黎明暗澹として閨中昏く、復た佳人迦陵を魅せながら孤峰後背に見せる。
熱冷めて白波見遣れば狂熱を嘲笑し、己が獣の性質と知る。
不変なる実情をや認むる。
既知として受容すれども目前とすれば自嘲に溺ゆ。
主命なりしとも耽溺相違無く、人身喰らう様なりしを朧気に見ゆ。
戯言許せば唯一言甘露美味と吐かん。
夜の明け行くを見る。世の空け逝くを見る。
然れど旭光未だ遠く、月夢揺蕩を許す。
手指五指掌を見て安堵し柔肌へ触れる。
身動げども振払されねば胸中歓喜の儘に抱擁を強めん。
玉砕さするは己と思はば、然りとて其れは今でなし。
体温冷めて分け合い、白布被れば混包香。
唯児戯を成し、微睡むる。
抱擁況んや祈りにして縋る様なれども、聞き入れる神なかりけるは世の常なること弁えむ。
夜明け前。空は未だ暗く、明かりの落ちた室内もまた昏かった。スッラはふと目が覚めたそのまま、ベッドの上で身体を起こした。
あれほど籠り、温まっていた空気は、既に冷えていた。ただ僅かばかりの残滓が漂っている。
ふと横を見る。こちらに背を向けて眠るウォルターの背は美しい曲線を闇に浮かび上がらせていた。だがそれは同時に、何人をも拒む空気を纏っていた。
ベッドは乱れ切っていた。枕は今でこそその役割を果たしているが、少し前までは腰の下などに入れられたりもしていた。シーツは言うまでもなくぐちゃぐちゃになっていて、破れていないのが不思議な程だ。床に放り出されたふたり分のバスローブが、準備や手順は確と追ったことを語って妙に可笑しな気分になる。なんだ、存外理性的ではないかと口端を上げる。
獣風情が。どの口で。
闇に慣れた目は、ウォルターの背中を写してスッラを嗤った。
項や首筋、肩に見える歯形や鬱血痕が、シーツの下に隠れている肌にもあることは、他の誰でもないスッラがよく知っていた。
他の誰でもない、スッラが食い散らかした肢体だ。
最期の恐怖に喘ぐ獲物をいたぶるように、最期を認めようとせず活路を探る獲物を追い詰めるように、スッラはその身体を愉しんだ。焦らして、なぶって、味わった。正しく、獣のような交わりだった。
強化手術後、麻酔の切れた後に痛みや意識の混濁で身体の動くままに暴れた朧気な記憶が蘇る。あの頃から、結局なにも変わっていない。
或いは――それが自分の本質なのだろう。
理解し、受け入れていたとは言え、冷えた頭の前にこうも静々とその結果を出されれば自嘲せざるを得ない。いっそ脳諸共理性を焼き尽くして、人でない何かに墜としていてくれたら良かったのに。理性ひとと本能けものを往き来する面倒も感じずに済んだ。
行為自体は合意の上と言うか、ウォルターから誘われたのだ。そしてスッラは誘いに乗った。ウォルター曰く、今までの報酬として好きにしろと。だからまあ、乗ってやったとかウォルターの自業自得だとかとも言える。茹だるような記憶の中に、獣のような体勢と声で交わるものがちらつく。
ウォルターが手酷く抱かれたがった――言外に、あるいは眼が――と言えど、スッラ自身も望んでしたことなのは確かだった。需要と供給。食いたい捕食者と食われたい被食者。丁度良かったのだ。
雇い主と言う、守るべき対象であったウォルターを、しかし汚したいと言う欲望もあった。ひとを殺してなお美しい男に、羨望を抱いたのかもしれない。ひとを殺す度に律儀に罪悪感を抱える男に、憐憫を覚えたのかもしれない。独占欲か庇護欲か、或いはもっと他の何か。色々な欲望と感情が溢れ、混ざって、熱になった。
名状しがたいそれは、本能を最も表すかたちで顕れた。この部屋のことだ。
ぼんやりと室内に輪郭が浮かびはじめて、地平に日が近付いていることを知る。明け方と黄昏時は、特に時の流れが早く、見やすい。
だが、未だ世界は閨の内だ。
夜が明ければ、ウォルターはこの腕の中から出ていく。行為を始める前に交わした約束であり、行為が一層の荒々しさを見せた理由だった。
スッラはこちらに背を向けて眠るウォルターを見つめる。
相手は意志を固めていた。では、自分は?
否、そもそも固めるだけの意志など無い。ただ生きるために戦場を駆け、その日を凌いで明日へ命を繋ぐ。そこに大層な目標も望みも無い。
だから、それ・・を持つウォルターに、着いては行けなかった。スッラは自分の命を賭けるだけの価値を、ウォルターの背負うものに見出せなかった。そしてスッラは、ウォルターが背負うものよりも大切だと言う価値を、ウォルターに見出されなかった。
この曖昧な時間が、既に袂を分かった二人に許された、最後の逢瀬だった。
ずっと見ているだけだったウォルターに手を伸ばす。サリ、とシーツの擦れる音がした。シーツの白に、人の五指が影を作る。それを見て、なんとなく、スッラは己が人であることを知り、安堵した。
するりとシーツに潜り込み、ウォルターの肢体を抱き寄せる。小さく声が聞こえたが、それはすぐに寝息へと溶けていった。腕の力を強めても、身動ぎはされても振り払われはしなかった。意識の無い身体だとしても、触れることを許された現実に歓びを覚えた。
スッラはそこで、自分にとってウォルターの背負うものは下らないものだが、ウォルター自体はそれなりに価値あるものだと理解した。
ウォルターと別れた後にすること――自分が命を費やすものが、決まった。そも、おかしな話ではないか。他人の責を関係の無い者が負うなど。
――だから、おそらく、ウォルターを壊すのは自分だ。その使命だかへ伸ばす手足を潰して潰して潰して、お前の手は届かぬと、優しく教えてやるのだ。きっとウォルターは悲しむだろう。自分のために誰かが殺されるなど。だから早く諦めれば良い。言っても聴かぬことは、既に日のある内に何度も試したことだった。
まだ柔らかな肌の首筋に、今一度くちびるを寄せる。きっとこの肌が固く乾いていく時に自分は側にいない。代謝の良さに温かい体温も、きっと今だけ。
何もかも惜しくなってシーツを引いて抱き込めば、ふたりのにおいが混じりあった。外に覗いていた肩は冷えている。肩までシーツを引き上げると、ほんのりと身体が温まりはじめる。抱え込んだ身体に頭を擦り寄せながら、スッラは温かさに誘われるまま目蓋を閉じようとする。
窓の外は明らんでいた。
夜明けは、すぐそこまで来ている。
最後の夢に落ちる直前――今宵付けられた背中の爪痕が、消えなければ良いとスッラは思った。