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某文豪の某十夜パロのような(できてない)
不思議な感じのハンソドがね、書けてると良いなって(書けてない)

宴衣装ごとに星が存在してたりする特殊設定有
……まあ、すべて夢のようなものさね( ˘ω˘ )

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一色

 ある夜のことだった。

 自分は眠っていた。けれど何かの気配を感じて、ふと目を覚ますと、寝台の脇に彼が立っていた。自分は、何故か寝台から起き上がろうとも思わず、横たわったそのまま彼を見ていた。

 彼が口を開く。俺はもうかえらなくてはいけません。彼の言葉を、自分は静かに聞いていた。だから、自分の口から出て来た声が落ち着いたものであったのも、道理だと言えた。もうかえらねばならぬのか。はい、俺はかえりの刻を迎えてしまいました。――等と、彼も自分も、世間話をするような調子だった。別れの話をするような調子では、まったくなかった。

 今となっては見慣れた、表情の少ない顔がふと近付く。彼が寝台の脇で膝をついたらしい。覗き込んでくる瞳の奥には、星空が広がっているような気がした。彼の双眸を覗き返そうとしていると、手に何かが触れた。脱力したままの自分の手をするりと包むのは、やはり彼の手であった。病人に祈るようなかたちで握られる手に、そっと唇が寄せられる。

「俺が帰ってくるまで、待っていてくださいますか」

吐息のような囁きだった。自分は色も厚さも薄い男の唇を茫洋と見ていた。

 彼の瞳がひとつ瞬く。ゆっくりとしたものだった。それで自分は、彼はどうあってもかえってしまうのだろうな、と確かに思った。自分の手を握っている彼の手を握り返そうと力を込める。けれど、夜の不定に融け滲んだように、身体は言うことをきいてくれなかった。

「待って居よう。そなたが帰って来るまで、待って居よう」

言葉だけが静かに、確かに。それを聞いて、彼は、ああよかった、と呼吸した。薄い唇が籠手に当てられるのがわかった。きっと彼は目蓋を閉じている。そこでふと思いもよらない言葉が口から滑り落ちる。

「ところでそなた、何処へかえるのだ」

自分の聲に眼が丸くなる。そんなことを訊いてどうするのか。しかし彼は下らぬ疑問に優しく答えてくれた。

「俺の帰る場所であったところへ、かえります」

くすくす、と小さく笑ったようだった。

「俺の帰る場所は貴方だから、あそこへはもう帰らないので」

だけど少し寂しいな、と彼が付け加えたので、自分は、ならばそちらを帰る場所にすると良い、と言った。そうすると、彼は一拍口を閉じた。それから、困ったような笑い声が籠手をくすぐった。

「いいえ――いいえ。寂しく感じるのは、貴方と離れるせいです。寂しく感じるのは、貴方と触れ合えないからです。寂しく感じるのは、貴方がいなくなるためです。行って、帰ってくるまでの間が、とてもとても寂しい」

彼の言葉を聞いて自分は、確かにそれは寂しいな、と思った。

「ならばそなた、何時帰って来るのだ」

きっと、寂しいと思ったから、自分はまた彼に訊いたのだ。

「俺が行ったら、このまま目蓋を閉じてください。そうして、そのまま眠ってください。俺は行く前に、貴方の枕元に徴を残していきますから」

彼が帰ってくるまで、目蓋を開けずにいられるだろうか、と少しの不安を吐く。同期や後輩に呼び起されたらどうすれば良いだろうか、と情けなくも彼に訊いた。

「それでも、眠っていてください。誰かが身体を揺らしても、誰かが耳元で呼んでも、ずっとそのままで居てください。月が東から西に流れて、星が爆ぜて散り散りに涙を流しても、俺を待っていてくださるなら、どうかそのままで」

貴方ならできるでしょう?と言われて、自分は、是、と――答えるしか、なかった。

 また彼が笑う。満足そうな笑みだった。それを見て、自分は、ひどく安堵したように思う。そしてひどく安堵したと思ったら、泥沼のような睡魔が視界を覆い始めた。彼の姿が暗んでいく。ヂヂ、と室内のランプが呻いたのが聞こえた。自分も、幼子のように眠りたくないとむずがったかもしれない。けれど、どんどん、どんどんと、世界は暗くなっていく。自分を覗き込む彼の笑顔と、触れ合う手の感覚だけが鮮明で――。

 最後に自分は、なんと呟いたのだったか。

 それから夢を見た。幾つもの夢だった。星が降り、太陽が泣いていた。同期や後輩たちが、誰かの葬式を挙げていた。砕けた月が、海の上で可憐に咲いていた。弾けた星の欠片が眼を抉り、水底が見えるようになった。誰かの声を聞いた気がした。氷の歌声に雪が嫉妬して、風がどこかへ逃げていった。そんな夢ばかり見ていた。終いには、夢か現かも判らなくなった。足元にころりと目玉が転がる。拾い上げると、それは目玉ではなくて、珠のようだった。外から内へ、色が濃くなっている、うつくしい珠だった。球を覗き込んだ自分は、黒々としたその中心で、何か光が弾けるのを見た。だからだろうか、てのひらに転がしていたそれを、握り込んだ。パキン、とも鳴かずに、それは粉々になった。そうして、ふと顔を上げると、頭上には見慣れた格子の天井が広がっていた。自分は横になっていて、誰かが床板を軋ませる音が耳に届く。ああ彼が帰って来たのだ、と自分は、埃っぽい二等マイハウスの中で思い至った。

 

 

 

二色

 ある夜のことだった。

 招かれた彼の部屋はいつもと風情を変えていた。船室の木材はそのままに、やさしい灯りで照らす行燈が、普段の光源たちの代わりにあちらこちらに置かれている。絨毯の柄、棚や机に置かれた小物の類も、普段とは趣の異なるもので、遠い昔に依頼で尋ねた、東方の地域を思い出した。当然というべきか、自分を招き入れた彼はどこか満足そうな表情を浮かべていた。チリリと頭上から降った音は、ガラス細工の囀りらしい。さすがに変えられなかったと見える船室一の照明の周りに吊り下げられたそれらは、中央の灯りを綺麗に反射して周囲と自身をキラキラと輝かせていた。

 寝台へと手を引かれる。シーツはいつもと変わらない清潔な白色だった。まず彼が寝台に腰掛け、自分は。

「先生」

握られたままだった手をそのまま引き寄せられ、彼の膝上に乗り上げる。彼の脚を跨いだ体勢。その際、グイと存外強い力で引かれたものだから、彼と自分の防具がぶつかり、乾いた音がした。すまぬ、と口にすれば、大丈夫です、と彼の声が返って来た。そうして少し見つめ合っていると、視界の端に見慣れない紐のようなものが映る。それに手を伸ばす。前々から、気になってはいたのだ。今彼が纏っている装備は一式だと言うが、頭部のこれはどう見ても頭髪だ。そのままの色では合わないから染めているらしいが、自分には伸びた頭髪を結ったものにしか見えなかった。実際、触れてみても手触りに違和感はない。思わずまじまじと弄ってしまう。彼の髪色に染められた装備を指に巻き付けてみたり揺らしてみたりしていると、ふと小さく頭部を引っ張られるような感覚がした。そこで彼の顔を見てみると悪戯っ子じみた顔があった。口元へ遣られた手には、見慣れた羽飾り。どうやら自分がしていたように、彼も此方の頭部装備の羽飾りにちょっかいをかけたらしい。親の気を引こうとする子のような発想に笑みがこぼれる。子供にしては――ちゅ、と彼の指に絡んだ羽飾りに口付けの落とされる音――艶のある所作だとは思うけれど。

「気に入っていただけましたか」

綺麗に持ち上がる口端。反射的に首が縦に揺れる。否、実際、新鮮と言うか、素晴らしい調度であると思っていた。そして、美しい刺繡の施された、東方風の装備を纏った彼は、ああ確かに美丈夫だ――と思うのは、惚れた故の眼だからであろうか。彼の唇が振れる。誘われるようにこぼれおちるは、遥か遠く国元でいつか聞いた詩だった。

「恋に痛みし腕は揺蕩い、されど私は茨を集め結わえては君を紡ぐ」

「愛に溺れし脚は埋もれ、故に私は花弁の夢を往きて春の陽を仰ぐ」

「鳥は啼き、風の遊ぶ、美しの庭」

「ただ君への想いこそ咲き誇らん」

彼の声を引き継ぎ、彼の声が引き継いだ。そうして二人で口遊んだ詩の一部に、仄かな郷愁を見る。しかし彼の方はと言えば、そうではないようだった。一拍、目を丸くしたと思えば、次いでふにゃりと顔を崩していた。いかがした、と訊いてみれば、ご存知だとは思わず、と返って来る答え。

「少し長く生きていれば、無意識に覚える言葉のひとつやふたつ、あるものよ」

恋愛沙汰の詩として、それなりに有名なものだということもあった。学問や読書を、少しでも齧っていれば一度くらいは目にする程には。そして自分のような者でも、いつの間にか覚えている程には。彼の場合は、勉学に勤しんでいた同期にちょっかいをかけた時に、駄賃代わりに教えられたようだけれど。

 期せずして自分が思い付きに付き合ってくれたことが嬉しいのか、彼は上機嫌に擦り寄って来る。指に絡めていた羽飾りを解いて、太腿の辺りに置いていた手を退かして、そうして自由にした二本の腕を背中に回して、ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる。己のにおいを移すように擦り付けられる頭部は、まるでマーキングでもされているよう。その好意はとてもまっすぐで、一途で、こそばゆさも感じてしまうほど。だから、少し、彼に報いたくなったのだ。自分が知っていることは多くない。街の恋人たちが交わし合うような言葉などよく分からないし、文人が綴るような気の利いた言葉も選べない。けれど、それでも、身体の動かし方は知っていた。言葉を伴わぬ愛情の示し方は、目の前の彼が今まで散々見せて来てくれた。それらは正しく、彼が教えてくれたことだった。

「先生、」

先程彼がしてくれたことの、真似事を。触れたままだった彼の頭部装備を、口元へ運ぶ。自分の頭部装備は着けているそのままだから、直にではないけれど、口付けをひとつ。自分の行動に、キョトリと目を丸くする彼の顔が幼げに見えて、思わずフフフと笑みがこぼれる。好いた者へ愛を示すという行為の充足感を教えてくれたのも、またこの若い狩りびとであった。酒を飲んだ時のように頭がふわふわとして身体が温かくなる。更にそのまま、彼に倣って頭をそっと擦り寄せてみると、石のように固まっていた彼の腕が背を這い腰を撫でるように動くのを感じた。

 夜の帳の内、大輪の花が開いた音に気付いた者は、果たしていただろうか。

 

 

 

三色

 ある朝のことだった。

 目を覚まし、寝台に彼がいることを確認して、準備に取り掛かる。すべては彼のために。彼の、より好い朝のために。

 まずは朝風呂の準備をする。温泉に放していた環境生物たちを引き上げさせ、タオルや桶を用意する。もちろん、替えのインナーも手配済みだ。彼の身体と言っても過言ではないあの防具も昨夜のうちに点検と清掃を済ませている。今彼が纏っている軽装も、後程整備する予定だ。すべてはそう、彼のために。

 次に朝食の準備と、そもそも食事を用意できるだけの食糧が在るのかを確認する。調理場のアイルーたちや相棒の編纂者ほど凝ったものは作れないけれど、むしろ朝なのだから軽めのものの方が良いだろう。ごそごそと食材袋を漁ってみると、幸いにも二人分弱の食材は残っていた。パンを取り、野菜を選んで暖炉兼竈へ向かう。卵もあった方が良かったかもしれないが、生憎卵の在庫は見当たらなかった。アイテムボックスから持って来たこんがり肉をスライスし、火にかけながら野菜を切り分けていく。ソースのようなものは無いから、スパイスを振りかけてアステラジャーキーを細かくしたものを散らす。パンも食べやすい厚さに切り、軽く火で炙ってから皿に乗せる。そういえばチーズが、と思いかけて、以前オトモとルームサービスに分け与えたことを思い出した。

「旦那様、ミルクが温まりましたニャ」

自分の意図を汲み、調理場でミルクを貰って来てくれたルームサービスが湯気を上らせる小鍋を見せてくれる。フツフツと鍋の渕が泡立っている白色に優しいにおいを確認して頷く。ルームサービスは自分の反応を見て、小鍋をマイハウス中央のテーブルへ持って行った。ややあって、とぽとぽとぽ、とミルクが別の容器に注がれる音が聞こえてくる。その間、自分は火にかけていたこんがり肉をひっくり返したり、用意した皿にサラダを盛り付けたりしていた。自分が料理を盛った皿を持ってテーブルへ行けば、ルームサービスはホットミルクにハチミツを垂らしているところだった。そこでふと気になって、朝は食べたのかルームサービスに訊くと、調理場でルームサービス含めたお手伝いアイルーたちと共に済ませたと答えが返って来た。随分と朝早くから、アイルーたちも大変なのだなと思った。朝日は、ようやく昇り始めた頃合いだった。

 寝台にできた、こんもりとした山がもぞりと動く。彼がそろそろ目覚めるらしい。ともすれば彼らしくない、シーツを巻き込んで眠る姿は、けれど自分だからこそ見られる姿であることを考えると、この朝の時間が好きで好きで堪らなくなる。静かに、しかし先触れのために足音は立てながら寝台に歩み寄る。シーツの山に寄り添うように腰を下ろすと、混じり合った二人のにおいがした。

「お早うございます、先生」

そっとシーツを退けて、未だその下を知らぬ鉄面に囁きかけると、微睡みのとろけた視線がその奥から寄越された。それを受け止めた時の悦びたるや。

「先生」

クツクツと笑う喉を止められない。この、素晴らしい狩人の緩み切った姿を見た事のある人間がどれほど居ようか。自分を含めた多くの狩人に慕われ、敬われる先達が、これほどまでに幼気な姿を晒せる他人が、どれほど居ようか。緩んでいく頬を、どうして止められよう。

「俺と摂る朝食はお嫌いですか」

わざと意地悪く訊けば、むう、と小さな唸り声がして、山がモゾモゾと動き始める。小さな窓は換気のために開けているけれど、それ以外の多くの窓やカーテンは閉めて、なるべく暖気が外に逃げないようにしていても、やはり温まったシーツの中よりは寒く感じてしまうのだろう。前線拠点のどの室内よりも温かくなっているとは思うのだけれど――こればかりは仕方ないかと思う。それでもモゾモゾとシーツから這い出てくれた彼に口付けをひとつ。後はトテトテと寄って来たルームサービスに朝風呂の手伝いを任せ、自分は寝床の清掃に取り掛かる。色濃く残った彼の残り香を消してしまうのは惜しいけれど、彼に清潔な寝床で過ごして欲しいことを考えればしないわけにはいかないのだ。

 「朝食は冷めてしまったか……すまぬ」

自分が寝床を整え終えるのと、彼が朝風呂から戻って来たのは大体同じ頃だった。いつもの、見慣れた格好の彼が、頭部の羽飾りを少し萎らせながら席に着く。

「俺には丁度、食べやすい温かさですよ」

さあ食べましょう、と自分も席に着き彼を促した。

 

 

 

四色

 ある朝のことだった。

 ふと波の音が近くで聞こえて、海を見に出た。調査員たちはもちろん、森に息づく生き物たちすら目覚めていない頃合い。未だ星影の残る空の縁はようやく明らんで来ていた。自分はさも調査に赴くのだと言うような顔をして拠点を出る。ちらほらと見える人影たちも、自分の動きをさして気にしてはいない。そうして拠点と隣接する森へ繰り出し、海を目指す。幸いにも、最も海に近付ける海岸は、拠点から近い場所にある。

 緩やかな、そして少し急な傾斜を下っていくと、砂浜が現れる。いつも見かける先客たちはまだどこかねぐらにいるらしく姿は見えない。日中よりもだいぶ過ごしやすい早朝の涼感に思わず目が細まる。明らみ始めの空に海が輝きだし、海中の魚影が浮かび上がる。暗い蒼を揺らす水面はやがて一時だけ燃えるような空の色を映し、そしてまた拓けた空の青を映すのだろう。目に見えて移ろい往く世界は、けれど時が止まったように美しい。もっと近くで、と、水際へ歩き始める。するとそこには、波打ち際には、誰かが立っていることに気付いた。いつからそこに居たのだろう。静かな人影と岩陰を混同して気付かなかったのだろうか。誰なのかを確かめたくて、その誰かに視線を向けたまま一歩踏み出すと、踏み出した足が接地すると同時に人影が振り向いた。そこで人影の頭部に羽飾りのようなものが揺れたのが見えて、右肩が歪に裂けているのが見えて、自分は人影が誰なのかをようやく理解したのだ。彼の背後で、ぱしゃりと水面がひとつ跳ねた。

 彼はこちらを捉えて愉しそうに笑ったようだった。そしてこちらを向いたまま、ゆっくりと後退る。繋がれた紐を曳かれるように、自分は彼の姿を追った。足元の砂が波にさらわれていく。自分と彼はまるで鏡に映ったように、常に一定の距離を保ったまま海を進んだ。水が身体にぶつかる音は朝の海に似合わない。対して彼は、波に身を任せる葉舟のように静かに深みへと進んだ。追えば追う分だけ、彼は沖へ後退る。自分たちは海洋調査を任務の一つにはしていない。この頃は落ち着いているとは言え、潮の流れが把握され切っていないことと、海で狩猟をするという危険性から、許可が出ていないのだ。精々釣り糸が届く程度の範囲しか、自分たちは海を知らない。文献や船乗りの話によれば、海底は砂地が徐々に深くなっていく場所ばかりではないという。突然砂地や岩場が途絶えて、真暗な深海へ一直線に行ける地形もあるらしい。もう腹の辺りまで水に浸かっている彼の姿を見ながら、そんな話を思い出していた。もしもこの海岸が崖のような地形の上にあるのなら、きっと彼は海の底へ真っ逆さまに落ちてしまうだろう。古い龍が眠り、踊り、歌うほどの深い海でなくとも、いつも通りの装備をまとっている彼はその装備故水底に沈み、刹那の泡沫と消えてしまうだろう。

 「先生」

ふと彼が目の前から消えてしまう気がして、手を伸ばした。否、そもそも目の前に彼が確かに居るのか恐ろしくなったのだ。けれど伸ばした手は彼に届かなかった。分かっていた。彼まではまだ距離があった。

「先生、先生」

ざぶざぶと水を掻き分ける。足裏には柔らかい砂の感触。進むにつれて、硬い岩が多くなっていく。足が沈み、進みにくい砂地よりも歩きやすい岩場を蹴って彼に近付こうとする。時折踏みつけるやわらかなものは海藻の類だろうか。チラと見えた海中には、揺れる水面にぐにゃぐにゃと歪む自分の足と、それが踏みつけたと思われる海藻の一部が、花弁のように舞っていた。魚影は見えない。皆どこかへ逃げてしまったのだろう。

「先生、待って」

ほとんど飛び掛かるようにして彼を捕まえる。我慢のできない子供のようだ。けれどそうして彼の手を握って、進み少しでも陸の方へ引き戻す。手を繋いで帰るのだ。そんなことを、確かに自分は考えていた。考えていたのに、身体はそうはしなかった。ほとんど飛び掛かるようにして捕まえた彼の身体を、そのまま抱き締め続ける。そこで彼が自分を抱き締め返してくれた。くすくす、と耳元でくぐもった笑い声が聞こえ、自分もフフフと笑い声をこぼす。そして何とはなしに足元へ眼を遣ると、彼の足元の踵側が、あともう半歩もないくらいの先で途切れているのが見えた。良かった、と思った。

 ざぶんと音がした。周囲は青く、視界の先は昏い。擦れ違う泡沫は小さいのが群れたものだ。時々逸れたものもある。ややあって視界の端を落ちていく青白い花弁の中には誰かに踏まれたようなものもあった。その辺りで自分は、自分が彼を海中に押し倒したのだと理解した。ふたつの身体はどんどんと沈んでいく。腕の中の彼は何も言わない。ただ微笑したまま、自分に身を委ねてくれているようだった。それが嬉しくて、頭部装備を投げ捨てて彼の口元に噛みつく。嘴のような面頬の先が肌を掻くのにも構わず、あご当てに唇を押し付ける。まるでそれまで着けていた頭部装備が戒めの口輪であったかのように。口の中に流れ込んでくる海水が塩辛いとは思わなかった。真水のようですらあり、彼のあご当てに触れた直後ならばほの甘さすら感じた。今はもう遠く、空に近い場所で揺れる波の音も心地いい。微かに轟と聞こえるのはどこかの潮流だろうか。すべてが安寧をもたらした。まるでそこが初めから居場所であったかのように。砂浜には、今頃静寂が戻っているだろう。

 

 

 

五色

 ある夜のことだった。

 自分は前線拠点で活動する後輩たちのためにと依頼された小物を作っていた。間引きのために早期に採った硬い皮の野菜や木材の端材などを削ったり刳り貫いたり掘ったりしていた。多くの調査員は、もう寝床に就いている時間だった。ぱちりぱちりと篝火が跳ねる。ルームサービスの仕事を増やすのはかわいそうだと思い、部屋の外、居住区の廊下の隅を作業場に選んだのだが、篝火や海や風の音が丁度いい塩梅に聞こえる、心地良い場所だった。穏やかな陽と風が眠気を誘う、いつもの待機場所も良いが、此処も良い場所だと思う。一息吐いて、手と作りかけの小物の上に溜まっていた屑を払って出来を見る。細かな調整は必要だが、概ね順調な出来だった。もう少し進めよう、と小刀を持ち直した。そこで、こつり、と足音。はて、こんな夜更けにこんなところに誰だろう、と手が停まる。ぼんやりと照らされた向こう側に、人影がひとつ揺れた。その人影はその場に立ち止まっているようだった。まるで見えない場所の気配を探るように。おそらく、自分が見ているように、篝火の灯りに照らされたこちらの影を見、気に留めたのだろう。そして、ややあって、ゆっくりとこちらに向かって歩き始めたのだった。

 誰だろう、とは思った。けれど見られて困るようなやましいことをしているわけでもなし、誰であっても構わなかった。

 影の主が曲り角から現れる。それが誰なのか、数歩足音を聞いた辺りで見当はついていた。加えて、相手が近付いてくるにつれてハッキリとするその気配。自分は作業の手を止め顔を上げて、彼に呼びかけた。

「いかがした――青き星」

「先生、こそ」

突然声をかけられて驚いたのだろう。フルフェイスの防具越しにも分かる程度に目を丸くした彼が小さく肩を跳ねさせて立ち止まる。

「某は、少しばかり作業を……そなたは」

「俺は少し散歩を……って言うか、どうして俺だってわかったんですか」

「足音が、そなたのものだったのでな。気配も、近付くにつれてそなたのものだと確かに思った故」

そうだったんですか、と言う彼の声からは未だ驚嘆がほのかに感じられた。自らの足音――歩きの癖など、自分では気付かないものである。けれどまだ若く柔軟性を持つこの狩りびとは、すぐに足音での対象の判別も覚え、活用するようになるだろう。後続の成長を見るのは今の楽しみの一つでもある。等と考えていると、彼は手中にあるものに気付いたようだった。好奇心を隠さない子供のように覗き込んでくる。

「作業……彫刻というか、置物を作ってるんですか?」

「うむ。小さなものは穴を開けてチャームに……数が揃い次第調査資源管理所へ納品する故、受け取って欲しい」

「先生手作りの……家具やチャーム……?」

「フフ……日々前線にて調査に奔走する後続たちに少しでも報えればと思い、これらの製作の依頼を受けたのだ。だが、やはり狩りびとにはもっと実用的な……消耗品や武具の方が、報酬としては良いだろうか」

「いえ、そんなことはまったく。先生のそのお気持ちだけでも十分すぎるほどです。ええ、必ずや手に入れて見せましょう、先生が手作りなさったすべてを」

調査資源管理所で受け取るだけではないのだろうか、と思うほどの熱意と執着を彼から感じた。素人が作った小物ごときが、まさか何かしらのクエストの報酬になることもあるまい。

「……いちばんはじめに作った故、いちばん不格好なもので悪いのだが、これをひとつ渡す故、他の調査員の分まで持って行くのは勘弁してやってくれぬか」

それと、他の調査員にも渡って欲しいものなので総取りされるのは困るな、と思ったのでいちばん不格好ながらいちばん時間をかけて彫ったものを渡すことにした。人の手に渡ると思うと抵抗があったが、恋人でもある彼にならば、渡しても良いと思ったのだ。ああ、けれど、さすがにこれは彼も突き返すだろうか――と一拍ほど動きを停めてキョトリとこちらと差し出した小物を見つける彼に不安がよぎった。けれどそれは杞憂で、彼は小さくふるえる両手で小物を包むと、まるで金銀財宝を太陽に翳すように頭上に掲げて喜んでくれた。知らず張っていた緊張の糸がホッと緩んだ。

「ああ、あああありがとうございます! あ、そうだ、お返しと言ってはなんですけど、このカボチャのお菓子を受け取って下さい!」

「よ、喜んでもらえたのなら、良かった。して、これは……ふむ、良い香りに良い焼き加減と見える……フフフ、礼を」

「はい、俺の相棒が焼いて、俺がおまじないをかけました」

「まじない?」

「ええ、食べた人が好きな人の夢を見られるように、と」

「ほう……それは…………フフ、ならば今こうしてそなたと逢っている某は、醒めているのか眠っているのか、どちらであろうな?」

さて、どちらでしょう? と、夜の向こうから笑った彼の声が聞こえたような気がした。

 

 

 

六色

 ある朝のことだった。

 彼はほんの小さな物音で目を覚ましたらしい。夜と朝の境の、音が通りやすい空気とは言え、よくよく感覚が鋭いのだなと感心した。衣が擦れ、木材の軋む音が寝台の方から聞こえて来た。ここで彼に見つかってしまっては目的が達成できなくなってしまう。彼に見つからないことも、自分の目的のひとつなのだから。足音を、気配を忍ばせて、物陰に身を潜める。まだ朝も早い。少し待てば彼も寝床へ戻るだろう。

 けれど予想に反して彼の気配は大人しくはならなかった。キシキシと小さく鳴っているのは床板だ。どうやらそのまま起床することにしたらしい。やがて金属や硬物の擦れ合う音まで聞こえて来た。もう外に出てしまうのだろうか。彼が料理をしている場面を、自分は見た事が無い。だからきっと、朝食は調理場で摂るのだろう。そしてそのまま後輩たちに付き合うなり、総司令の指示に従うなり、予定されていた調査に出かけるなりして、外で一日をこなしていくのだろう。つまり自分は、彼に少し悪いことをしてしまったかもしれない。自分がもっと気を付けて行動していれば、彼は自分に気付くことなくまだ眠っていられたのだ。

 はて。しかし彼は自分に対して何も行動を起こしてこない。普通、物音で目を覚ましたのならその音の正体と原因を探ろうとするはずだ。ただの風や、不安定だった物がバランスを失って動いたことが原因なら、それで納得してまた横になっただろう。あるいはオトモやルームサービスが理由である場合も、特に気にすることもなく寝台の中へ戻っただろう。だが現に彼は起き出している。これはつまり何者かが己の領分に居ると気付いているということだ。それなのに、その何者かに何のアクションも起こさないのは――物音の主が誰なのか、彼は気付いているということではないだろうか。そうであるなら、こうして隠れているのは、無意味なのでは。どうしようか、と思う。彼に見つからないという目的を破棄して第一の主目的を達成させに行くか、このまま彼が外へ出て行くまで息を潜め続けて形だけでも目的を完遂させるか。キシリ、と足元の床板が小さく軋んだ。

 しかしそっと顔を覗かせて見ると、彼は既に外へ出て行くところであった。あ、と思った。同時に、やはり彼は自分に気付いていたのではないか、と。

 兎角、為ってしまったものは仕方がない。誰も居なくなった寝床に近付く。可能性は低いだろうが、彼がここに戻って来た時に、すぐに反応できるようによく耳を澄ませながら。自分や彼のように前線の調査を活動の主としている者は基本的に私室のことをルームサービスに任せている。中には自ら整頓や清掃をしている者もいるだろうが、多くはルームサービス任せのはずだ。人ひとりが抜け出していったそのままになっている寝台を眺めながら考える。

 少し膝を折り、シーツに触れてみれば、まだ仄かに彼の温もりとにおいがした。おそらくルームサービスはこの寝台のシーツをまとめて引っぺがして洗い場へ持って行くだろう。その時に寝台の上に何か物があった場合、それはまあ無難にテーブルや棚に避けられ、部屋の使用者にその旨を伝えてくれるのだろう。けれどそれでは面白くないのだ。自分は彼の、驚き喜んだ反応が欲しいのだから。だから初手も初手、いちばんのはじめに彼を起こしてしまったのは失敗だったのだ。あそこで彼を起こしていなければ、自分は用意して来た贈り物を彼の枕元に置くことができたのに。普段の穏やかな姿に慣れきって、彼の感覚の鋭敏さを失念してしまっていた。

 ではこの贈り物はどうしようか。せめてこの、寝台に近いテーブルに置いておけば気付いてくれるだろうか。彼の今日の予定を、自分は把握しきっているわけではない。調査が夕暮れ時には終わるかもしれないし、夜までかかるかもしれない。日を跨ぐ可能性だってある。後者の場合、テーブルの上など目もくれず、寝台に潜り込んでしまうかもしれない。そうすれば贈り物は――いつ気付かれることになるのか。自分だって予定がある。贈り物に対する彼の反応を、見られないことの方が現実的だ。まったく自分ともあろうものが、とんだ立ち回りである。思わず溜め息が出てしまったことは仕方のないことであった。屋内でも白く色付く吐息に時期を感じる。ここから覗き見える外には、降り積もった白が世界を照らしていて。眩むほどの白に染まる風景は、まるで白昼夢のようだった。

 

 

 

七色

 ある夜のことだった。

 夕食は私室で、彼と二人で摂ろうと画策していたのだ、自分は朝から。それなのに、計画の進捗はと言えば芳しくないにも程があった。まず夜間調査が入れられた。昼間に調査対象と接触できなかったためである。次に食材および料理が調達できなくなった。夜間調査のために食糧配分が見直され、分けて貰えるはずだった分が微々たるものになったのだ。この時点で計画は破綻したと言っても良い。だが、それでも、調査をさっさと終えることができれば少ない時間と言えど彼と夜を過ごせる可能性と希望を持てた。持っていた。だと言うのに、今日は午後から半日休みであったはずの彼自身にも調査の予定が入ったのだから堪らない。それが不意に、それこそ降ってわいた突然のものならば総司令に文句か愚痴の一つくらいこぼせたのだろうが、実際のところ予定がズレた分の帳尻合わせ――自分たちが昼間の調査を終えた後、この夜間に手早く済ませるはずだったものだからやるせない。加えて、各所の学者たちが額を突き合わせて弾き出した調査対象の出現予想が外れたことも、その調査内容を簡単なものから少し込み入ったものに変えられた理由である。つまり間が悪いと言うか、悪いことに悪いことは重なるものなのだと言うことを実感する日であった。昼間に調査へ出かけ、環境調査のバウンティ達成以外何の収穫も無いまま帰還し、探索結果の報告をした後、少しして、今後の予定を伝えられてから、まあ、自分でも分かる程度に膨れ面をしていた。否、実際頬を膨らませてはいるわけではないけれど、言葉を交わす同期や他の調査員に「ずいぶんと不機嫌な顔をしているな」と笑われる程度には顔に出ている。帽子状の頭部防具をなるべく目深に被り――いつもは特段気にすることも無い――今日も楽しそうな同僚たちを視界に入れないようにする。拠点へ運んでくれた翼竜もこちらの不機嫌を気遣うような仕草を見せてくれた。

「狩りびとよ」

そして、もちろん、彼も。

 普段はこちらの動きを待っていてくれる彼が、目の前に立ったほぼ同時に顔を上げてくれた。

「先生、」

差し伸べられた手に導かれるように、その手を取って頬を寄せ、彼の前に崩れ込む。彼に計画を伝えてはいないけれど、こちらの様子から何かしらを察していてもおかしくはない。すり、と微かに頬を撫でる手のやさしさに、余計悔しさが滲む。あまり声を出さなくて済むよう、上体を折った彼が様子を窺ってくれる。

「……狩りびとよ、」

なんと声をかけて良いのか、どんな言葉をかければ良いのか、彼は迷っているようだった。けれどその気遣いに、自分を思うこころが見えて、ほんの僅かばかりささくれだった胸の内があたたかくなる。その温もりは同時に、凝り固まっていたものを融かして――口を開けば真一文字に引き結んだ嗚咽が溢れてしまいそうで、彼に答えるための口を開くことができない。ぐりぐりと彼の手のひら、ふとももに頬を擦りつけて子供のように振る舞うのがやっとだった。折角の格好なのにみっともないなど、言いたい者には言わせておけばいい。自分のこの行動の心を汲んで好きにさせてくれる彼のことだけを胸に留めておけばいい。

「……そなたと某だけは、明日の朝に今日の夜を生きようぞ」

なんてことを考えていると、頭上から、彼の声が降って来た。思わず顔を上げる。顔を覆う防具越しにも分かる、穏やかな顔があった。声音から察するに、少し困ったように笑っているのだろう。

「総司令も心身の休息がどれほど重要なものか理解している。特に、某などよりよく動いているそなたのこと……許されよう」

某が掛け合おう、とこちらの頬を撫でる姿は正に慈愛そのものだった。仮令そうして彼が休みをもぎ取ってくれたとして、その時間は自分が思い描いていた一時にはならない。けれど同時に、予期していなかった幸福と見えることもあるだろう。何より、彼の傍に居られる確約であり、彼が傍に居てくれようとする確約である。渇いた杯に酒を注がれるが如く、身体に生気が満ちていく気がした。

「さあ、狩りびとよ。某はもう行かねばならぬ。故に、そなた、我らの青き星よ。そなたが往く普く道を、導きの青き星が照らさんことを」

 

 

 

八色

 ある朝のことだった。

 彼の部屋で目を覚ました時、隣に彼はいなかった。が、室内に複数の人の気配があった。それだけならばさして気にすることは無かった。大方彼の同期が所用で訪ねて来たのだろう、と。彼の部屋で自分がこうして眠りこけている姿を目撃されるか言及されるかは、訪問者の目と彼の受け答えに依るだろうけれど。まあとにかく、大したことではないのだ。室内に人の気配がいくつかあること自体は。けれどその時は事情が違っていた。室内にある気配のどれもが、彼のものだったのだ。つまり彼が複数人いたのだ。当然、まさか、と思った。まさかと思って寝台に沈んでいた身を起こすと、そこには彼が――否、彼らが、茶会を開いていた。

「お早うございます、先生。よく眠れましたか」

「お前の声がうるさくて起きざるを得なかったんだろ。ああかわいそうな先生、まだ寝ていても良いんですよ」

「先生に一人寝させるとかあり得なくないか。先生、俺と二度寝します?」

こちらに気付いた彼――春の宴の衣装を纏った――が、おそらく水の入ったジョッキを持って来て隣に腰を下ろす。それを揶揄したのは、集会所の受付嬢たち曰く「感謝」の宴の衣装を纏った彼。最後にくすくすと笑ったのは前線拠点で開かれた冬の宴の衣装を纏った彼。つまり、室内には確かに複数の、三人の彼が居たのだ。

 三人の彼が何やらやんややんやと言い合っている。同じ、しかし少しずつ印象の違う彼の声が現実感を奪う。一人の人間が複数人居るなどという状況が、そもそも現実感の無いことだけれど。だが、この三人は確かに「彼」なのだと自分は知っていた。夜を共にしたその翌朝、甲斐甲斐しく世話をしてくれる彼。貴族的富裕層的とまでは行かずとも、辺境を主な活動地とする狩りびとには珍しい都市的な振る舞いをする彼。ややマイペースで、しかしこちらのことをよく見ている彼。すべて自分が知っている彼なのだ。

「先生、朝食を用意しましょう。何か食べたいものはありますか? 食材の備蓄があまり無いので凝ったものは作れませんが……」

「無いなら買うか採るか狩るかして来れば良いだろ」

「その前に朝食なら胃に優しいものが良いだろ、おかゆとか」

「東方かぶれは黙ってろ、今日は午後から予定のある先生がそれだけで足りるわけないだろ」

まるで兄弟のようである。互いにガルガルと言い合ってはいるが手や腰を上げる気配は無い。やはり私室とは言え調査団の居住区で暴れるのは良くないと弁えているためだろう。楽しげにも見える彼らの姿に思わず目元が緩む。子供か、孫を持ったらこんな感じなのだろうか、とふと思った。

「某ならば大丈夫だ。調理場で、適当に腹ごしらえをする故……フフ、すまぬな。そなたたちも某が居ては心行くまで親交を深められぬだろう? すぐに引き上げる故、」

 先程から自分の話題ばかり上がっていることには気付いていた。だから、きっと自分が引き上げれば彼らはもっと別の、狩りのことについてなどを話し合うようになるのではと思ったのだ。そうした方が、彼のために良いのだと。幸いにも昨夜は穏やかな夜だった。身体の軋みや疲労感も特にない。引き上げようと、して――。

「何故?もっとゆっくりして行けばいいじゃないですか」

「それとも、俺たちと居たくないですか?」

「そういうわけでは、」

「ならいいじゃないですか。それにほら、外もまだ暗いですし」

隣に居た彼に手を重ねられ、一人が空いていたもう片側に移動してきて、残った一人が目の前に跪いた。そして、各々から感じる、今にも舌なめずりをしそうな気配。まるでこちらに狙いを定めたモンスターに囲まれた時のような感覚を覚える。それ自体は彼が、特に夜に見せることがある。けれど、それが、倍など。

「そうだ。ついでじゃないですけど、折角ですし、どの俺が良いか選んでくださいよ」

「選ぶって、選ぶ基準は何だよ。気配りか料理か、狩りか?」

良いことを思い付いたと言わんばかりに身体を寄せてくる彼に、別の彼が訝しげな顔をする。その手はしっかりと相手の身体を押し返そうとしている。けれど「彼」は三人いた。

「そりゃ、この状況で流れなら、アレでしょ」

するりと背後に回った彼が両肩に手を置く。そして、そのまま後ろに引かれて、自分はぐるりと天井を見上げることになる。頭の中で警鐘が鳴る。しかしその音色はひどく甘い。逃げ道を探すように視線が動く。チラと外が見えた。ああ、夜はまだ明け切らないらしい。

 

 

 

九色

 ある夜のことだった。

 薄暗いマイハウスの寝台に彼が座っている。正確には、座らされている。頭部装備の上から目隠しをされた彼の両隣には、星空のような装備を纏った自分と、海に沈むためのような装備を纏った自分が侍っている。そして何事かを吹き込――囁いている。もちろん、近くにいる自分はその内容を拾い聞くことができる。まるで刷り込みのようなそれを、どんな顔をして、気持ちで、彼は聞いているのだろう。

 ああ貴方、翠の竜を纏い振るう先達よ。貴方に空を見せましょう。輝く数多の星光を、その眼に映してみせましょう。その眼に星影を焼きつけて、我が身と揃いと成しましょう。貴方に星の祝福を。貴方に星の恩寵を。星は慈愛の光源なり。眼に物映し続けるいとし子に、どうして微笑まないことがありましょう。さあ貴方、この手を取って往きましょう。この手を取れば、果てない空の星嵐の中ですら、ふたり共に生けましょう。望むままに、求めるままに、何処へでもその身を運びましょう。万物を繋げる果てなき虚ろを駆けるは意志。強く美しい意志こそ星の海を渡るに相応しく、また必要不可欠。どうぞその御身をお任せください。貴方を俺に委ねてください。そうしてふたりでいきましょう、星の風吹きすさぶ空の果てに。

 ああ貴方、大地の母竜を制する先達よ。貴方に海を見せましょう。騒めく煌きの白波を、その身に遊ばせましょう。その眼に魚影を舞い遊ばせて、我が身と同じ底に在りましょう。貴方に海の祝福を。貴方に海の恩寵を。海は許容の水源なり。すべて認め受け入れ続けるいとし子に、どうして微笑まないことがありましょう。さあ貴方、この手を取って往きましょう。この手を取れば、光絶える海の暗中ですら、求むるものを捉え続けられましょう。望むままに、満ちゆくままに、何処までも何時までも揺蕩いましょう。万物を潤す果てなき虚ろを掻くは意志。優しく穏やかな意志こそ海の懐に遊ぶに相応しく、また必要不可欠。どうぞその御心のままに。貴方が思うがままに。俺は貴方の傍に居ましょう。海の底、荒れ狂う潮の最中にも。

 なんてことを、延々と彼に囁いているのだ。よく「相手の立場になってみろ」と言うようなことを言われるけれど、この場合、彼の立場にはなってみたくないなあ、と切に思う。止めさせようにも――褒められたいのだが、自分はこの奇行を一度は止めさせようとしたのだ――何を考えているか分からないよっつの目にジィと見詰められて何も言えなくなるのだ。宙の果てのような眼も、海の底のような眼も、得意ではない。せめて明るい場所や時間帯ならば、また違って見えたのだろうが、運が悪かった。ああこの不甲斐ない後輩をどうかお許しください。貴方を、想ってはいるのです。確かに想っております。しかし二対一では分が悪過ぎます。等と胸中で彼に許しを乞う。

 そんな物思い――現実逃避に耽っていると、ふと海の眼をした自分が、こちらを見上げていることに気付いた。その口元は防具に覆われていて分からない。否、そもそも口を動かしてすらいないだろう。しかし自分には分かった。解るのだ。相手が何を言いたいのか。自分に、何を訊きたいのか。だから、自分は口を開いた。訊いてきた者に、答えるだけの、ひとり言のようなものだった。

「俺は、共に夜を往くことくらいしかできない」

と。

 

 

十色

 ある日のことだった。

 同期の姿が消えた。いつもの、司令エリアの定位置に居ないのだ。渡りの凍て地が見つかる以前ならば、精鋭たる5期団や信頼に足る4期団に拠点の一時を預け、仮眠をしに2等マイハウスへ引っ込むこともあった。しかし渡りの凍て地が見つかり前線拠点が設営され多くの5期団や4期団が前線拠点へ移った今、同期が少なくとも昼間に仮眠を取りに行くことは無くなっていた。何より、仮眠を取る際にその旨を一言告げるのが同期という男だった。それとも何か任務を言い渡していただろうかと書類を確認するも、当然そんなことは無かった。あるいは後輩たちと共に調査へ赴いたのかと通りかかった後輩たちを捕まえてみるも、皆一様に首を横にするか傾げるかばかりであった。同期によく懐き、度々調査を共にしている4期団員の姿も流通エリアにあった。それに加えて気になるのは、そもそも今日は誰も同期の姿を見ていないということだった。確かに振り返って見ると朝から同期を見た記憶がない。その事実を認識して、背筋がゾワリと粟立つような感覚に襲われる。どうして今になるまで気付かなかった?同期の定位置が視界の端なものだから気にならなかった?そんなはずはない。いつもあるものが無いというのは、少なからず違和感をもたらすものだ。思わず左右に泳ぎそうになる目を叱咤して、詰まりそうになった喉を叱咤して、動揺を抑え込んで引き留めたままだった後輩を解放する。こちらを気遣わしげに何度か振り返りながら流通エリア、ひいては居住エリアへ歩いていく後輩を見送って、静かな2等マイハウスへ眼を向ける。もしかして同期はまだこの中で眠っているのだろうか。否、それにしては静かすぎる。それに昨夜、同期は早めに休ませたはずだ。そうでなくとも同期――に限らず我々は歳もあり朝が早くなりがちだ。夜遊びするような相手がいるわけでも無し、まだ眠っていることなど、と。

 扉替わりの垂れ布を捲り2等マイハウスへ踏み入ると、室内は確かにシンとしていた。格子状の天井から射す陽光の中にきらきらと埃が舞っている。半ば物置と化している奥側を鑑みれば無理もない。微かな埃と、木材と太陽のかおり。穏やかな空間だった。そこで、不意に衣擦れの音が聞こえた。ルームサービスも居ない静かな室内で、それは唐突に降って湧いたようなものだった。弾かれるように音のした方を見ると、音源は寝台の一つだった。

「――君、どうして……、」

そこに、今は前線拠点を主な活動拠点としているはずの5期団員がいた。こちらに戻るという話は聞いていないし、戻る理由も無いはずだ。そんな5期団の、その中でも調査の最前線に立つ“彼”が何故――。更に、彼が腰掛けている寝台に見えるのは銀と緑の、見覚えのある色と形。間違いなく同期である。寝台に横たわる同期に、寝台に腰掛けた彼が顔を近付けていた。ように見えた。まるで御伽噺の挿絵を再現でもしたかのように。眠りの呪いをかけられた姫君を、勇敢な王子が救う物語。同期が姫君など似合わないな、と、普段ならば笑って済ませたことだろう。けれど今は何故か、そんな気分にはなれなかった。むしろ、同期が彼に呪いをかけられているように見えた。

 向き合わずとも感じられるほど、同期を愛しそうに見つめていた彼がゆっくりとこちらを振り返る。口端を緩やかに持ち上げた、穏やかな表情。けれどその顔が、ひどく無機質――否、何か得体の知れないものに感じられて、思わず片足が半歩退く。知らず、片手が腰元のナイフに伸びていた。こちらを真っ直ぐに見つめる彼はそれに気付いていただろう。だのに、彼はそのまま穏やかな顔のまま、すっと立てた人差し指を口元に遣った。まるで同期の眠りを守るかのように。こちらのことなど、警戒対象にもならないと言うように。不思議な時間だった。ピンと張り詰めていて、しかし微睡むような、得も言われぬ体感。それが、どれほど続いただろうか。ある瞬間で、ふっと意識が途切れた。頭部を殴られたように唐突で、睡魔に襲われたように心地いい。閉じていく視界に見えたのは、こちらを見下ろす彼の顔だった。

 目を覚ますと辺りは既に暗く、格子状の天井からは月明かりが射し込んでいた。ヂヂ、とランプの鳴く声が聞こえた。硬い床に寝ていたことによる痛みに呻きながら身体を起こすと、空の寝台が目に入った。ふらふらと立ち上がり外に向かう。調査員たちに心配をかけてしまったかもしれない。ああしかし。なぜ自分は2等マイハウスの床で寝ていたのだろう?

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