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 薄暗い。夜の帳が下りた森は、当然だが昼間よりも昏く、静かだ。獣は勿論、草花すらが眠りについて風の独り言だけが森を微かに揺らす。街灯なんて当然立っていない道を蹴る音。規則的で躍動的な音だ。誰かの何かの息遣い。そこに時々混じる笑い声。喉の奥で笑うその声に、獣たちは薄目を開け、そして再び目を閉じる。声の主は脇目も振らずに一本道を駆けていく。跨っているのは白い馬。声の主が纏うのは簡素だが品のある軍服。古い御伽噺に登場する王子様のようだ。深い深い森の中を駆けていくその姿は、茨の城に眠る姫君を起こしに往く勇敢な王子にでも見えようか。そんなこと、当人には関係の無いところだろうけれど。まったく、無いのだろうけれど。堪えきれない笑いが漏れる。ぎり、と噛む奥歯が軋んだ。そうして走ること幾何か。現れたのは古びた教会。聞こえるのは風の囁き。剥がれ落ちた壁の塗装は色褪せてささくれ立っている。割れた色付き硝子の宗教絵画はただの風景に成り下がっていた。馬を降りて苦労を労う。馬小屋なんかは無いから、裏の方に周って手ごろな樹に手綱を結わえる。やけに穏やかな顔で、人影は教会の表に周った。鍍金の剥がれた修飾。錆び付いた装飾。拠り所となるべき場所はその意味を失っていた。冷たく重い扉を押し開ける感覚は征服する時の感覚によく似ているかもしれない。聳え隔てる木製の扉を誰の許可も了承も無く開けて、騎手は教会に入っていく。中はひんやりと冷えた空気が漂う。射し込む月明かりに、細かな塵がキラキラと光る。まっすぐ前方に在る祭壇もすぐ両隣の長椅子の列も役目を失い埃を被り朽ち果てるのを待つのみ。破れ剥がれ砕けたものが転がっているのがこの教会だった。カミサマなんてもういらないよ。人影は歯を見せて十字架をわらった。とん、と軽やかな音が一つ。後には何も残らない。水面ではないのだから、波紋などは、もちろん。けれど、その後の余韻すら、残らない。ただ音が一つ。空を震わせて、消えた。キラキラと光る塵の動きが忙しなくなった。そしてそのまま人影はくるくると回る。廻るまわる。踊るように、舞うように。しかし、観客などは、もちろんいなくて。その口角を上げて、ひとり静かに廻り続ける人影を見ているのは、やはり誰もいない。ただ、色付きの硝子から差し込む月明かりと静寂だけが、それを見ていた。機嫌が良いらしい、というのは、小さく聞こえてくる旋律でわかる。しあわせそうな音階。あたたかな音色。けれどそれは、場に不釣合い過ぎた。長椅子の背凭れに乗り肘掛から肘掛に移り足を踏み外すこと無く祭壇に近付いていく。時々紙くずを踏みつけながら。ふわりと上着が広がった。ごつ、と重たい音。靴が木の床を捉えた音。脆くなっている木材は緩く軋んで人影の靴を受け止める。振り返ると入ってきた扉が翳り此方を見つめていた。騎手の目的は祭壇の横の壁。そこにある扉。けして大きくは無い、ひと一人が通れるくらいの扉だった。壁と同じ素材で作られた扉は一見そこに在るのかわからない。何のために。誰が作ったのか。知る由も無い。その扉を押して、人影はからだを中に滑り込ませる。橙色の、燭台の炎がその隙間から溢れた。閉じられた扉の、祭壇側。朽ちた教会に、再び静寂が戻る。扉の向こう側。やはり草臥れた臙脂の絨毯が敷かれた石造りの廊下を歩く一人分の足音。灯された燭台の灯り。壁から生えた取っ手。変わらない一定の間隔。そして幾つ目かの等間隔。ひとつ、壁を、否、扉を叩く。返事を待たずに開かれる扉。返事など、返ってくるはずもないけれど。愛しい我が家に帰って来たかのような気分で踏み入れた室内は簡素なもの。寝台と化粧台と机と椅子。枠に嵌っている硝子は色が付いている。ひとつ、一人用の寝台には白い繭。動く気配は無い。動いた気配も無い。化粧台には筆記用具と水差し。それと、殆ど水の入っていない花瓶に活けられている萎れかけた花。机の上には分厚い本が数冊。椅子には服がぞんざいにかけられている。何も異常が無い。いつも通りに在ることを確認して、寝台に近付く。腰を落とすと、中の発条が小さく呻いた。気にせず、白い繭を優しく壊していく。覗き込むと、やはり繭の中の眠り姫は口付けも無く目を茫洋と開いていた。虚ろに彷徨う宝石は此方を覗き込む輝石を捉えて僅かな光を灯す。薄い唇の奥。小さく動く舌は何を紡ごうとしたのか。結局まわりきらない舌に言葉を乗せることを諦めた宝石の持ち主は白の中に埋もれようと身を捩る。そんな、緩慢な動きで。輝石は細められ、手が伸ばされる。髪を撫ぜるその手つきはどこまでも優しいけれど、そのまま頬を辿って唇をなぞって肩に辿り着く手の動きはどこまでも欲を孕んでいた。冷たい。はふと堪らず零れる吐息はどちらのものか。日にあたることのない肌は磁器のような白。動かされることのない身体は記憶の中のものより幾分か細い。滑らせ差し入れた白い繭の中。だらりと伸ばされた四肢をなぞると、ひくりと反応。掠れた声が零れた。きっと自分以外誰も知らない声。自分以外の誰かに聞かせる気などは、もちろん無い。震える睫毛。もぞりと新しい皺を作った腕は何を求めたのか。普通のひとなら動く気力すら無くなって、ただの呼吸する人形にでもなっている頃だろうに。健気な姿に笑みが堪えきれない。どこまでも、穏やかな微笑。しかし眉を微かに潜められ、何事かと問うてみる。耳元でそんなにも優しく甘美に囁き訊く必要があるのかと、しかしそれを言うものは、言えるものはいない。掠れた声が名を呼ぶ。己の名を呼ぶ。呼ばれた、その甘やかに蕩けそうなこと。ぞくぞくと背筋に悦楽が這う。返す言葉に熱が籠るのは当然のことだろう。吐息混じりの歓喜。上がる口角。込められる腕の力に掬われる身体。開く花弁は赤く朱く。跳ねる身体は白く滑らか。細められた宝石から溢れる雫は麗しく煌めき落ちる前に拾われ呑まれる。甘いと。どこに口付けても舌を這わせても恍惚とうっそりと呟く輝石は相変わらずひとりだけを映し続けている。細く小さく、恥じ入るように零れ落ちていく声と雫の意を知らずに、否、知ろうともせずに、その手は奥へ奥へと伸びていく。渦巻く熱と欲。浮かび上がるのは白。

 はじまりの記憶はもう遥か彼方。はじまる切欠に心当たりは無く、唐突な幕開けだったと憶えている。最後の記憶はいつも通りの場所、顔ぶれ。最初の記憶は見慣れぬ場所、鈍く煌めく輝石。白い海の中、唐突にどろりと甘く囁かれて慌てないものがどれほどいるのか。しかし抵抗空しくぞくぞくとした感覚が背を伝う。嫌だと。こんなのは、違うと、言おうとして、結局言葉にすることは叶わなかった。何時どうやって見つけたのか知らないが、此処が何処なのか分からない、今が何時なのか分からない、非現実的な非日常的なこの状況をどうにも出来ない限り、何もどうにもできない。外と内を隔てる布の隙間から射し込む光の色と鳥の声。時折聞こえてくる名も知らぬ獣の声。そんなものを頼りに廻る世界を知る。まだ外に出られると思っていた頃のこと。まだ希望とやらを持っていた頃のこと。繰り返される日常。それは嘗てのものでは無かった。倒錯と陶酔。背徳と背信。堕落と退廃を織り交ぜて何もかもが堕ちていく。日を重ねるごとに、身体が自分のものではなくなっていくような感覚。纏まらない思考。抜けていく力。掠れた声。何のために。ぐるぐると回るだけの考え。繰り返される日々。堂々巡り。此処に自分を連れてきたものは何を考え何を思い、この結果に至ったのか。何も言われず、教えられず、ただ甘言だけを注がれる。甲斐甲斐しく世話をされることへの嫌悪すら薄れかかっているほどの期間。陽の昇っている間。それはひとりの時間。それは飼殺されているような感覚。きっと違いない。いっそすべて壊してくれればいいのに。此処に自分など無いのだと思うほど、何もかもを奪ってくれればいいのに。そうすれば考えなくていい。思わなくてもいい。感じなくてもいい。けれどそれは今日も叶うことなく陽は沈む。月の昇っている間。それはふたりの時間。それは繰り返し生殺される感覚。焼け付くような熱と噎せ返るような欲に晒された肌を焼く快楽。狂うような愉楽。施される逸楽に蕩け痺れる頭。許したことのない領域。許されるはずのなかった範囲。ひらかれた其処は禁忌。罪か、否か。罰は、在るか。今日も月が昇る。木々の騒めき。風の独り言。蹄の規則的な音。少しして、開かれる遠くの扉。重みのある靴音。機嫌の良さそうな音色。漏れる笑い声。ぐらぐらと脳を揺さぶる。次に開く扉は先程のものより当然近い。衣擦れの音。等間隔に叩かれる床。それは扉の前で止まる。コンコンと堅い音。回るドアノブ。扉が開く。返事を待たないノックに、果たして何の意味があるのか。意味なんて無い。何ものにも。自分にも、相手にも。この状況にも。やけに明るい声が鼓膜を震わせる。足音も、軽やかなものだ。迷うことなくこちらに向かってくる。止まった、と思ったのも束の間。厚い布に埋められた発条の軋む音。沈む海。波は形を変える。現れるのは見慣れた姿。眩む視界。漂う鉄錆と硝煙の臭い。それだけ、では、ないのだけれど。影がかかる。その中で鈍く煌めくのは見紛うはずのない輝石。耳にかかる吐息。朧気な意識はどろりと滴る血反吐のようだ。まわらない舌で悪態をつくのは諦めて、胸中で吐き捨てる。音になることは無い。ほかに伝わることは無い。そのやるせないこと。からだを起こそうにも、腕に力が入らない。今に始まったことではないけれど、慣れることも無いだろう。慣れる気など、始めから毛ほども無いのだから。はっきりとしない視界と、虚ろな呼吸は水中にいるようだ。四肢も怠くて重くて、視界に広がる白と灰色は、やはり海と形容してもいいのだろう。外と内を隔てる枠に嵌った硝子を覆う布の間から差し込む静かな光は、何も言わない。ぽっかりと、一切の光を拾わない左側。欲しいと、くださいと囁かれ、うっそりとした表情で奪われた球。奪ったもの曰く、珠。右だけでは捉えきれない場所に自分のものでは無い、感覚、感触。人肌にしては固くカサついているのは手袋をしているからだろう。頬を撫ぜられる。眦を通って目蓋に触れて髪を優しく梳いて、その手はまた頬に戻ってきて今度は唇をなぞる。ぞわりと視界が滲む。無意識にだろう、唇がはくと動いた。するすると下に往く手は肩を捉え鎖骨を捉え胸を通って腹、さらにその下へと進んで行く。熱に湿り欲に塗れた吐息はどちらのものか。中途半端にはぎ取られた白。削られる理性。制止の言葉はかたちにならずに掠れた音が落ちるだけ。せめてもと力を込めた腕は、しかし白に新しく皺を刻むだけに留まった。流し込まれる甘さ。吐息のかかる距離。何故そんな声で表情でこの名を呼ぶのか。這い回る悦楽。震えるからだ。こんなのは違う。浅ましい。流されてしまえば楽なのだろうけれど、生憎まだ矜持というものが残っていた。それはたぶん、今ここで手放してしまうと二度と戻って来ない。自分が自分ではなくなってしまうだろう。それなのに。鮮やかな花弁を散らしているものは。こわれてしまえと。おちてしまえと言わんばかりの表情をする。抱き寄せられるからだ。それはどこまでも丁寧に扱われる。こちらの意思など汲んでいないくせに。けれどふやかされたからだは貪欲にその先を求める。思わず零れた音に輝石はその輝きを増す。溢れた雫は掬われ落ちることがない。甘い、らしい。恍惚と言われる。どろりと鈍く光る輝石に映り込むのは幼子のような。頭のどこかはいつだって冷静で理性的で常識的だと、思っていたけれど、髄まで蕩けきったモノではそんなもの期待できない。現に、こんな非生産的で無意味極まりない行為の先を望んでいるかのような声、表情。こころとからだが噛みあわない。どちらが本意なのか。願わくば否定する言葉を。肯定する反応ではないと。絶え絶えに零れるだけの声は煽るだけの薬。歯止めになどなりはしない。やっとのことで呼べた名も溶かすだけ。違うのにと。そうじゃないと。首を振るのに。これ以上はいけないと。響く警鐘。今更元に戻れなくとも、まだ引き返すことはできる。空いた左の眼球は戻って来ないけれど。刷り込まれた快楽を忘れることはできないだろうけれど。居るべき場所に、かたちだけでも帰るべきだと。それなのに。すべて暴こうと伸ばされる手に熱は燻って。

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