ウォルターがコーラル実験に供されてる+「ウォルター」がファミリーネーム
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スッラが幾度目かのメンテナンスを終えた後、薄暗い廊下を歩いている時だった。ふと壁に嵌め込まれたガラスの向こう側に、見覚えのある丸い頭が見えた。
その部屋の中には、その小さな人影の他に、幾つか影が蠢いていた。少年は影に囲まれ、影のひとつを抱えながら周囲へ手を伸ばし、影を撫でたり触れたりしていた。
ゾッとした。
音が無くとも、光が無くとも、スッラには判った。
アレは、あの影たちは――。
ふと影と眼が合った。澱んだ赤い目が、スッラを見ていた。
眉間に皺が寄る。
さっさと立ち去ってしまおうと思った時、俯きがちだった少年の頭が上げられて、ああ、スッラの方を見た。
暗い室内に、赤い目が煌めいた。
まるで病人を労るかのようにして影を手放し、影たちを避けながら少年は廊下へ出てきた。傭兵でもないくせに、コーラルを用いた手術を受けたことを示す赤い目にスッラが写る。
「失敗作どもを看取っているつもりか」
『似たようなものだ。……暴れないように、子守唄を歌ってやるんだ』
「子守唄? は、失敗しても可愛い我が子作品と言うことか」
そんなやり取りをして、スッラは少年がタブレットに文字を映すことに眉間の皺を深くした。それを見上げる少年には、さぞ威圧感のかかっていることだろう。
「……なぜ喋らない。被験者とは口を利くなとでも言われたか?」
少年の眉尻が微かに下がる。きゅ、と口元が強ばった。
『……声の、加減が、まだ出来ないんだ。調整はされる予定だが、だから、それまでは、できるだけ声を出したくない。俺は、他人を従わせたいわけじゃ、ない』
つまり――少年もまたここの大人たちの探究心の餌食になったらしい。ロクでもない施術内容に違いあるまい。目眩がした。
少年曰く、コーラルを用いた手術を受けた強化人間たちを統率するための実験手術らしい。脳深部コーラル管理デバイスに作用する「波形」を持つ声を発し、コーラルを操り、コーラルと同化しているに等しい神経に働きかけ従わせる。
鶴の一声、とでも言うべきだろうか。群れにおけるαとなる役割を負う個体。その、試作品が、目の前の少年だった。
ああやはり、ロクでもない。不快感を噛み潰した。
「馬鹿馬鹿しい。私がそう易々とお前に従うとでも?」
スッラは少年の不安を鼻で笑った。ちゃんと笑えていたかは分からないけれど。
「喋れないわけではないのだろう? ならば自分の声を使え。いちいち面倒だろう、それを使うのは」
ゆらゆら揺れる少年の目を真っ直ぐ見下ろしてスッラは言う。はく、と何か言いたげに動いたくちびるに、そら見ろと思う。言いたいことがあるなら「言う」べきだ。
少年が何をか言おうと口を開く。だがやはり躊躇って、タブレットへ目を落とした。
『……名前、呼んでもいい?』
「今さら許可を求めることではないだろう」
『……俺の言うことじゃなくて、自分の意思で動く?』
「当たり前だろう。大人を馬鹿にするのも大概にしろ」
そこまで確認して、ようやく少年はタブレットを下ろした。
「……スッラ、お疲れ様」
「開口一番生意気だな」
部屋の中で失敗作たちを慰めていた割には不器用な声だった。
だが、ちゃんと己の声でもって喋った少年の頭を、スッラは片手でぐしゃりと撫でた。わ、と小さな声を上げて両目を閉じれば、あの日のままの、ただの少年だ。
そっと開かれる目蓋の中の赤色が、現実を突き付ける。
「……。スッラ、屈んでくれないか」
おそるおそると言った風に少年が言う。スッラは乞われるまま膝を折り目線を合わせてやった。
同じ高さになった同じ色の目が、じわりと潤んだ。
そこでスッラは「あ、」と思った。
目が丸くなったことは、自分でもわかった。
「……すまない。……頭を、撫でてもいいか?」
「……ああ」
「すまない」
少年は言った通りにスッラの頭へ手を伸ばした。小さな手が髪を撫で頭を撫で、そして視界が暗くなった。眼前の衣服と頭周りの感覚に、抱き締められているのだと理解する。押し殺された啜り泣きが落ちてくる。
確かに、少年の声は心地好かった。安堵や陶酔を感じた。確かにそれは統率者の声だった。
スッラは目蓋を閉じる。何もかもが哀れで滑稽だった。
「お前に言われたからではない」と言ったところで少年は納得しないだろう。
だからスッラは、自発的に少年へ手を伸ばした。
泣き声を押し殺してふるえる身体に腕を回し、顔の見えぬまま抱き締めてやる。他人を従わせることに悦を覚えられる人間であれば楽だったろうに。
「スッラ、俺の名前を呼んで」
結局、その日少年が満足そうな顔をしたのは、この問いにスッラが答えられなかった時だけだった。
少年の名前を、知らぬ間に記憶から取り落としていたことにそこで初めて気付いたスッラを、満足そうな寂しそうな顔で少年は見ていた。