
角のある話。元日の鬼と龍。現代。甘め(もっと甘くしたかった……)。
におわせ程度の死(消失)話題有り。いぬが犬。
ウォルターを指す名称に「ハル」を使ってます(和風ファンタジーなイメージのため)。
寒々とした部屋に朝日が射す。
レースカーテンが覆う窓の向こうには、煌々とした陽が昇っている。
薄く口許になびく白。
太陽に押し上げられる夜の帳の名残は水底を思わせ、吐いた息にあぶくを見せた。
キシリと床板が軋む。
薄い板だ。木であった時間が、それはそれは短かったのだろうことが、窺われる。
足音を忍ばせた甲斐なく、鳴った音に、窓の前に佇んでいた影が振り返った。
その影――同居人は、ずっとそこに居た。
いつから居たのかは分からない。
けれど日の昇る前から居たのだろうことは、想像するに易い。
まだ暗さの残る水底で、燃えるような陽光を浴びながら、同居人は外を見ていたのだ。
振り返った彼は陽光を背負う。
当然、身体の前は翳る。
しかし濃い影を張り付けてなお、そのふたつの目はうつくしく光を帯びていた。
「スッラ」
ツイ、と伸ばされた手のひらは、指先までかたちが良い。
シン、と発せられた声は、水底へ静かに染み入るようで心地良い。
かつてまみえた海の向こうの同類、そのうちの「悪魔」と呼ばれるものの名を、似ているからと借り受けて、もう何世紀となったろう。
スッラ――鬼と呼ばれる存在の男――は、キシリと床を軋ませて、同居人の側へ往く。
「随分と早い」
「一年の、はじめの日だからな」
手のひらを取り、誘われるままに頬を寄せ合い、額を触れ合わせる。
心地良さげに閉じられたまぶたが薄く開くと、その奥に、きらきらとした瞳があった。
水源を思わせる、この瞳を持つ同居人を、ハルと言った。
「スッラ」
ゆるりとハルの背から、鱗と鬣を持つ尾が現れる。
腰の下辺りから顕現しているそれはスッラに甘えるように巻き付く。身体を寄せ合ったのは、この尾が服を捲り上げすぎないようにするためでもあった。
尾、だけでなく腕も背中に回される。
スッラも両腕を、首を全身を使ってハルに擦り寄る。
するするとふたりの額に角が生える。耳の先もとがり、肌に鱗のかたちが浮かび上がる。
「お前の道行きに幸多からんことを」
ふたりは人の世に紛れる、人ならざるものだ。
山も川も、人の縄張りとなった。
だから鬼は龍を連れて人里へ下った。
龍を喪いたくなかったのだ。
「お前の身に温もりのあらんことを」
けれど時を経るごとに人ならざる身は薄れていった。
鬼も龍も、もはやおとぎ話だった。
だから薄れ行く身を繋ぎ止めるために、水神、龍神として神格のある――あった――ハルが、維持のための神通力を分ける。
のを、年のはじめにするようになった。
「願わくはこの身尽きてなお、お前が在らんことを」
額に薄いくちびるが押し付けられる。
ふわりと身体中をあたたかな清流が流れる。
祝詞と言うには拙すぎるその言葉は、身の内を満たした。
心地好さに小さく息を吐いたスッラの下肢が、ずるりと変じる。
鱗に覆われたそれは龍に似て、しかし肢を持たぬものだ。
しゅるりしゅるりとそれは、自身がされたよりも堅固に、ハルの身体を螺旋に隠していく。
「……やはり力は薄れているか」
スッラの様相を見て、かつて大河の化身、八岐の大水脈等と謳われた龍は眼を伏せる。
年々、スッラの姿は力を分け与える大元の姿から離れていた。
同時に、ハルもまた龍の身を失いつつあった。
少し前――彼らにとっての感覚で、だ――は人の住居等極小なり、とばかりに燦々流麗な龍躯が部屋を埋めていた。
それが、今はスッラの身体を隠しきれない程度の尾部。
陰の気があれば「存在は」できる鬼は、その性質に反して清らかさすら感じさせる身体で龍を抱く。
「無理をするな。いい。私は人の恨み辛みがあるかぎり存在できるのだから」
「俺がやりたくてやっているんだ。それに陰の気だけでは化けにくくなるだろう?」
陰の気が濃ければ濃いほど鬼は力を増し、人語も交わさぬ異形と成っていく。
そんなことになれば一緒には居られない。
この行為は、ふたりがあらゆる意味で共にいるためのもので、共にいるという意思表示でもあった。
「――彼らは無事でいるだろうか」
不意にハルがそんなことを呟く。
「スッラ」の名前を借りた時、また会おうと約束したのだ。それが彼らとの最後の接触。
そう易々と命を落とす「いきもの」ではないだろうけれど、便りがないのは良い便りと言ったりもするけれど、先細る己の力を前に、ふとそんなことを思うのだ。
鬼と龍は、彼ら悪魔とドラゴンに似ている。あるいは逆なのかもしれない。が、とかく、特に人型でいるときの話である。
だから親交を持ったし、名前を貸すまでの交流となった。
生まれた場所だのに外つ国の人間のふりをすることとなった鬼と龍に、むしろ共に来るかとすら彼らは言った。断られると、当然、分かっていて。
優しいのだ。
そんな優しさに触れた優しい子が、彼らを想わないはずがない。
「奴らは信仰に関係ないだろうから、平気だろう」
特に悪魔の方が、今だって上手くやっているだろう。
あのドラゴンだって、人間をよく見ているようだし。
「そうだろうか」とハルが目を細める。やさしい子だ。
ちょうどその時に、カチャカチャと硬いものが床板を掻く音がした。
スッラの目が不機嫌そうに細まり、ハルに巻き付いた肢体が力を増す。
わふ、と足元で犬の鳴き声がした。
「起こしてしまったか。まだ寝ていて良いぞ、初詣は昼過ぎごろに行くから」
スッラの鱗に前足をかけ、寝床からやってきた犬――額にハルのそれと似た角が生えている――がわふわふと訴える。
大蛇に巻き付かれているハルは首を微かに回して、犬にそうやわらかな声をかけた。
スッラは尾の先で犬を追い払おうとしていた。
「犬、鬱陶しいぞ。さっさと残りの力をハルへ返して消えろ」
べちりとスッラの尾に叩かれて犬がひっくり返る。哀れそうな声にハルは動こうとして、叶わない。
犬はハルの眷属とでも言うべき存在だ。ただしハルに「使役」する気はない。時々、お使いなんかをしてもらうくらいだ。
しかし犬の方は、死にかけていたところを救われた恩に報いようとハルに付き従っている。
スッラとは頻度が違うと言えど、犬もまたハルから力を分け与えられているから――あまり仲が良くないのだ。
聞き分けのない子供を見るような眼を、一瞬。
ふにりとスッラのくちびるへ、ハルは自分のくちびるを押し付ける。
不意打ちに、拘束が微かに緩む。
その隙に腕を抜いたハルは、めげずに周りをうろついていた犬の頭を撫でてやる。きゅうん、と口角を上げて鼻を鳴らす犬に「ふ」と吐息で笑う。
「大丈夫。大丈夫だ」
手はそのまま、スッラの首もとに頭を預ける。
「俺はまだここにいる」
瞬間、ふわりとあたたかな風が吹いて服の裾が揺れた。
ギ、と床板が鳴ったのは、スッラが二本の足で踏み締めたからだ。
邪魔だった蛇の鱗が消えて、犬は喜び勇んで主の脚にすり寄る。
「……ハル」
「なんだ?」
「ハル」
「……スッラは心配性だな」
スッラの背を、龍の尾がポンポンと軽く叩いていった。
うつくしい光の粒は、それがほどけたものだ。
龍の身の顕現を止めた姿はどこから見ても「人間」だ。
その気配すら「人間」と近しくなっていることに気付いたのは何時だっただろうか。
犬の額の角も、少しずつちいさくなっていた。
ハルは龍の姿――ちから――を失い、人になりつつある。
それが何時になるかは分からない。
そしてハルから力が失われたとして、ハルが消失することは、ない。
力を失った「人ならざるもの」たちは、人になるのだ。
そうして、永い時から外れて「人生」を歩み始める。
「ハル、どこか、田舎の方へ行くか。そこならまだ川や沢を信仰する人間がいるかもしれない」
「どうだろうな。それに、そういう場所こそ俺たちのような「異人風」のものに驚いてしまうだろう」
「だが、」
「大丈夫だ。猶予はまだある。それに――スッラは俺が龍でなければ構ってくれないのか?」
意地の悪い言い方だと言う自覚は、あった。
だからスッラが浮かべた表情は、ある意味ハルの思い通りのものだ。犬は関係ないと言わんばかりに頭や脚をハルに押し付けていた。
「俺がひとになれば、それこそお前にも同じ道を辿らせてしまう」
だから、遅いか早いかの問題なだけである、とハルは言う。
「いくな。どこにも」
けれどスッラは、その遅いか早いかをこそ厭って――否、恐れているようだった。
一度手放してしまったものを取り戻して、二度と手放すものかと握り締めるように、スッラはハルを掻き抱く。
ハルはそっと静かに、それに応える。
窓の外にその身を完全に晒した太陽は、夜の帳をすべて押し上げていた。
ハルのまるい後頭部や流れるような首筋、背中が照らされる。
消えてしまう、と思った。
溶けて消えてしまう。
陰の住人であるはずの自分よりも、陽の住人であるはずの龍が、日の下で儚く見えた。
「スッラ。初詣、一緒に行こうな」
ぽん、とひとつ背中を叩かれる。
一緒にと言ったのはわざとだろう。
「お賽銭を投げておみくじを引いて甘酒を貰いに行こう」
まるで人間のようなことを言うハルは――そう言えば昔から人間の営みに興味があったのだったか。今になっても「体験」できることが嬉しく、興味深いのだろう。
きっと「尾」があればゆらゆら揺れるのが見えたはずだ。
ああ。この龍の子はいつになっても変わらないのだ。
「……ああ」
ひとまず今は、共にあることを前提に先のことを考えてくれているから良いか――とスッラは思って、ようやく正面からハルの顔を見る。「昔」から変わらない、うつくしい眼、表情、佇まいだ。
今は、今この目の前にあるものを大切にしていこう、と。
スッラの手がようやくほどけかけたところで。
「……それにな、スッラ。きっと俺たちは何度生まれ変わっても巡り合うと思うんだ」
だから大丈夫だ。
なんて言われてしまえば――鬼はまた龍を掻き抱くしかなくなるではないか。