も無く砕こうとしている。

 けれど男は限界だった。あれほど悍ましい体験をしたのに。身の内に燻る熱はもう耐えられる温度ではなくなっている。姿を見て。声を聴いて。においを嗅いでしまえば。出来損ないと言えど、遥か高みの存在に「逆らうべきではない」と従えられ「お前は番である」と告げられた獣は、決壊する。

 「君、きみ――の、口付けが、欲しい、」

 男の言葉に、もはや顔とは呼べぬ顔で、女は笑った。

 「いいよ。おいで」

トントンと口元と思しき個所を青白い指先が示す。ようやく「待て」を解かれた獣は、しかし恐る恐ると言った風に顔を寄せた。

 相手を確かめるような、触れ合うだけの口付けは長く続かない。さして時間をかけず、男はかぷりと許しを得られた洞を口で覆った。舌を伸ばして、渇きを癒してくれるであろう甘露を求める。しかし幾ら舌を伸ばしても、その舌先が何かに触れることはない。

 「どうしたの。もういいの?」

渇いていくばかりの身体に、泣きそうな顔で顔を離した男に女は訊く。ひぐ、と男の喉が引き攣った。

「きみ……っ、君が、前っ、お、俺に飲ませた、アレ、が、ほ、ほしい……っ!」

「ああ、」

男の言葉に女はようやく合点がいったと言うように頷く。

「なるほど……それなら、ついでに経過観察もしていいかな?」

だいじょうぶ、アナタはこっちに集中してればいいから――と女は再度男を誘う。男は、当然女の言葉に疑問を持った。けれど、それはまったく些細なことだった。脳裏に浮かんだ疑問符は、しかし目の前の誘惑にあっさりと流し清められていく。

 口付けると、今度こそじゅるりと音が立った。男はそれを、湧水をすするようにずるずると飲み下していく。その様は、口付けとは言い難い。だが当人たちにはどうでも良いことだった。

 ひたり、と女が男の腰に手を回す。簡素な衣服の下へと這わされた指先の冷たさに、男の身体がガタリと跳ねる。しかし「集中していればいい」と前に言われていたせいか、女を跳ね除けるようなことはしなかった。従順に、あの「得体のしれない何か」を啜り続けている。女の指はそのまま、男の下肢へ伸びていく。

 「ッア!」

 ピチャリ、と女の指が小さな水音を立てた。

 弾かれたように男の身体が跳ねる。堪らず、と言った風に、仄かな紅潮の見える獣面が上げられる。はく、と口元が戦慄いた。

途中_(:3 」∠)_

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