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後半は英組。

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 思えば、よく続いているな、とウォルターは思った。今の生活――スッラとの同棲のことだ。
 昔からの知り合いではあった。だが大喧嘩をしていた。互いに譲れないものがあって、互いに何故譲れないのかと理解ができなかった。けれど頑なになる理由がなくなり、譲らなかった理由を知り、少しずつではあったけれど、深く大きくなっていた溝は埋まっていった。そしてふたりは、同じ屋根の下に帰るようになったのだ。
 もう何年目になるだろうか。
 すっかり慣れ親しんだ部屋を眺める。どの家具も家電も、覚えがある。食器だって覚えている。ああ随分と――年月を共に重ねたものだ。
 白いソファの上で、ウォルターは黒橡のビーズクッションを抱え込む。体温が移って暖かくなったそれは、濃紅のブランケットと共に身体を寒さから遠ざけてくれる。重々しく痛む腹部が、少しだけ軽くなったような気がした。
 ウォルターは、いわゆるカントボーイと呼ばれる身体をしていた。
 決して一般的ではない身体。未だ世間からの認識は十分でなく、偏見で見られることも少なくないいきもの。
 古くからの知り合いだとて、正体を知れば離れていく可能性は高い。だからウォルターは身体のことを誰にも言わなかったし、隠していた。親や、親代わりと言った、ウォルターと極近しい者たちだけがその秘密を知っていた。
 だからスッラは特異(イレギュラー)なのだ。
 切欠は偶然、事故だった。知られたその瞬間、血の気が引いたことを覚えている。
 だがスッラは、ウォルターの予想に反してその世話を焼いた。昔、ウォルターがまだ少年だった頃にしていたように、面倒を見た。毛布やブランケットをかけて、温かい飲み物を与えて、鎮痛剤を用意した。
 当然、ウォルターは戸惑った。戸惑って、何故、とスッラに訊いた。スッラからウォルターへ返ってきたのは、お前は分かりやすい、と言うような言葉と笑みだった。
 そんなことがあったのも含めて、ウォルターは観念したのだ。
 おかげで今は随分と良い生活をさせてもらっている。特に月のものが重い時のことだ。申し訳ないとは思いつつ、嬉しいと思ってしまっていることを、否めない。
 「横になっていなくて平気か」
 キッチンの方から声がした。カチャカチャと食器の触れ合う音もしている。スッラが、食事の支度をしてくれていた。
 善いパートナー、の部類になるのだろう。もちろん善いばかりの男でないことは、ウォルターがよく知っている。執着や執念やその重さには、常人とは一線を画す恐ろしさがある。だがそれらすべてが「ウォルターのため」に向けられた「愛」だと知ってしまえば、無下にはできなくなる。多少、もう少し、報いてやりたい、と思うのは、自然なことだろう。
 スッラの声に、ウォルターはキッチンの方を振り返らずに答える。
 「平気だ。……あなたが、良くしてくれるから」
 ガシャン、と大きな音がした。
 その音に、さすがにウォルターがキッチンを振り返る。そこには一スペース分の食器が消えた棚と、その棚の前に腕を伸ばした格好で停まっているスッラの姿があった。
 「大丈夫か」
 ソファから立ち上がり、不自由な足を庇いながらゆっくりとウォルターはキッチンへ向かう。床に食器の砕けた破片が広がっているのが見えた。
 「……」
 パキ、と食器の破片が踏み砕かれる音がする。スッラが、ウォルターがキッチンへ踏み入るより早く、その目の前に来る。そしてウォルターを抱擁した。
 スッラの背の上を、ウォルターの両腕は少しの間さ迷った。さ迷って、結局触れることを選んだ。
 心音が重なる。
 スッラの心音は、特別速くなっているとか大きくなっているなんてことはなかった。けれど抱擁は固くて、伝わる体温や身動ぐ筋肉の動きにウォルターはまぶたを閉じる。伝わった、と思った。
 ウォルターが「あなた」と呼ぶ人間は多くない。多くないどころか、おそらく一人しかいない。その人にしたって、普段は「先生」と呼ばれていて「あなた」と呼ばれることは滅多にない。ましてやスッラは「貴様」と呼ばれていた時期がある。「貴様」もまた滅多に用いられない二人称であるが、その感情や位置付けは対極であると言っても良い。
 それに、単なる二人称以外で――そう、例えば、正しく、親しいパートナーの間で「あなた」が使われることも、あるではないか。
 だからスッラが「あなた」と呼ばれた、その事実を認識した瞬間、目を丸くしていたとして、何もおかしなことではなかった。
 「スッラ、怪我は無いか」
 ウォルターが背中を撫でながら訊く。それは別に、訊かずとも、分かっていることだったけれど。
 「……危ないからソファに戻れ。具合はどうだ。何か欲しいものはあるか」
 「大丈夫だ。……スッラ、俺は大丈夫だから、」
 スッラにひょいと抱え上げられ、ウォルターはソファに戻される。抱え上げられた際、パタ、とスリッパが落ちて置き去りにされた。
 肘掛けを背凭れにして、横に下ろされる。下肢へブランケットをかけた手は、その後やわく頬へ添えられた。すり、と親指が目元を撫でた。
 頬を包むスッラの手に手を重ねる。ウォルターを見下ろす顔は至極穏やかだ。
 「スッラ、スッラ。……いつも、すまない。感謝している」
 大きな手のひらに頬を寄せて視線を逸らす。顔に熱が集まっていた。
 スッラのもう片方の手が、ウォルターのもう片方の頬を包む。そっと、顔を上げさせられる。サラサラとスッラの髪が流れて、ふたりと世界を隔てた。
 「ウォルター」
 スッラがその名前を呼ぶ。この上なく甘い声だ。表情もまろい。スッラの、歳を重ねてなお整った顔が、ウォルターへのいとしさでとろけている。
 世界で一番の幸せ者。やはり私は“幸せな人間”なのだ。
 スッラのあんまりな喜びように、ウォルターは羞恥に襲われる。こんなに喜ばれるとは思っていなかった。何がそんなに琴線に触れたのだろう。
 真正面にあるスッラの顔を見ていられなくなって、ウォルターはまぶたをギュッと閉じる。この後スッラが何をするか分かっていた。だからそれは、いつもより、少し早いタイミングの“期待”になった。
 ふ、とくちびるに、くちびるの重ねられる感覚が、した。





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英スラウォル

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 日頃、常々、スッラはウォルターを「ハニー」だとか「マイディア」だとか呼んでいた。口調や場面こそ冗談めかしたものが多かったが、そこに嘘偽りの感情は無かった。
 だがウォルターに、それを歓迎する様子は見られなかった。それは今に至るまでに深くて大きな亀裂を生んだ、ふたりの関係のせいでもあったし、そもそもウォルターが好意に触れ慣れておらず、好意を表し慣れていないと言うこともあった。
 スッラがその軽薄そうな振る舞いに反して、誰よりも何よりもウォルターに対して本物の感情を持っていることは、普段の言動から知っている。……未だ、信じられない事実であるが。同棲を始めて、事細かに世話を焼かれてしまえば、嫌でも思い知らされた。
 今だって、月のものに痛む腹を抱えたウォルターを寝床に押し込み布団を被せてハーブティーを持たせてくる。当然持ち帰っていた仕事は全て取り上げられた。
 「数日は大人しくしていろ。山場を越えてからの方が仕事も捗るだろう」
 マグを片手にスッラが笑う。中身はウォルターに渡されたものと同じハーブティーだろう。ベッドサイドのチェストの上に、ガラス製のティーポットが置かれている。どこで諸々仕入れてきたのか知らないが、手製のようだ。
 相変わらず帥がないと言うか、器用な男だ。惜しみなく注がれる愛情と技術に、恐ろしさすら感じる。
 それはたぶん、スッラに対してウォルターが「あまり返せていない」と思っているからでもあった。
 一方、スッラはウォルターが拗ねていると考えていた。責任感の塊のような男からその仕事を全て取り上げてベッドに押し込んだのだ、無理もない、と。
 「何かあったら呼べ。夕食の支度をしてくる。……そう言えば積ん読を増やしていたな。持ってくるか」
 ヘッドボードのそばには既にタブレットが置かれていたけれど、本棚に増えていた蔵書をスッラは思い出した。最近ウォルターが本を読んでいる姿を見ていない――仕事をしている姿なら随分見たものだが――から、おそらくまだ読みきっていないだろう。
 言うだけ言って、ぽんぽんとウォルターの頭を軽く撫でて腰かけていたベッドから立ち上がる。伏せられたウォルターの目は、マグの水面を見ていた。
 「……」
 元より寡黙で頑固な少年だ。多くは望まない。自分の腕の中に居てくれる、それだけで今のスッラには十分だった。
 静かな衣擦れの音ともにスッラが離れていく。はく、とウォルターの唇がふるえた。
 「……感謝、する。いや……ありが、とう」
 そして、言葉を紡いだのは、スッラがドアノブに手をかける直前だった。
 ドアノブに手をかけながら、スッラがベッドを振り返る。表情は微笑みを作ろうとしていた。
 「――あなた」
 けれど、ウォルターの言葉に、緩やかに細められていた目は大きく見開かれた。
 ウォルターはまだ、両手で持ったマグを覗き込んでいた。耳が、赤く色付いているのが見えた。
 ぎ、とベッドを沈ませて、スッラはウォルターの顔を上げさせる。マグを持っていない方の手で頬をすくい、親指の腹で肌を撫でる。目元も、ほのかに色付いていた。
 「スッラ、」
 「ああ」
 微かな驚きを乗せて呼ばれた名に、スッラは今度こそ微笑む。
 「……スッラ」
 「ああ」
 居心地悪そうに視線が逸らされる。二度は言わない、とでも言っているかのようだ。
 ウォルターの何もかもが愛らしくて愛おしかった。
 対して、スッラがもっと“騒ぐ”――あるいは揶揄してくることも考えていたウォルターは、慈愛と歓喜に満ちた反応に、顔に熱の集まってくるのを感じていた。相手の目など、まともに見てはいられなかった。
 スッラは何も言わなかった。ただ、ウォルターの好意をそのまま受け止めて、噛み締めていた。それはウォルターにとってありがたいことだった。けれど、できたら、正面から目を合わせるのは、今だけは勘弁して欲しかった。
 だからウォルターは、逃げるようにまぶたを閉じた。手のひらに頬を預ける仕草と相俟って、まるでスッラに身を委ねたように見えた。
 スッラがチェストの上にマグを置く。ウォルターのものも、そっと手放させて、その隣に置いた。
 ベッドの上に手をつき身を乗り出す。ベッドが、また小さく鳴いていた。
 「ウォルター」
 閉じた視界の向こう、ごく近い場所で、スッラの声が聞こえた。平生気だるげにも軽薄にも聞こえる声が、ひどく甘く掠れていた。
 くちびるに触れた吐息に、反射的にくちびるを引き結ぶ。それでまた「ふ、」とやわらかな吐息が触れて、相手が微笑ったことを知る。
 そして、そのすぐ後に――ようやくくちびる同士の触れ合う感触が、した。

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