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 静かに。成る丈音をたてないように筆記具を手放す。いつもいつも騒がしいと言われている(うるせぇよ、ばぁか)自分が何故こんな真似をするのか――答えは簡単だ。ただ気が向いたから。ただそれだけ。かさりと微かな音を、それでもたてて、筆記具は机上に転がった。

 時計を見遣ると針は定刻からまだ遠い位置に在った。鈍く軋むような音がして教室の暖房が止まる。そして聞こえてくる教室の音に耳を傾けると、それぞれの個性が表れているようで、面白い。

 かりかりと答案用紙の空白を埋めていく音。問題用紙を裏返す紙の擦れる音。明らかに文字を書くものではない音は、きっと絵を描くことが好きなアイツのもの(今度はどんなブツを描いているのやら)(見せてもらおうとは、思わねぇけど)だ。カッカッと長続きしない筆記具の音は気の短いアイツのものだろう。閉じていた眼を開けて、前の席を見ると、ソイツは机に突っ伏して惰眠に耽っていた。きっと今回もソイツの解答欄はその半分以上を埋められていないのだろう。それでも飄々と解答用紙を提出するのだから学校の先生方はさぞ眉を寄せるのだ。そんなこと(まぁ、俺の知ったことじゃあねぇんだけど)を考えながら、ふわぁ、とひとつ大きく欠伸をした。

 白く薄い目蓋が、やはりうつくしい空色を覆った。ほんの、一瞬のこと。彼はそれに(あ、)(こっち見た)反応する。しかし彼を一瞥して、うつくしい空の持ち主は読みかけの本に再び視線を落としてしまう。持参らしいハードカバーの本は随分と読み込まれているらしく、カーテンの隙間から入る光に、細かな傷がカバーに無数の筋を描いていた。ちらりと目に入った本の作者は、見たことも聞いたこともない名前だった。ぱらりとページを捲る音。伏せ目がちになっている空は、いつもより少しだけ色を深くしていた。黒の細いハーフフレームにはめられた硝子越しに見ても綺麗だと思うが、(やっぱ、)やはり直に見た方がより綺麗だということを、彼は知っている。だから彼は教壇で本を読んでいる試験官――技術科教師をじっと見つめる。本ではなくて、こっちを見てくれればいいのに、と(お前の色、すきなんだよ)(なぁ、)彼は思った。

 今回の試験に技術科は無い。序でに言うと技術科の授業すら無い。去年一年きりだ。そして今年。生徒ではなく本を注視しているあの技術科教師は、この学校に赴任してきたのだ。そのことを集会で知った時の気持ちは(なんだよソレ!)(なんだよアレ!)計り知れない。彼らの技術の授業を受け持っていた教師と入れ替わりでやってきた若いその教師は、とても教え方が上手いらしかった。技術の実習室から出てくる下級生たちの会話は弾んでいて、それはそれは授業は解り易く楽しいものらしい。そんな声が聞こえてくる度に、彼を含め、上級生たちは(ちくしょう)(あと一年遅ければ、)悲しくなるのだ。彼らに技術を教えた教師の授業は、ひどく解り難い(なるほど、わからん)ものだったのだから。

 それともうひとつ。その教師との関わりをほとんど持てないというのも、彼らが悲しくなる原因の一つだ。

同じ部活動の後輩から聞いた話によると、あの教師は成人したばかりの新米らしい。それを聞いた彼の友人は、どうりでどこか初々しいわけだ、と(えっ、)(おま、)笑った。きっちり整えられた頭髪も、しっかり引き締められた表情も、ぴっちりと着込まれた衣服も、きっと新米だからとナメられないように、と思っての(なんだそれ)(…いや、わからんでもない、か)ことだろう。確かにこの年頃の子供は年上や社会に対して反抗的(俺が言えたことじゃねぇんだけど)だ。

 などということを思い出しながら彼は前の席のヤツに倣って机に突っ伏する。前から聞こえてくる、すぴすぴという間の抜けた音に、なんとなく情けなく(ホント、)(なんでだ?)なる。

 じんわりと漂う暖かさに目蓋が重たくなっていく。カーテンで遮られた窓の外には、きっと広い空が広がっているのだろう。家を出る前に見てきた天気予報では雲ひとつ無い、と言っていたから、きっとあの空と同じ色だ。そう考えていると、くふ、と小さく笑い声が漏れてしまった。静かな教室の中に零れたそれは、試験官に届いてしまったらしい。どうかしたのか、と言わんばかりに試験官は小首を傾げて彼を見ている。その姿が(なんか、小動物みてぇ)(だな)年相応というか、なんというか。思いつつ、彼は試験官にひらりと手を振って見せる。もちろん、とびきりの笑顔も忘れずに添えて。そんな彼を見て試験官は、ふいと視線を逸らして(あらら)(照れてんの?)しまった。ちぇ、と小さく、誰にも聞こえないくらい小さく舌打ちをして、彼は机上に視線を落とす。随分前に終わらせた試験の解答用紙には当たり前だが自分の字が躍っている。イ、ウ、ウ、エ、ア、エ。直感と曖昧な記憶で選んだ選択肢の語句は文と文を繋ぐ接続詞。こんな風に自分と誰かが簡単に繋がることができればいいのに。けれど、とそこで彼は思い直す。そんな簡単な繋がりで良いのか、と。彼は割とロマンチストだが、どちらかと言えば現実主義者だ。ふとした瞬間に彼の思考はあらゆる矛盾を議論し始める。

 かしゃん、と音がした。それから、衣擦れの音も。大方誰かが筆記具を落としたとか、そんなところだろう。彼はぴくりと顔を上げ、音のした方を見ようと(アレ?)して、首を回そうと(なんだぁ?)して、回せなかった。視界に入る、白。その白は、きっと白衣の白だ。頭には、何か違和感。手を置かれているらしい。今、この教室でそんなことが出来るのは試験官しかいない。ということは。彼は(せんせー!)目を輝かせる。上を向くと、案の定そこには、先程まで教壇で本を読んでいたであろう試験官が。あおい、あおく澄んだ空と視線がかち合う。試験官は彼の頭をぽふぽふと撫でて、唇を(前を向いていろ)動かす。まるで幼子をあやすようなそれだったが、彼は満足そうに笑って(おう、)頷いた。試験官は微笑んで、音のした方へ歩いていく。ふわり、と白衣の裾が舞う。

 それから少しして、ことりという音がした。落し物は無事に机上へ帰還することができたらしい。

 再び時計の方を見ると、定刻の時間まであと十分というところだった。あと十分で下校できるのだ。彼は自然と口角が上がるのを感じた。もぞり、と前の席で眠りこけているヤツが身じろぐ。しかし起きる気配は無かった。

「五分前だ。組、番号、氏名が書いてあるか確認しろ」

教室に響く声。途端に、がさがさと紙の擦れる音が教室のあちこちから聞こえてくる。それに紛れて、え、という焦りの声がところどころで漏れているのが、彼には(んなもんテキトーに埋めとけよ)(なぁ?)聞こえた。

 そして鳴り響く鐘の音。途端に教室が騒めき始めるのは仕方のないことだろう。一気に気の抜けた生徒たちの、だらしない声が教室のあちらこちらで上がる。机に突っ伏して何事か呟いている者もいる。そんな教室を見渡していると、後ろから解答用紙の回収が回ってきた。一番後ろの席というのは何かと回収させられて面倒な場所だと、彼は(絶対なりたくねぇ)思う。ちなみに彼の前の席の解答用紙は本人が見ていないにも関わらず回収されていった。

 ぱらぱらぱら、と解答紙の捲れていく音。前の教壇では試験官が回収された解答用紙を確認している。音の、源だ。だが生憎その音は教室の騒音に掻き消されていた。彼の顔が僅かに歪む。彼は頬杖をつきながら(おい、)(アイツの迷惑になンだろ)騒がしい教室を睥睨する。そんな彼の前で、ようやく眠りから覚めたらしいヤツが、呑気に伸びをした。ぽきりぱきり、という音が伸びをしているヤツ(呑気なヤツ)(まぁ、嫌いじゃねぇけど)から聞こえた。

 教卓で解答用紙を揃えて、試験官が言う。

「それでは、これで試験終了とする。帰りのホームルームは無いらしいから、提出物を出してから各自速やかに下校するように。以上だ」

簡潔に述べて、試験官だった技術科教師は白衣の裾を風に遊ばせながら教室を出て行く。その後姿を見詰めていると、前の席のヤツが快活に笑いながら話しかけてきた。

「今日も可愛かったやんなぁ?」

純粋に、確認するように訊いている表情だ。ヤツのこういう(裏表が無いっつーか)ところを、別の教室に席を置くアイツは見習ってほしい。アイツは少しばかり、否、普通に性質が悪い。

「ん。相変わらずだったな」

 廊下から持ってきた鞄に問題用紙を乱雑に放り込んで、彼は上機嫌に歯を見せる。元気印のような八重歯がきらりと覗いた。本日の提出物は、とヤツが掲示されているプリントを読み上げ始める。どうせ何も持って来ていないし、これっぽっちも手を付けていないくせに。そのくせヤツは(うわ、あかん)(持って来とらへんわ!)また慌てるのだ。いい加減学習したらどうだ。と前の試験の時に言ってみたのだが、ヤツ曰く一学期に一度か二度しかないことなのだから、ついうっかり忘れてしまうらしい。毎回恒例のヤツの忘れ物を確認して、彼は今回もヤツは赤点もしくは青点なのを確信する。

「で、どうする?」

教壇にぽいぽいと提出物を放り投げて、彼は隣に訊く。提出物を諦めた彼の隣のヤツは、せやなぁと笑って、スラックスのポケットから携帯電話を取り出した。鮮やかな赤い野菜のストラップが踊る。ヤツが、ちらと彼を見た。

「そんなん決まっとるんちゃう?」

そして彼も制服のポケットから携帯電話を取り出す。丸く黄色い小鳥のストラップが揺れた。そして二人で顔を見合わせると、にんまりと笑みを浮かべる。その顔は、喩えるならば悪巧みをしているような顔だ。そして二人は同じ相手に同時にメールを書く。文面も、同じようなもの。それはまったく幼稚な、悪戯とも言えないような(っせーの)児戯だ。ほぼ同じタイミングで送信ボタンを押して、ハイタッチ。その一連の作業に何の意味が有るというのか。きっと、無いのだろう。青春という時期は無駄に無意味なことをしたくなる時期なのだ。二人は昇降口に向かうために廊下を走り出した。

 寒さの和らいできた雨水の頃とはいえ、まだ風は冷たいらしい。鼻先を真っ赤に染めて出勤してきた同僚を思い出して彼は思った。

 窓や扉の締め切られた教室には微睡むような暖かさが漂っている。カーテンがひかれていて陽光を多く取り込むことはできないが、それでも布と布の隙間から射し込む陽光は暖かい。眠いか、と訊かれると、そこまでではないのだが、心地は良い。生徒たちの、解答用紙を埋めていく筆記具の音を聞きながら、彼は持参したハードカバーの本に視線を落とす。好きな作家の新作なのだ。ほくほくとした心でページを捲っていく。耳には時折明らかに文字を書くような音ではない筆記具の音が入って来るが、まぁ問題無いだろう。余った時間をどう使うかは個人の自由だ。まして彼らは新入生ではない。そういうところは、しっかりと弁えているだろう。まさか解答用紙が半分以上埋まっていないのに眠っている生徒などは、いないだろう。

 腕時計を見ると、試験の終了時間まではまだあるようだった。ぎぎ、というか、ぎぃい、というか――そんな感じの鈍い音がして、教室に備え付けられている暖房が止まった。タイマー式になっているらしい。送風の音が止まったおかげで、教室は先程よりも静かな空間になる。皆同じことをしているはずなのに、色々な音が聞こえてきた。

 ふわぁ、と。比較的近い座席から聞こえた。思い出したように一度瞬きをして、彼は間の抜けた音を漏らした生徒の方を見る。窓際の前から三番目。そこが生徒の座席だった。眠そうに目を擦っていたから、間違いないだろう。ほんの一瞬だが、目が合った。生徒の目は、きらきらと輝いていて、少し、ほんの少しだけ、羨ましいと思った。

 彼は特に何も無いことを確認して、視線を本に戻す。数日前に買ったものなのだが、やはり面白くて、もう何度も読み返してしまっている。そのせいで、新品だというのに表紙には細かい傷がついてしまっているのだ。やはり本屋でブックカバーをしてもらえば良かっただろうか。そう思う程度に、彼はものを大切にする人物だ。

 そういえば、と彼はページを捲る手を止めた。親しい同僚のことを思い出したのだ。あの同僚はちゃんと試験官という役目を果たすことができているだろうか。心地良いからと言って昼寝を始めていたりはしないだろうか。考えれば考えるほど不安は膨らんでいく。しかし、彼は思い直す。しかし、同僚もだって立派な教員なのだ。大丈夫。大丈夫なはずだ。もう、自分が世話を焼かなくても大丈夫なはずだ。まだ彼らが学生だった頃のように、と。だが、それはそれで嬉しいような悲しいような、不思議な感覚だ、と彼は思った。

 蛇足として付け加えておくと、同僚は美術科の教師だ。昔から絵を描くことが好きだった同僚は、芸術の素晴らしさを子供たちに伝えるのだと美術の教員免許を取ったのだ。免許を取った時の、同僚のその嬉しそうな顔を、彼は未だ鮮明に憶えている。

 カーテンの隙間から入り込んでくる日射しが、じんわりと暖かい。冷えた指先が温かくなっていく感覚に目を細めつつ、彼は先程から己に向けられている視線に、どうしたものかと困っていた。じぃっと。先程から凝視されている。実に、気恥しいような、むず痒いような。視線の主は、目星がついている。おそらく先程目が合った生徒だろう。何か落としたのだろうか。否、そうではない。何か筆記用具を落としたのなら、もっとアクションを起こすだろうし――というか、物が落ちたのなら音がするはずだ。では、何故。あの生徒は、此方を凝視しているのだろう。彼はぐるぐると思考する。決して答えには辿り着かないのだけれど。

 もちろん。そんなことは顔に出さない。生徒に凝視されているだけでこんなにも焦ってしまうなんて、他のひとに知られたら。もし、知られたら。気付かれたら。それは、とても、よろしくない。やはり若いんだな、と見られてしまう。それは自分の望むところではない。

 そんな彼の気を知ってか知らずか、くふ、というどこか間の抜けた声が教室にこぼれ落ちた。

 すぃ、と目が声のした方に向く。その声は、笑い声なのか、遠慮がちな咳なのか、あるいは本当にツイこぼれたものなのか。声の主でなければわからない。彼は、どうかしたのか、という意味を込めて声のした方を見た。再び、あの紅い目と視線がぶつかる。声の主は、先程の生徒だった。しかも屈託の無い笑顔で手を振ってきた。

 わけがわからない。と彼は今度こそ意識して生徒から視線を逸らす。自分と彼は、ただの教師と生徒のはずだ。なのに何故そんな表情を見せるのか。否、他のひとにも見せる、生徒にとってはごく普通の表情なのだろうが。彼はもう一度、視線を合わせたら、あの紅眼に心の中など――すべてを見透かされてしまうのではないか、と思った。それは、やはり、よろしくないことである。気を紛らわせるように、彼は持参した本に視線を戻した。

 かしゃん、と音がした。次いで、衣擦れの音も。誰かが、筆記用具を落としたらしい。おずおずと挙げられる女生徒の手を確認して、拾いに行こうと腰を上げた丁度その時。視界に窓際の前から三番目の席が入った。あろうことか、その座席の生徒は音のした方――後ろを向こうとしている。彼は、落し物をした女生徒のところよりも先に、窓際の前から三番目の席に向かうことにした。

 今まさに後ろを確認しようと、振り向きかけていた生徒の頭部に手を置く。そして他の生徒の席が見えないように、その生徒の視界に立つ。眼下では短くやわらかな生徒の頭髪がふわふわと揺れている。生徒は、首が回せないことに疑問符を浮かべているようだった。しかし、それもほんの一時のこと。自分の頭部を押さえているのが彼だと解ると、目を輝かせて彼を見上げた。あかい、あかく熟れた桜桃と視線がかち合う。大丈夫。大丈夫だ、と心の中で唱えながら、彼は生徒の頭に乗せている手を上下させて、唇を動かした。前を向いていろ、と音にはせずに。生徒は彼の言いたいことが解ったのだろう。やはり明朗に笑って前に向き直る。彼はそれを確認して本来の目的の座席まで歩いていく。その際、彼の纏う白衣の裾が微かな音をたてた。

 女生徒が落としたのは可愛らしいキャラクターが描かれたシャープペンシルだった。それを拾い上げて机上に戻してやると女生徒は――もちろん座ったまま――彼に頭を下げた。ふと視界に入った彼女の解答用紙には、まだ少し空欄が残っていた。

 それから暫時。教壇に戻って、再び本を読んでいた彼が腕時計を見ると、定刻まであと五分というところだった。本に栞を挟んで、彼は受験生諸君に呼び掛ける。

「五分前だ。組、番号、氏名が書いてあるか確認しろ」

彼の声に、がさがさと紙の擦れる音が教室のあちこちからし始める。それと、その音に紛れてこぼれ落ちる焦りの声も。

 ウェストミンスターの鐘が、教室のスピーカーから流れてくる。それと同時に一気に騒がしくなる教室。今日の試験が終わったのだ。仕方のないことだろう。彼は騒めく教室を眺めながら思う。解答用紙は、一番後ろの席の生徒が回収して前に持ってきた。

 ぱらぱらぱら、と解答用紙の捲れていく音。先程確認を呼びかけたが、もしも、ということも十分有り得る。解答用紙の記名欄を書き忘れている者がいないか、彼は一枚一枚確認していく。教室が騒がしい所為で集中力が途切れそうになりつつも、彼は解答用紙すべての記名欄が埋まっていることを確認し終えた。小さく一息吐いて目を閉じる。とんとん、と教卓の水平な台を使って彼は解答用紙を整える。そして持参した本と、教科担当の教員に渡す解答用紙を小脇に抱えて、彼は再度口を開いた。

「それでは、これで試験終了とする。帰りのホームルームは無いらしいから、提出物を出してから各自速やかに下校するように。以上だ」

それだけ簡潔に述べて、彼は教室を後にする。今回の試験に担当の教科が無いとはいえ、暇だというわけでもないのだ。廊下に出ると、提出物を提出して下校としようとしている生徒がまだ疎らにいた。大半の生徒は教室で友人たちと閑談しているらしい。その気持ちは、わからないでもない。

 職員室に向かって歩を進めていると、途中の教室から試験中にふと考えていたあの同僚が飛び出して来た。同僚はふにゃりと破顔して彼の隣に並んで歩き出す。どうせ向かう場所は同じだ。偶然にも彼と同じ学校に赴任した同僚は相変わらず楽天的で人懐こそうな人物だった。教室があったかくてツイ居眠りをしてしまっただのなんだのという話を聞きながら、二人は廊下を歩いていく。当たり前だが暖房の無い廊下はひどく寒い。ところどころ壁に結露した水滴が浮かんでいた。寒いねぇ。寒いよぉ。と同僚が情けない声をあげる。それを適当に受け流しながら進んでいると、向こう側からよく見知った顔が歩いてきた。此処で二人と最も仲の良い教師だ。若い二人よりも更に若く見えるその教師は、それでも二人より年上なのだという。二人を見とめたその教師はおや、と微笑んだ。彼と同僚も、顔を綻ばせてそれに答える。その教師もまた試験の監督にあたっていたようだ。三人は互いに労いの言葉をかけあう。やはり向かう場所は同じだ。

 校舎の外に、ちらほらと生徒の姿が増えている。下校の支度が整い始めたようだ。

「青春ですねぇ」

教室から出て、並んで廊下を歩いて、校舎の外に出ても、生徒たちの話は尽きることが無いらしい。外から聞こえてきた生徒たちの声に、教師が口元を綻ばせる。そんな教師を見て、同僚もそうだねぇと至極嬉しそうに同意する。彼としては同僚も十分すぎるほど元気だと思うのだが。そんなことを思っていると、外から一際威勢の良い声が聞こえてきた。次いで、二人分の笑い声も。きっと寄り道でもしていくのだろう。成る程、青春だ。思いながら、彼は職員室の扉に手をかけた。

青い春を駆け抜ける

(だって、)(待っちゃくれねぇんだもん)

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