湿っぽい話が書きたかった話。流血・負傷・拉致監禁描写有り。
新米時代辺り(名の知れた傭兵と駆け出しハンドラー)のスラウォルもといスラ→ウォル。
湿っぽい話が書きたかった話
……次の私は上手くやってくれることでしょう。
流血・負傷・拉致監禁描写有り
新米時代辺り(名の知れた傭兵と駆け出しハンドラー)のスラウォルもといスラ→ウォル。
感覚がなんかズレてる(方向性のおかしい過保護と言うか)スッラと甘ちゃんのくせに覚悟キマってるウォルター的な。
リリウム(小惑星)についてはWiki先生から(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A0_(%E5%B0%8F%E6%83%91%E6%98%9F) )
軌道長半径とか近日点距離とか遠日点距離とかがルビコン(小惑星)に近そうだったので。
あとシリーズに縁のある名前のようだったので。
もちろん捏造です。ACⅥ世界にあるのかワカラナイ-サダカデナイ
諸々気を付けてね。
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今日の仕事は、上手くいかなかった。否。最近、敵陣営に厄介なパイロットがいる。作戦行動開始当初はいなかったそいつのおかげで、作戦の仕上げとなる最後の打撃が与えられずにいる。依頼人からの期日はまだ少しあるが、早期達成に越したことはない。猟犬を失っていないだけマシであるが、機体もパイロットもダメージは受けている。どうしたものか。
情報収集と、気晴らしのためにウォルターは酒場へ来ていた。治安のあまりよろしくない地区に合わせて、いつもの服装ではなくガレージでの作業着に近い格好をしていく。
カウンターに座り、店内の客たちの話し声に耳を澄ます。どこの星のどこの闘争が参加し時だとか、どこの企業が羽振りが良いとか、どこの斡旋組織が解体されたとか。チビチビ酒を舐めながら、ウォルターは有益な情報を探す。
――気になる情報は無さげ、か。
本命は、件の敵陣営のパイロットの情報だった。だが作戦自体水面下であるもののせいか、これと言った情報は無い。
斯くなる上は、あまり気が進まないが、次に接敵したらハッキングを試みるか。今のウォルターの腕では、きっとハッキングにかかりきりになる。その間、猟犬には悪いが自力で凌いでもらうことになってしまう。電子戦の方は分からないが、少なくとも相手は手練れの傭兵だ。相手をする猟犬は大怪我――下手をすれば命を落とすだろう。ああ、自分にもっと、力があれば。
ウォルターは溜め息を吐いてグラスを傾ける。
視界の端が翳ったのは、それとほとんど同時だった。隣の席に、誰かが座ったのだ。
他の席もあるだろう、とは確かに思った。だが他の席に座ることも含めて、客がどこに座るかはその客の自由だ。せめて因縁や目を付けられないように、ただの客でいよう、とウォルターは思った。
「ウォルター?」
――思っていたのに、隣からかけられた声と視線に、ウォルターの計画はあっという間に崩れ去った。
かけられた声が知らぬ声なら、ウォルターは無視していられただろう。知らぬ声でなかったから、顔を上げてしまったのだ。裏社会の人間にあるまじき、驚きの表情を浮かべて、隣の席へ顔を向けてしまったのだ。
「ああ、やはりウォルター、お前だったか」
そこには、やはり、かつて技研都市で交流のあった独立傭兵がいた。
「――スッラ」
少年のような顔で、ウォルターがその名前を呼んだ。
言い訳、をするなら、ウォルターは駆け出しと呼ばれる時分だったのだ。一日毎に悲願を託し斃れていく友人たちやインターネットで裏社会を必死に“学んで”、ようやく公示ではない依頼をとれるようになってきた頃だった。そこに、懐かしい顔との再会。生物的にも社会的にもまだまだ若い青年が、気を緩めたとして何を責められようか。ましてや、相手はかつて居住空間の共有もした男なのだ。
スッラはまずウォルターが生きていたことに驚いたようだった。アイビスの火が起きた頃、スッラはルビコンⅢにはいなかった。強化手術を終えた傭兵は己の狩場へ戻っていたのだ。
ウォルターは友人たちに生かされたこと、今は何とか食い扶持を稼げていることなんかを曖昧に語った。そして、近況も近況、今現在の仕事に手こずっていることを打ち明けた。
それは、やはり裏社会の人間にあるまじきことだった。
若かった。若かったのだ、青年は。旧知の相手に甘えを見せる程度には。不安と恐怖と寂寥を抱え込んでいたこともあるだろう。
対してスッラは傭兵だった。人生の半分以上をそうして生きているのだから当然だろう。目の前の青年の話を聞きながら「そうかそうか」と相槌を打つ。自分のことは語らずに。そうして今の仕事で敵陣営に雇われているのがウォルターであることを知り、更には今ウォルターが有している戦力や拠点の位置も薄らと聞き出したのだ。まったく、心配になるくらいの気の許し方だ。自分は善い人なんかではないと、何度言ってやれば良いのだろう。
「――それでな、スッラ。お前に協力して欲しいこと……依頼があるんだ」
そんな風にウォルターが切り出したのは「ルビコンⅢへのエスコート」依頼だった。
「俺はあそこへ帰らなければならない。皆との約束があるんだ」
「……ルビコンⅢは惑星封鎖機構が惑星封鎖しているが」
「ああ。だからお前に力を貸してもらえないか訊いているんだ」
スッラから見たウォルターは「良い子」だった。礼儀があって思いやりがあって誠実で真摯で善いこと悪いことの判断がついて――教師とか役人とか、社会や人のためになるような職に就くタイプの人間に見えた。
それが今、“治安維持”機構の意に反することをしようと企んでいる。
その理由が、ただの郷愁だったならば良かった。だがスッラは、ただの郷愁から公権力に楯突くほどウォルターが短絡的でないことを知っていた。
口を緩やかに結び、片眉を微かに上げたスッラに、ウォルターは声を潜めた。
「今すぐでなくても良い。だが早く帰れるに越したことはない。俺たちには、あそこを観測して対応する義務がある」
観測して対応。継続的な活動に、この青年は与しているらしい。そしてそんな活動を、あの場所でするとしたら、ほぼ間違いなくあの組織かあの組織の残党だろう。
ルビコン調査技研。そう呼ばれる組織に、かつて青年の“父親が”勤めていた。
つまり、ウォルター自身が技研の活動に関与していたわけではないのだ。いくら賢いと言えど子供なのだ、限界がある。ましてやルビコン星系やその周辺でも最高の頭脳が集まる研究機関だ、子供を深く関わらせることもない。
それなのにウォルターは、ルビコンⅢに戻ることを義務だと言った。
そうはならないだろう、とスッラは思った。技研のしたこともアイビスの火もその後始末?も、“ウォルターには”関係がない。当事者ではないのだから。それなのに当のウォルターは、ルビコンⅢで技研がしたこと生んだものを、すっかり自分の責任にしてしまっている。
スッラは曖昧に笑った。まあ飲め、と新たに注文したグラスを差し出す。そこにスッラが何かを垂らし入れたことなど、誰も気付かなかった。
夢を見ていた。内容はよく覚えていないけれど、良い夢だったような気がする。懐かしい風景、懐かしい顔ぶれ、懐かしい声や言葉。ああそうだ。自分は、故郷にいた。
「――……、」
ウォルターは目を覚ます。薄暗い部屋だった。見知らぬ天井。
身体を起こすと、そこはベッドの上であることが知れた。どこか、ホテルだろうか。しかし当然ホテルに予約を取った憶えもチェックインした憶えもない。一体何が起きている、と記憶を辿る。
拠点から街区の下層に繰り出した。情報収集のためだ。情報収集をするならと酒場へ赴いた。そしてそこでスッラと再会した。話をした。
スッラと、話をしたことは憶えている。だがその後の記憶がない。途切れている。
おかしいと思った。そこまで飲んでいた自覚はない。否、飲んでいない。カウンターに置かれたグラスはひとつだった。最初に頼んで、ちびちびと舐めていたもの。記憶を失うまで飲んでいたわけがない。
だがウォルターは思い出す。記憶の最後に、自分が何を口にしていたのかを。
「――スッラ、」
じとりと、背筋を冷たい汗が這った。
そう言えば今は何時だとウォルターは端末を確認しようとする。だが目の届く範囲には見当たらない。枕元、ベッドサイドのチェスト。そもそも部屋の中に物が少ない。
扉が視界に入る。出なければ、と思った。
「……ッ!?」
ベッドから降りようとしたウォルターは、そしてそこでようやく違和感に気が付いた。おそらく、非現実的で信じられなくて、脳が認識するのを拒んでいたのだろう。自分の足に、スッラが嵌めたと思われる枷があることなど。
ちゃり、と鎖の擦れる音と重さに眼がそれを見てしまう。それは紛うことなく拘束具だった。
何故、と疑問ばかりが浮かぶ。何故スッラはこんなことを。否、本当にスッラがしたのか? そのメリットは? 初めからこれが目的で自分に近付いた? 否、自分はまだ駆け出しで、標的にされるほど誰かの脅威にはなっていないはずだ。スッラ。スッラ。なぜこんなことを。
ざわざわと背筋がざわめいた。
――とかく、ここから逃げなければ。ウォルターはひとまずベッドから降りることにした。正直なところ、鎖の長さが部屋の外まであるとは思えない。けれど、少しでも動ける範囲を把握しておくに越したことはない、と思った。
ちゃり、と金属が鳴る。ひたりと足を下ろした床は冷たかった。
足音を忍ばせようにもウォルターは素人だった。どうしても、ひたひたと小さな足音がした。足音を、忍ばせる必要があったかも分からない。否。そんなものは必要なかった。
ウォルターが、扉まであと一歩のところまで来た時だった。
「っ!」
音もなく、目の前の扉が独りでに開いた。
「ああ、起きていたか」
声がした。目の前に誰かが立っていた。扉は、独りでになんて開いていなかった。
ウォルターは触れてもいない扉が開いたことに息を呑み、次いで開いた扉の向こうに立っていた人物に目を見開いた。
「スッラ……、」
たぶん、他にいないと理解しつつも、そんなはずはないと願っていたところがあったのだ。
「具合はどうだ。何か欲しいものはあるか? 喉は乾いていないか? シャワーでも浴びるか?」
「スッラ、なぜ……、ここは、お前は、俺は……、どうして、」
スッラが室内に入ってくる。ウォルターを気遣う台詞を吐きながら。そこに敵意や悪意は無い。ごく自然で親しげだ。けれどウォルターはその“自然で親しげな”姿に気圧されるように後ずさる。
そして、膝裏がベッドに当たってシーツの上に尻餅をついた。
スッラを見上げるかたちになる。
「ス、スッラ……」
かくりと首をかしげる姿が、人語を解さない獣に見えた。翳ってその色を濃くした紅眼は血の色じみていた。
「何を震えている? 一人で目覚めたことがそんなに怖かったか?」
けれど実際は――当然ながら――会話ができる。
やはり穏やかな声で、スッラはウォルターに訊いた。頬へ添えられる手は、まるで壊れ物に触れるかのようだった。
その、声も仕草も何もかもが、状況が状況であるためにウォルターの舌を縺れさせるのだけれど。
「すっら、っ、おれ、……俺、は、どうしてここに……、ここは、どこだ?」
「ここがどこかはどうでもいい。どうせすぐに出るからな。次の仕事はリリウムだ」
「は、え? なに、を、言って……?」
スッラもウォルターも冗談を多く言うタイプではなかった。だから、今回のスッラの言葉も当然ながら冗談でも何でもない、事実だった。
スッラは未だ困惑するウォルターを抱え上げて部屋を出る。人気の無い廊下、建物だった。もしかしたら廃墟――だとしたら随分きれいだが――なのかもしれない。
向かったのは小さな港だった。どうやら本当にこの星を発つらしい。
「ま、待て! やめろ、俺には仕事が、」
「仕事? ……ああ。心配するな。アレは終わらせておいた」
「……は?」
スッラの腕の中で藻掻いていたウォルターは、言葉の意味が理解できずに固まった。
「犬も拠点も処分しておいたぞ、“ハンドラー・ウォルター”」
「――!」
「相手が私で良かったな。私でなかったら、お前は今頃生きていない」
なぜ、と訊こうとして、しかし声は出なかった。
それでもスッラはウォルターの言いたいことを察したらしい。愉しそうに目が細められる。
「ところでお前が探している端末なら、ここにある」
そう言ってスッラが自身の尻ポケットから取り出したのは、間違いなくウォルターがあの部屋で探したウォルターの端末だった。
スッラは端末を握らせて、押し付けて、ウォルターに返却する。ウォルターの目的も立場も飼い犬も犬小屋も、みんな知った。だからもう「モノ」に用はなかった。犬と犬小屋は、ウォルターが眠っている間に片付けておいたし。
「秘密結社に属しているならもう少しセキュリティに気を遣うべきだな。もっとマシな設備を……ああ、人手も資金もなくて揃えられなかったのか?」
ウォルターは「そこ」に戻らせないから、もう関係のないことだけれど。
どん、と身体に衝撃が走った。
スッラの両腕がやわく広げられて、ウォルターは転げ落ちるようにその腕の中から逃げ出した。返された端末を、それでも握り締めて、港やスッラから少しでも離れようとウォルターは走った。
裸足のままの足裏が硬い地面に痛む。足首に嵌まったままの枷が重い。けれど鎖が外されている今ならどうとでもなる。遠くへ。少しでも遠くへ。
意外なことに追ってくる足音はなかった。発信器でも仕掛けられているのだろうか。それならばどこか身を隠したところで外さなければ。ウォルターは“逃げ切ってから”の算段を立てる。
スッラが、黙って逃がしてくれるわけがないのに。
背後でヒュッ、と軽い音がした。否。それは鋭い音だった。直後、ウォルターの足枷に何かがぶつかって足元が揺れた。
「――うわっ!」
堪らずウォルターはつんのめり、そのまま地面に転げる。ズシャリと足を地面に擦ったまま、上体を起こして振り返れば、何かを投げたらしいスッラが、腕を下ろしてこちらへ歩み寄ってくる姿が見えた。
かろかろ、と砂利や小石が戯れる。そうか、スッラはその辺の小石を投げ――て足枷に当てたのか、走っている人間の。
人間離れした技を披露したスッラに、ウォルターは息を飲む。一度足を止めてしまえば、枷はより重たく足を地面に縫い付けた。
スッラが目の前まで来る。困ったような顔で笑っている。
「大人しくしていろ、ウォルター。“良い子だから”」
宿はスッラの別荘――拠点のひとつだった。よく仕事で訪れる惑星には細やかな「家」を買っているらしい。ベッドメイクもそこそこに、下ろされたシーツの上でウォルターは足の手当てをされていた。水を溜めた桶で足を洗われ、消毒液をかけられ薬を付けたガーゼを当てられる。そして包帯がくるくると爪先を包んでいく。機嫌の良さそうに見えるスッラは、今やウォルターにとって得体の知れない存在だった。「なぜ」と「どうして」がぐるぐると廻る。
――そもそも、引き金は何だった? 最近の仕事について話したから? それ以外で何か触れたらマズい話題があった? あるいは――技研の話をしたから? だが、もし、そうだとして、なぜ? スッラが、技研を恨んだり憎んでいる可能性は、大いにある。けれど、そうだとしたらなぜ自分を拐った? なぜ傷の手当てをする? 痛め付けたり殺すそぶりを見せない? ……ああそうか。これからされるのか。
と、ウォルターは覚悟していた。逃げ出す隙を窺いながら、いつスッラが拷問を仕掛けてこようと耐えて見せると気を張っていた。それなのにスッラは何もしてこなかった。ただウォルターを飼った。家の中でなら自由を許した。足枷はずしりと存在を主張したけれど、その鎖は家の中を歩くには不自由しない長さだった。ウォルターにとっては不気味で不可解な生活だった。
ウォルターとてただ現状を享受するに留まるつもりはない。周波数やら回線が違うのか、あるいはジャミングでもされているのか分からないが、端末はただの玩具になってしまっていたが、生きていることには違いない。あの港で何とか「友人」数人にエマージェンシーを送ったから、少し時間はかかるだろうが助けは来てくれるはずだ。ウォルターたちは少しでも人員を減らせないのだ。だがそれは賭けに近い。星を渡ってしまっているし、何より相手や状況が悪い。友人たちがウォルターを助けてくれるかどうかは、正直なところ五分五分だろう。今はまだ、我慢の時だ。大人しく、スッラに従っているべきだ。
だが、ウォルターのその計画――とも言えない、思惑程度のものだ――は悠長だった。平穏とも言える日々に、気が緩んでいたことは、否めない。
その時は唐突に訪れた。
朝から出掛けていたスッラが帰ってくる。ウォルターは巣と化した寝室から廊下の様子を窺う。家主は機嫌が良いようだった。機嫌の良い家主は、その両手で桶を持っていた。桶からはタオルと思われる布の白とか、何かの柄が覗いていた。
――眼が合った。嫌な予感!
ひゅ、と喉を鳴らしてウォルターは部屋に引っ込んだ。あるいはここで部屋を飛び出して、スッラを突き飛ばして玄関に向かっていれば何か変わっただろうか。けれどウォルターは部屋に引っ込んだ。小動物が捕食者から逃げるように、気圧されるように。身を隠すことを選んだ。
部屋に隠れる場所はない。クローゼットはあるけれど、逆に言えば隠れられる場所はそこだけだ。窓は高くウォルターには届かない。ベッドは設置型で「下」が無いタイプだ。ウォルターは早速後悔する。鍵なんてものは当然ない。せめてもとウォルターは扉に背を預けて座り込んだ。
どうする。どうする? あれは、絶対なにか良くないことをしようとしている姿だ。逃げ――られるだろうか。逃げなければ。だがどうやって。チャンスがあるとしたら入室の一瞬。いやその前に、説得を試みる、か……?
「ウォルター? 入るぞ」
両手が塞がっているスッラがノック代わりに声をかける。
「っ、あ、ああ、」
結局考えのまとまらないまま扉を開け、た、のは、たぶん、身体がまだスッラに気を許しているからだった。
自ら捕食者を招き入れる。その、己の愚かさはウォルターが一番解っていた。
「それ、は、なんだ」
目の前に立つスッラが抱えた桶の中。それを見て、ウォルターは逃げることも説得することも忘れて訊いた。そこにあるナイフやタオルやバンドはなんだと。
「見ての通りだが」
スッラは何故分かりきったことを訊くのかと言わんばかりに答えた。
スッラを押し退けて、ウォルターは部屋を出ようとした。スッラの身体と壁の隙間。それを、スッラを突き飛ばして広げて、そこから――
「ぐうっ!」
出ようとして、それはあっさりと失敗した。
スッラが軽く身を退く。つんのめったウォルターは壁にぶつかり、けれど手をついて勢いをつけて廊下を駆けようとして、転げた。ずだん、と強かに身体を打つ音が響く。足が動かない。首だけで振り返れば、鎖を踏みつけたスッラがいた。
「そんなに慌ててどこへ行く?」
凪いだ眼が、ウォルターを見下ろしていた。ツ、と蟀谷を冷たい汗が伝う。
「て、手洗い、に、」
上擦り、小さく震えた声に、スッラは気付いただろうか。視線の、一瞬の交錯が、永遠にも感じられた。
チリ、と鎖が鳴いた。スッラが、足を退ける。
「それは悪いことをした」
ウォルターは這うように立ち上がる。
「話がある。落ち着いたら戻ってこい」
背中へ投げられた言葉にチラと振り返ると、そこには綺麗な弧を描く目があった。その眼はウォルターの何もかもを見透かしているように見えた。
そしてウォルターは宣言通り手洗いへ行き用を足し、逃走を図った。だってまたとない好機に思えたのだ。玄関と寝室なら玄関の方が近い位置まで来ていたから。非常用として置かれていた|手斧《マスターキー》を手にとって、足元に振り下ろして、何度か振り下ろして、それで鎖を断ち切って。
「やだ――嫌だ、いやだスッラ、やめろ、こんな、スッラ、スッラ……!」
そしてこのザマだ。ベッドの上でスッラに抱え込まれて子供のように怯えている。
手斧が鎖を断つ騒々しさに、身体能力を強化された強化人間が気付かないわけがない。そうでなくとも、鎖の動きを見れば異変に気付く。
斯くしてウォルターは鎖を断ち切った直後に捕まったのだ。達成感に満足げな顔を上げた先、場違いに穏やかな顔をしたスッラを見たときの表情の変わり方と来たら! 無論、すがった玄関の扉は開かなかった。ウォルターの知らない種類の鍵が住人の外出を拒んだのだ。
そうしてウォルターは寝室に連れ戻された。
ベッドサイドのチェストにはあの桶が置かれていた。中身はその側に並べられていた。タオル、バンド、注射器、アンプル、ナイフともメスともつかない刃物。ついでのように手斧もそこへ並べられる。まるで手術か解体でも始まるかのようだ。
案の定、それらはウォルターに使われるために用意されたらしい。スッラはベッドの上でウォルターを抱え込み、その足に刃物を添えた。
当然、ウォルターは足を切り落とされるのだと怯えた。
「スッ――スッラ、待て、なん……、何故、いや、お前にはその権利がある、が……、だが、待っ、待って、くれ、」
「お前は何を言っているんだ?」
「お前、が、技研の被害者、なのは、疑いようもない、事実だ、が、おれ、っ、俺も、時間が、いや、こんなこと、傲慢なのはわかってる、だが、すこし、少しで、いいから、少し、待って、くれ、」
スッラは困ったような顔をした。ウォルターが何を言っているのか、ほんとうに理解できないと言うような顔だった。
「私は私を技研の被害者だとは思っていない」
「だがっ……、なら、ど、して、こんな、」
何かを確かめられたのか一旦刃物を手放して、スッラは注射器とアンプルに手を伸ばす。存外慣れた手付きでアンプルの中身を吸い上げて、雫を垂らす針先をウォルターの脚へ近付ける。怯えるウォルターをあやすように、髪に口付けが落とされた。と、同時に、ぷすりと呆気なく針が刺される。ひ、と小さく跳ねる身体に「大丈夫だ」と繰り返し、透明な薬液を全てウォルターの身体へ押し込める。
それは即効性の麻酔だった。数十秒後には脚をペチペチと叩かれても「何かが脚に当たっているな」程度に感覚が鈍った。それは間違いなくスッラの優しさだった。
「ひっ――ひ、ぃ、ぁ……あぁ……、は、はッ……!」
だがそれでも自分の脚に刃物が食い込んでいく光景など、目にすれば恐怖が募ることは当然だろう。
スッラが刃物を押し付けた場所から、熱いものが溢れて視界が赤くなる。腹の底、背骨の少し下の辺りが重たくなってぐるぐると廻る。身体が冷えて、指先に力が入らなくなる。温もりを求めるように、何とか自分を支える身体に縋ると、整った顔が獣のように擦り寄せられた。
「うあ、ぁ……、ぁ、ぅ、ひッ、ぐ……、」
ぐらぐら歪む視界にウォルターは喘ぐ。二度三度と脚を噛んだ鈍色が退くと、傷口の近くをぎゅっとバンドで締められた。傷口自体にはタオルが当てられて――それだけ。
「大丈夫。大丈夫だ。お前はここにいれば良い。何も案ずることはない」
手当てとも言えない対応をして、スッラはそんなことを囁いた。薬やガーゼを使わないのはわざとなのだろう。スッラは脚を奪おうとしている。ウォルターは、とうとう意識を手放す時でも正しく状況を理解していた。
スッラの凶行はその日だけで終わらなかった。二日や三日おきくらいに、傷の治りきらないウォルターの脚を傷付けた。ウォルターの片足は四六時中血が滲み、歩くことはもちろんベッドから降りることも絶望的な状態に見えた。そしてスッラはくたりとベッドに横になるだけとなったウォルターの世話をした。
「――……ど、して……、こん、な、」
細くなった声でウォルターは訊く。口許にあてがわれた器から注がれる液体は、赤く甘く、微かに鉄のにおいがした。
「お前のためだ」
スッラは穏やかな声で答えた。
スッラにウォルターを害していると言う意識は無い。傷を付けてはいるけれど、それはウォルターのためなのだ。ルビコンに行かせないため。くだらない業の清算に付き合わせないため。つまりウォルターを想ってのことなのだから、悪いことはしていない。生きてさえいればどうとでもなる。だから脚の一本や二本、安いものだろう。
食事をする気力すら消耗したウォルターに「血」を与えて、他に身体が必要とする栄養は点滴を挿す。「処置」や体調が落ち着いたら、食事もできるくらいに、体力も戻ってくるだろう。
ベッドの上のウォルターは痛々しく弱々しくなってしまっている。胸が痛むけれど、今だけだ。日々仕事をしながら、スッラは穏やかな箱庭でウォルターと穏やかな時間を過ごした。
一方ウォルターは自分の脚が死んでいくのをゆっくりと、しかし確実に感じていた。前の傷が治りきる前に増やされる傷。もはや傷それ自体が枷となっている。そも、手当てが治すことを目的としていない。痕は間違いなく残るだろう。逃げるなら、脚が完全に死ぬ前だ。
脚が傷付けられる時やその後に痛み止めを与えられるのは救いだった。夜中に効き目が切れてベッドの上で呻きのたうち回っても、すぐにスッラがやってきて薬を与えてくれる。汗を拭って頭を撫でて、意識を手放すまで傍にいてくれる。
だが――それがウォルターには理解できなかった。スッラはウォルターに「お前(ウォルター)のため」と言うけれど、何故こんなことをするのか、見当がつかなかった。確かにスッラとウォルターには面識があるし、かつては細やかながら交流もしていた。だがそれだけだ。技研の情報や復讐が目的ならともかく、その素振りもないから分からない。スッラのことが、ウォルターは解らなかった。
対してスッラもウォルターが理解できないでいた。ウォルターがここから逃げ出す機を窺っていることは知っている。だが何故そこまで「友人たち」とやらに応えようとするのか、解らなかった。だって他人だ。直接的な関係はない。それなのにどうして自分の人生を費やすのか。それも破滅に向かうと解っていながら。「友人」なんて、技研の関係者なんて、他にも大勢いるだろう。
つまり、ふたりは極近い場所で極多い時間を過ごしながら、互いのことが理解できないでいた。だが、それでも、やり方や考え方が歪であったとしても、確かにスッラはウォルターを大切に思って(あいして)いた。
リリウムを訪れて数ヵ月が経った。正確な日数を、ウォルターは知らなかったけれど、体感として長い時間が経っていた。
「……いつまで、こんなことを、する、つもり、だ?」
ベッドの上でウォルターが呟いた。
「お前、にも、仕事がある、だろう? 俺に、構っている時間、は、無駄だろう」
スッラは笑って答える。呆れたような、聞き分けのない子供を諭すかのような顔だった。
「すべてお前のために私が私の意思でやっていることだ。気にするな。だが、そうだな。お前に仕事を与えるのも良いかもしれないな」
轟音はその直後だった。
ズ、ズン、と建物が揺れた。まるで何か巨大なもの――たとえばACとか――が地面に降り立ったような。
スッラの眼が剣呑な色を帯びる。そして顔を「外」に面する壁へ向けた時だ。
ゴリゴリとかバキバキとか、そういう音を響かせて、壁が消えて外界と寝室が繋がった。
「……」
スッラの目の前に、ウォルターの横に、一機のACが現れる。
敵襲。には変わりないけれど、それが自分を狙ってのものではないとスッラはすぐに理解した。その機体は、ここ(リリウム)へ来る前の惑星で相対していた、ウォルターの犬と同じ構成だったからだ。拠点にいたやつは全て片付けたはずだから、別行動していたものだろう。運の良い犬もいたものだ。
「ウォルター」
クク、と喉を鳴らしたスッラはウォルターを振り返る。大したハンドラーっぷりだとか何とか、言おうとした。
「――ウォルター!」
言おうとして、大穴の開いた壁へ、傷付いた脚で“走る”ウォルターを見て、失敗した。
馬鹿な。走れるわけが。走るなんて。やめろ。無理をするな。なぜ。なぜ動ける。なぜここに居ようとしない。待て。行くな。
あらゆる言葉が縺れて絡まって、ウォルターの名前だけが何とか吐き出された。
けれど当然、ウォルターは振り返らない。ウォルターとて死に物狂いだ。体力が落ち精神もすり減った今、この機を逃せば後は無い。もはや自由を失った脚を必死に動かして、鳥籠から抜け出そうとする。が――。
がしりと右の手首が掴まれた。
堪らず背後を振り返る。そこには、見たことのない表情で自分の腕を掴むスッラがいた。ウォルターの顔が泣きそうに歪む。けれど。
「――撃て!」
振り払うように前に向き直り、叫んだ。その声が聞こえたからかどうか、定かではない。だがウォルターが叫んだ通り、そのACは室内へ得物を向けて――引き金を引いた。
破裂し、炸裂し、それはウォルターの腕を掠めて床に這っていた鎖を砕いた。ぬるりと滑る血に、スッラの手からウォルターの腕が抜け出ていく。
そのチャンスを逃さずウォルターは壁際まで駆けて、そして差し出されたACの手の上に飛び乗った。建物の影からスッラはウォルターの残滓を握り締めて、薄暗い眼でそれを見ていた。
主を回収したACはすぐに飛び立っていく。後に残ったのは、箱庭の残骸だけ。
しばらくスッラはウォルターの去った空を見ていた。ぱたぱたと服の裾や髪が風に揺れる。侮っていた、としか言いようがなかった。きっと無理に動かしたせいであの脚は駄目になっただろう。腕もそうだ。掠めたとは言えACの武器に曝されて無事でいられるわけがない。
だが、引き換えにウォルターはここから逃げ出した。脚と、そして腕を擲って、一度きりのチャンスをものにして見せたのだ。
口角が上がる。肩が揺れる。面白くなってきた。額に遣った手が、そしてべたりと顔の半分を赤く塗った。
そうか。繋ぐだけでは留められないか。閉じ込めたとて迎えが来るか。そうか。ならば――その腕が手繰る紐(リード)の先、手足となり死地へ運ぶ犬たちを潰すしかないか。ならば、さあ、犬狩りだ。狩りの時間だ。闘争だ。お前を枷無き夜明けへ導くにはこれしかあるまい。だってそうだろう。お前は犬ぞりで故郷へ向かう。動力たる犬を狩るのは道理だろう。何度でも。お前が諦めるまで。あるいは“お前が”それを成す必要のなくなる瞬間まで。
炯々とした眼で狩人が笑う。まるで獣のような笑みだった。