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【ACⅥ】ああ、いつか出逢う我が運命よ!

若スッラが生存if熟年新婚夫婦スラウォルのところに転がり込む話。イチャイチャ甘々。
少々の暴力・負傷描写と事後?描写、名前ネタなんかがあります。書きたいとこだけ系。

若スッラが生存if熟年新婚夫婦スラウォルのところに転がり込む話


区別のために若スッラの名前を「ルキウス」で取ってます。名前ネタ!

技研時代含めた過去捏造とか技術の捏造も例のごとく含まれてます。ご都合ファンタジー。

少しだけ暴力・負傷描写と事後?描写があります。


スラウォルと同時に若スッラ→ウォルターも薄らあります。スッラが終始若スッラを威嚇してる。


全体的に駆け足気味になっちゃった。書きたいとこだけ系。

気を付けてね。


---


 「十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない。(Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic.)」とは、かつて地球に実在したと言う人物の言葉であるが、結局これは間違っていないのだろう。そもそもコーラルと言う物質が魔法めいた性質を持っているのだ、コーラルをよくよく取り扱っていた技研の「科学技術」が魔法のようなものであっても何らおかしくはない。

 部屋の中に轟音と突風が吹き荒れた時、ウォルターは咄嗟に左腕で顔を庇った。当然目蓋も閉じた。そして暗闇の中で、何かが動く、空気の流れを感じたのだ。反射的に、部屋の外に待機させた男の顔が思い浮かんだ。思い浮かべたのが同じく室内にいるはずの姉貴分でなかったのは、この状況で彼女がこれほど早く動けるとは思っていないからか、張りつめた緊張の糸が血のにおいを想起させたからか。とかく、ウォルターは名前を呼ぼうと口を開いた。開いて――

 「か、はッ……!?」

 喉元に何かが当たり――当てられ?――そのまま壁へ押し付けられて、肺から空気が押し出された。

 「っぐ……、ぅ、ぐ、」

 ウォルターが首元へ手を遣ると、グローブに包まれた手は、人の腕らしきものに触れた。息苦しさを訴えるように、かり、と指先が腕を掻く。

 「ウォルター!」

 未だ視界を覆う煙の中から、姉貴分――カーラの声がした。

 「かはッ……、カ……ラ、ッ、」

 応えようにも喉が締められていて声が出ない。空気を求めて、はくはくと唇が開閉する。

 そして、ウォルターが声を上げようとしたからだろう。ぐ、と喉を圧す力が強まった。何とか逃げ出そうと、ウォルターの指先が首元を掻いて、爪先が瓦礫を蹴った。

 息苦しさに視界が滲む。けれどそこに、薄まった煙の向こうに、懐かしい顔が見えて、ウォルターは目を丸くした。

 そんな、まさか。

 呼吸を忘れた目が丸くなる。目の前の人物を、自分を押さえ付ける人物を、しかと見つめようとする。

 けれどそれは叶わなかった。

 「!?」

 蒙々と立ち込めた塵や煙を切り裂くように、何者かが割って入ったのだ。

 ひゅ、と空を裂く音――否、衣擦れの音だろうか――がして、視界を覆う灰色が大きく揺れる。次いでフッと呼吸が楽になって、一拍ほどした後に、“誰か”が壁に叩きつけられるような音がした。膝をつき、咳き込んでいた顔を上げれば、そこには部屋の外にいるはずの男が眉間に皺を寄せて立っていた。

 男――スッラが自分を押さえ付けていた誰かを蹴り飛ばしたのだと、ウォルターは遅まきながら理解する。

 理解、して。目の前にスッラがいるならば、先程の「彼」は何だと思った。見間違い、だろうか。否、しかし。あれは、あの目は顔は、随分スッラに似ていた。

 誰か、を蹴り飛ばして両の足を地に着けた格好のまま、向こう側の壁を睨んでいたスッラは、動く気配がないと判じると、少しだけ緊張の空気を緩めた。

 「大丈夫か」

 「ウォルター! 大丈夫かい? 何が起きた……!?」

 スッラとカーラが肩を支える。喉の違和感に、更に数度咳き込んだウォルターは、分からない、と掠れた声で言った。

 「分からない、が……、あいつ、は、まさか……いや、だが、そんなこと」

 「……? 何か見たのかい?」

 カーラがウォルターの顔を覗き込む。ウォルターは少し躊躇するような素振りを見せて、けれど口を開いた。

 「スッラがいた」

 その言葉に、カーラは怪訝な顔をする。

 「そりゃ、いるだろう。今日のあんたの護衛役なんだから」

 「違う。こいつではない。……昔のスッラだ」

 「昔の……って、なんだい、それ。こいつが増えたって言うのかい」

 「……見たのだから仕方ないだろう」

 なんとなく、カーラが嫌そうな顔をした。スッラは鼻を鳴らした。たぶん、カーラの反応云々ではなく、事態に対する懸念や不満を表すものだ。ふたりの様子にウォルターは肩を竦める。

 そんな会話をしているうちに、ようやく煙っていた室内が落ち着いてくる。そして、元より劣化によりあった罅や欠けを広げて、壁に叩き付けられたそのまま床に座り込んだ体勢で動かない人影が見えてくる。それは――まだ確定したわけではないけれど――やはりスッラによく似ていた。

 一先ず、同じ建物の別の部屋へ移動する。カーラの作業鞄に入っていた結束バンドで青年の親指を括り一人掛けのソファに放る。自分たちもソファへ腰を下ろして、大きく溜め息を吐いた。

 室内の機材が前触れ無く爆発した。カーラもウォルターも書類を漁っていたから、少なくとも直に触れていないのは確かだ。

 特にカーラへ胡乱な眼を向けるスッラへの説明と、状況を整理するために経緯を振り返る。

 「ただ機材が爆発しただけで過去の人間?が現れるものか」

 スッラが鼻筋に皺を寄せる。機械が爆発して過去の人間が現れるなど、確かに非現実的だ。カーラだって、現状には困惑していた。投げられる皮肉な物言いにもさして反応せずに、口元を手のひらで覆って組んだ足に肘をつく。

 「だが見てくれはそっくりじゃあないか? 本人から「誰」なのかを聞ければ一番だが」

 三人の視線が青年に向けられる。世界にはよく似た人間が三人はいると言う。この青年が、転送装置か何かで飛ばされてきた赤の他人であればどれほど良かっただろう。

 痺れを切らしたのはスッラだった。おもむろに立ち上がると、一人掛けソファの前に立つ。

 「な、何をするつもりだ」

 ウォルターが訊いた。声にふるえが浮かんだのは、偶然や事故ではなかった。

 「決まっている。こいつを叩き起こしてどこの誰なのかを吐かせる」

 「やめろ、殺す気か」

 既に強化人間の膂力に曝されているのだ、追い打ちがトドメになってしまう可能性は大いにある。むしろ指の骨を鳴らしながら立つ姿はトドメを刺そうとしているように見えた。

 「……俺が起こす」

 「無茶を言いでないよ」

 「やめておけ」

 提案に、年上二人が揃って間髪入れずに異を唱える。その速さと物言いに、一瞬呆気に取られたウォルターは、それからムッと唇を尖らせた。

 「随分侮られたものだな」

 「悪いね、少年。だがあんた侮ってるわけじゃない。分かっておくれ」

 言いながらカーラはウォルターの頭を撫で、流れるようにウォルターをソファへ座らせる。スッラを押し退けて、青年の前に立った。

 「私が起こしてやろうじゃないか。かよわい乙女さ。そこの傭兵よかマシだろう?」

 冗談まじりの言葉を「は!」とスッラが笑い飛ばす。カーラは「傭兵」に一瞥も向けなかった。

 ウォルターは、まあ確かに……なんて口の中で呟きながら浮かしかけていた腰を落ち着ける。それを見たカーラが緩やかに頷いて、青年に向き直る。さて、と気合いを入れる声。

 を、聞いて、ウォルターはふと気付いてしまった。そう言えばカーラも、強化手術やそれに類する手術を受けているのではないか? と。

 パァン! と小気味良い音が響いた。青年の頭がガクンと揺れる。思わず、ウォルターが口許へ手を遣った。

 「もう一発いっとくか」

 手をひらひらさせてカーラが言う。声が楽しそうに聞こえたのは、おそらく聞き間違いではない。

 「ま、待て。目的はあくまで「起こす」ことだ。記憶を飛ばすことじゃない」

 何故か今度は拳を作っていたカーラをウォルターが止める。助けを求めるようにスッラを見るも、当の傭兵は冷めた眼で過去の自分と思しき青年を見下ろしていた。「自分」ではないからどうでもいいとか、そんなところだろうか。

 とかく、やる気満々なカーラをウォルターが止めてやいのやいのと話していた時である。青年が、呻き声を上げながら肩を揺らした。

 おや、と誰からともなく声が上がった。

 「ぐ……う……ここ、は……?」

 括られた手で頭を押さえながら青年が顔を上げる。その顔は声は、スッラによく似ていた。

 ウォルターがその名を呼ぶ――よりも早く、ぼすん、と埃っぽい音がする。スッラが青年の肩を踏んでソファへ押し付けていた。

 「お前はどこの誰だ。なぜここにいる?」

 青年に向けられたのは冷たい声と眼だった。ウォルターが微かに息を呑む。

 対して、スッラを見上げる青年の目は丸い。無理もないだろう。自分とよく似た顔、声。けれど殺気も重圧も研ぎ澄まされたものを向けてくる男が目の前にいるのだ。動揺するなと言う方が難しいだろう。

 だが――。

 「……お前こそ誰だ。なぜ私と同じ気配をさせている。おかげで攻撃を避け損ねたが」

 青年は一拍の後に不敵な表情を浮かべてみせた。皮肉げに上げられた口端と鈍く輝く眼光は、肩を踏まれているとは思えないものだ。

 カーラとウォルターは目配せした。同じ気配をしているから避け損ねた。嘘や見栄とは思えないその言葉に、いよいよ青年の正体に確信を持ち始める。

 「っ! ぅ、ぐっ……!」

 だがスッラは、何が気に入らないのか、肩に置いた足へ更に体重をかけているようだった。ミシ、と骨の軋むような音を青年は聞く。

 「“答えろ”。お前は、どこの誰だ」

 「――!」

 スッラの言葉と、ほとんど同時に、ばきりと嫌な音がした。青年が息を詰める。しかしスッラは構うことなく、足を青年の肩に置き続けた。

 「……待て。もういい。俺が調べる」

 二人の様子を見かねたようにウォルターが声を上げた。一瞬、肩にかかる重みが軽くなる。

 「ほう? どうするつもりだ? こいつは名乗る気など更々無いようだが」

 「つまり「どこの誰か」分かれば良いのだろう? 自己申告以外にも、知る方法はある」

 言いながらウォルターは青年の服――ポケットらしき部分を探り始める。その目的を察して、スッラは「ふん」と鼻を鳴らした。

 「……あった」

 ややあって、青年の上着のポケットからウォルターが何かを引っ張り出す。それは現代のものより幾分武骨な端末だった。

 「お前っ! 何をする! やめ――ぐぅっ!」

 青年が、ウォルターの手に収まった端末を取り返そうと身体を起こそうとする。けれどスッラに呆気なく踏み倒され背中をソファに預けることになった。そんな青年を、申し訳なさそうな眼でウォルターが一瞥した。

 ウォルターは青年の端末と自分の端末を有線で繋ぐ。カーラに任せても良かったのだろうが、成り行きを楽しそうに眺めている姿に少し不安が過ったのだ。

 「――ルキウス」

 そして、端末のロックやパスワードを解除して、パーソナルデータまで辿り着いたウォルターが、その名前を呼んだ。

 ルキウス。

 憶えのある名前だ。

 当然だろう。その名前は、あの技研都市のラボで見たのだから。強化人間となる予定の“被験者”たちのリストで。

 それは、後に「スッラ」と再ラベリングされることになる被験者の名前だった。

 もちろん、少なくはない数の被験者たちと交流していた少年は「ルキウス」とも交流があった。

 「傭兵ルキウス。活動履歴はルビコン周辺。それがお前の正体か。……足を退けてやれ。知りたい情報は手に入れた」

 あくまで「初めて知った」ようにウォルターは手に入れた情報を読み上げる。答え合わせだった。

 スッラがやはり冷めた表情のまま青年――ルキウスの肩から足を退かす。警戒、と言うよりも敵意をまだ納めていないように見えるのは、気のせいではないだろう。

 「クソッ……」

 悔しげに吐き捨てるルキウスは珍しい姿だ。けれど、それを揶揄する者はいなかった。それまで楽しそうに三人を眺めていたカーラが、その笑みを消していたのだ。

 「……ルキウス。ここがどこだか分かるか?」

 「知るわけがない。どこもかしこも似たような造りと風景ばかりだ」

 「そうかもしれんな。では技研都市と言う名前は知っているか?」

 「名前はな。ルビコンⅢにある研究都市だろう?」

 「……それだけか」

 「それ以外に何がある。傭兵が研究都市に入り浸る理由など無いだろう」

 カーラの変化に気付かないウォルターはもう少し話を試みた。そしてその内容を聞いて、カーラは笑みを消すどころか眉をひそめていた。

 ――まさかこの傭兵は少年(ウォルター)と知り合う前の傭兵なのだろうか。いやだが当時チラりと見た被験者データには、このくらいの見てくれで載っていたしラボで見かけもした。それなのに、年を重ねているとはいえ、あの傭兵が少年(ウォルター)に反応しない? つまり、ウォルターを知らない、とでも言うのだろうか。

 「ところで今はいつだ?」

 ダメ押しとばかりにウォルターが訊く。その問いに、渋々と言った様子でルキウスから返ってきたのは、やはり半世紀以上も前の日付だった。当然、俺たちのとは違うな、と言われ自分のものではない端末を見せられたルキウスは、そこに映る遥か未来の数字に目を丸くした。星間航行をしていたわけでもなし、これほどの時間の解離など、通常あることではない。互いが過去と未来の存在だと、認めざるを得なかった。

 「……私はこうなった原因と解決策を探る。こいつはそっちで預かっといてくれ」

 カーラが難しい顔をして言う。スッラは嫌そうな顔をしたけれど、ウォルターは「分かった」とあっさり頷いた。

 「お前。分かっているのか。こいつはお前を、」

 「分かっている。だが“傭兵ならば”普通の反応だろう? それにこいつは肩が使えない。滅多なことにはならないだろう。何より、お前がいる」

 「……ハァ。仕方ないな」

 二人のやり取りに、カーラは薄笑いを浮かべる。本当に、隙あらばこの二人はイチャつこうとする。

 やり取りを「は!」と笑い飛ばしたのはルキウスだった。特にスッラを見て嗤っていた。

 「随分信用されているようだな。大口のクライアントか? 私に遅れを取ったくせに」

 瞬間、スッラの纏う空気が凍った。それでカーラは、スッラのルキウスに対する警戒の程度を理解したのだ。ああ若かりし傭兵。あんたは“まだ”知らないだろうが、そいつはクライアントなんかじゃあない。

 「止めな。もう片方の肩か、足も使えなくなりたいのかい。どうせあんたに行くアテなんて無いんだ、大人しくしときな」

 カーラが割って入ったことでスッラの空気が若干和らぐ。しかし未だ不満げな様子のままであるのは、わざわざ踏み砕いた方の肩近くを掴んでルキウスを立たせたことから明らかだった。

 建物の外に出る。技研都市は“相変わらず晴れていた”。瓦礫にまみれた廃墟の街を前にして、ルキウスが目を丸くする。目の前に広がった世界には、人の生きている気配が欠片も無かったのだ。

 スッラとウォルターは、一先ず隠れ家のひとつへ行くことにした。ふたりがいつも使っている場所は、特にルキウスを伴うと言う点についてスッラが嫌がったし、ウォルターの住処には猟犬たちがいて騒ぎは免れないからだ。カーラは一旦拠点に戻ってから、この建物に泊まり込みに来る予定だと言う。

 別れ際、カーラがウォルターに耳打ちする。

 「アレがあいつの昔の姿をしているとしても、だ。アレがあいつの過去であると決めつけてかかるのはオススメしないよ、ウォルター」

 「……? つまり……、だがあいつはスッラだろう?」

 「アレが今ここにいるあいつの過去とは限らないってことさ。思い出してみな。あいつがラボに、あんた目当てに入り浸ってたのはあのくらいの歳だっただろ? なのにアレはあんたを知らないどころか、技研都市の、強化手術のことも知らないようだった」

 「それは……これから、知るのかもしれないだろう」

 「もちろん、その可能性も十分ある。だが、何にせよ用心はしな。アレはあいつじゃない。噛み付かれないように、気を付けるんだよ」

 本来、独立傭兵は荒事のプロだ。基本的に“自分に”従い仕事をする。

 621だって、結局そうしたではないか。使命を果たそうとするウォルターの手を離れて、この――あり得るわけがない――大団円に限りなく近い事態を引き寄せた。人生の半分以上を「そう」して生きている「スッラ」が、そうでないわけがない。むしろ「スッラ」こそ「独立傭兵」なのだろう。

 何故か飽きもせず自分に構う男が、そもそもどういう男なのかを思い返してウォルターは足元を見た。爪先と、杖の先が砂利を踏んでいた。

 するりと腰に何かが巻き付く感覚がする。ハッとして顔を上げると、隣にスッラが立っていた。

 相変わらず引き結ばれた口端は不機嫌そうだ。けれど腰を支える手は力強く温かい。とんとん、と軽く叩かれた腰に、ほんのりと体温が残る。そうしてスッラは離れていった。瓦礫の上で街を見ているルキウスへ歩いていき、背中を蹴り飛ばす。親指を括られたままのルキウスがつんのめり、しかし何とか踏み留まってスッラに文句を言い始めた。

 「……地獄耳め」

 カーラが呟く。

 「まあ、あいつがいるし、滅多なことにはならないだろうけど、気を付けるんだよ」

 仕切り直すように改めて言って、カーラはウォルターの肩をポンと叩いた。

 ふたりの隠れ家――住処として使えそうな建物や部屋を勝手に整えているだけだが――の中でも、比較的広い場所が選ばれた。一人に一つ、部屋がある。修理した発電機もあるから生体情報によるドアロックも監視カメラも機能する。ルキウスを保護、観察するにはうってつけだ。

 リビングのソファに座らせたルキウスの肩の手当てをしながら、ウォルターは個人の部屋以外は自由に使っていいと説明する。本当は医療機関に診せた方が良いのだろうが、まだ不安定でもあるルビコンに不安の種を蒔きたくはなかった。痛み止めや抗生剤なんかを打ってしっかり腕と肩を固定してやる。ギ、と締められる布にルキウスは顔をしかめた。

 その時、ちょうどスッラは席を外していた。食料の調達だ。ルキウスと二人きり、ウォルターを残していくことを大層渋っていたけれど、相手は負傷しているし何よりお前にしかできないと言われてしまえば一人隠れ家を出るしかなかったのだ。

 「そう言えば、お前の名は?」

 ルキウスが、手当てのために広げた道具を片付けるウォルターをソファの上から見下ろしながら聞いた。確かに名乗っていなかった気がする、とウォルターは思いながらソファの上へ眼を遣る。

 「俺はウォルターと言う。ちなみにもう一人はスッラだ」

 ウォルター、と口の中で名前を転がす。さして珍しくもない、ありふれた名前だ。

 「そうか。お前はあいつのクライアント(依頼人)か?」

 「……まあ、似たようなものだろう」

 その答えを聞いて、ルキウスはニィと唇を三日月のかたちに歪めた。

 じわりと殺気が滲み出て、ルキウスの手がウォルターの首元へと伸ばされる。ルキウスの動きをぼんやりと眺めながら、ウォルターは「ああ、」と思った。

 「――呆れるほどに愚かだな、若僧」

 ルキウスの指先がウォルターの肌に触れる直前、嘲笑う声が降った。

 「!」

 ごり、とルキウスのこめかみに銃口が押し付けられている。それを辿れば、そこには缶詰やらパンやらが顔を覗かせる紙袋を片手に抱えたスッラが立っていた。

 「……そんなにこの男が大事か?」

 「そうだな。死なれては困る」

 赤と灰の眼が睨み合う。皮肉げに片方の口端を上げる嗤い方はよく似ていた。

 先に眼を逸らしたのはルキウスだった。興醒めだとでも言いたげに溜め息を吐いて、背もたれに背を預け直す。

 「……使い走りのようなことをさせて悪いな」

 銃をしまって、スッラは片付けた救急箱を手に立ち上がろうとするウォルターを支えてやる。眉が、力なく下がっていた。

 救急箱をしまいに行こうとするウォルターをキッチンへ引きずり込む。

 適当な場所に紙袋を置いて、スッラはウォルターの頬へ手を添えた。

 「怪我は。触れられた場所はあるか」

 「無い。大丈夫だ。……俺は、大丈夫だ」

 言いながら、うつむき目を伏せる。スッラは内心思い切り舌打ちをした。やはり一人にしなければよかった。

 「“私が”お前に手を伸ばすのは触れるときだけだ」

 「大丈夫だ。大丈夫、だから」

 スッラがウォルターに殺気を向けたことはない。戦場で出会ったわけではないし、直接得物をぶつけ合う立場でもないし――戦場で相見える頃にはスッラはウォルターを「いとしいもの」として見ていた。だから、スッラがウォルターに殺気を向けたことはないのだ。

 それなのにあいつは。

 叶うことならすぐにでも息の根を止めてやりたい。が、過去の人間を殺せば現世にどんな影響があるか分からない。対象が今に連ならない過去の存在だとしてもだ。何より、誰かの命を奪うことを、ウォルターは嫌がる。

 リビングの方からテレビの音が聞こえてくる。復興中で、娯楽よりも報道の方が数も枠も多い。案の定、チャンネルを切り替える様子がぶつ切りの音として聞こえてくる。

 意識がこちらに向いていないのは好都合だ。スッラはウォルターの目元や額に唇を落とす。

 三人の共同生活は、それなりに平穏だった。

 スッラとウォルターの関係を、ルキウスは「雇われた傭兵と雇った依頼人で、今は自分と言う異物の監視と秘密保持のために相互監視として行動を共にしている」と認識しているようだった。ウォルターを害そうとすることも、あれから無い。二人とは少し距離を持って、ルキウスは大人しくしていた。

 「そもそも、なぜあいつを殺そうとした」

 スッラがルキウスに訊いたのは、ウォルターが席を外している時だった。

 カタログを見ていたルキウスは目の前の男をチラと一瞥してつまらなさそうに答える。

 「目が気に入らん。あんな柔らかな目で見られる筋合いは、私にはない」

 接触当初からスッラはルキウスを「自分の過去」だとは特に思わなかったけれど、ウォルターはそうはいかなかったらしい。無理もない、と言えば無理もないことだろう。声や外見は確かに「似てはいる」のだ。スッラとルキウスを重ねても、仕方ない。そしてそれが、重ねられた者の神経をチクチクとつついただろうことも。

 鼻筋に皺を寄せるスッラの耳に、不快な嗤い声が聞こえた。クク、と喉奥で笑う、湿っぽい笑声。

 「ところでお前は、“そんな”状態で仕事ができているのか? まさか小間使いのような仕事ばかりしているとは言わないだろうな」

 ルキウスの眼はスッラの左手に向けられていた。薬指にはまる、銀色の輪を見ている。

 まあ、そうなるだろうな、とは思った。薬指に指輪をはめている独立傭兵など、滅多に見ない。

 「結婚だか婚約だか知らないが、独立傭兵が“”束縛”されることを選ぶとはな。それも私に“似た”男が。どんな奴なんだ? お前から自由を奪ったのは」

 実に愉しそうだ。獲物を追い詰め、いたぶり、絞め殺そうとする蛇のような。

 だが相手が悪い。悪すぎる。潜ってきた死線も修羅場も桁が違うのだ。

 スッラは凪いだ眼でルキウスを見返す。歯牙にもかけていない様だ。

 「心配には及ばん。お前に特定できるとも思えんが……妙な気は起こすなよ。そうなった時は、今度こそ命は無いと思え」

 スッラの声は凪いでいた。「そう」なった時、スッラはルキウスを、ちり紙を捨てるような気軽さと無感動さで殺すだろうと確信させる声だった。

 ルキウスは眉をひそめ口角を下げる。自分がスッラに敵わないことは、不本意ながら今までの接触で解ってしまっていることだった。

 「?」

 ウォルターが戻ってくる。片手で持った盆にはマグカップみっつと小瓶がふたつ載っていた。

 「無理をするな。呼べ。落としたらどうする」

 もはやルキウスに用も興味も無いとばかりに立ち上がったスッラがウォルターから盆を取り上げる。香ばしいコーヒーのにおいが揺れる。

 独立傭兵と依頼人らしからぬ、「普通の」日常を見せられてルキウスは鼻を鳴らした。なんて生ぬるい風景だろう。自分には、ふさわしくない。目の前にマグが置かれて、いい匂いが近くなってもすぐには手を伸ばさない。……別に、飲みたいとか、頼んでいないし。

 時々スッラは家を空けた。仕事らしい。ウォルターも時々家を空けるけれど、本当に時々だ。曰く、事務処理は大体どこでもできるから、らしい。隠れ家にはスッラとウォルターのどちらかが必ずいた。それが抜け目なくルキウスを監視するためであることなど、すぐに理解できた。

 更に数日経つと、ルキウスも慣れたのかウォルターの出したものを素直に受け取るようになっていた。相変わらず、スッラとは反りが合わないらしい。

 今ではもう、簡単な食事の支度もするようになって、仕事に没頭しがちなウォルターを現実に引き戻すようにもなっていた。

 「……もうこんな時間か」

 「その仕事とやらは、お前がしなければならないのか? あの女とか、他にいないのか」

 ルキウスの言葉にウォルターは微かに目を見開いた。その仕事はお前がしなければならないのか。昔、スッラに言われたものとよく似ている。

 「皆、自分にできることをしている。俺も、そうしているだけだ」

 ウォルターの声は柔らかだった。裏社会の人間とは思えない。

 否。そもそも裏社会の人間なのかどうか、ルキウスは知らない。独立傭兵を雇っている――らしい――からそうだと思ったが、それにしては善性が強すぎる。自分の端末はネットが使えないし、与えられた玩具のような端末で「ウォルター」を調べてみても出てくるのは「ハンドラー・ウォルター」と言う、よく似た名前の別人と思われる存在ばかり。

 一体こいつは何者なんだ。

 「……ルキウス。過去に戻って、もしも俺と出会っても、俺とは関わらないでくれ」

 思考を断ち切ったのはウォルターの言葉だった。穏やかな声で、何をか囀ずっている。

 「はあ?」と訝しむルキウスに、ウォルターは続ける。

 「俺と出会えば、おそらくお前は命を危険に晒す。独立傭兵はただでさえ危険な仕事だ。必要以上に傷付かないでくれ」

 そんな、ことを――言われたのは、初めてだった。

 誰かに心配されるのも、無事を望まれるのも。

 ぐ、とルキウスは奥歯を噛む。自分が、そんなぬるま湯に、浸れるわけがない。“あの傭兵でもあるまいに”。

 「……随分、私の人生を狂わせる自信があるんだな?」

 ここしばらく鳴りを潜めていた、棘のある声だった。

 「私は、私の意思で誰と関わるか決める。私の好きなように人生を使う。思い上がるな。私は何人にも私を縛らせない」

 獣が牙を剥き唸り声を上げているようだった。鼻筋に皺を寄せたルキウスは、真正面からウォルターを睨んでいた。

 けれどウォルターは、それを真正面から受け止めて、困ったような表情を浮かべるばかりだった。

 「……そう、だな。悪かった」

 カーラから連絡が来たのは、更に数日後のことだった。前例の無い異常事態に対する対応としては早すぎるくらいだろう。

 「何とかなりそうか」

 『元の世界に送り返すことはできそうだ。星間航行技術が元になってて助かったよ。エネルギーはコーラルを使うってのが、気が進まないが……まあ、使う量が微々たるものなのが救いかね』

 「そうか、助かる。……悪いな、任せきりにして。本来なら俺も協力すべきだったのだろうが……」

 『気にするんじゃないよ。あんたは私がこっちにかかりきりになってる間、私の分まで復興の方の仕事を捌いてくれてるだろう』

 「だが……」

 『ハイハイ。それなら後で何か奢って貰おうかね。……これは私たちには関係の無いことだが、一応あんたには伝えておこう。おそらく、元の世界に戻ったら、アレ……ルキウスのここでの記憶は失われる。タイムトラベルなんて未だに開発研究途中の超技術だからね、確立されてないものが生む負荷はそれだけ大きい。往復して、身体に何の影響も出ないなんてことは無いだろう』

 命は保証されている辺り、さすが技研とでも言うべきだろうか。

 だがきっと、未来での記憶など無い方が良いだろう。そもそも、ルキウスが元の世界でウォルターと出会うかも分からないのだ。

 「……分かった。いつ頃そちらに行けばいい」

 『目処が立ち次第、追って連絡するよ。三日以内には何とかなるだろ』

 頼もしい言葉を最後に、カーラとの通信は切れた。

 この生活も、もう少しで終わりか。

 どこか寂しさを感じながら部屋を出ると、目の前にルキウスがいた。

 「どうした? 何か欲しいものでもあったか?」

 隠れ家の周辺は、スッラかウォルターどちらかの付き添いがあれば出歩けるけれど、それだけであり、半ば軟禁状態であるルキウスは、自分で買い物に行けない代わりに欲しいものや必要なものを、主にウォルターに調達を頼んでいた。

 今回も、それだろう、と。

 だがウォルターの予想は外れた。

 「私は、お前のことを忘れるのか」

 「……聞いていたのか」

 ルキウスがウォルターとの距離を詰める。背中が、閉じたばかりの扉に触れた。

 「あと数日で元の世界に帰れる。もう少しだけ辛抱してくれ」

 自分にかかる影から逃げるようにウォルターは目を伏せる。ルキウスの言葉を、意図的に受け流していた。

 「ウォルター」

 ルキウスが、自分から眼を逸らす男の名を呼んだ。

 この短期間で、ルキウスはウォルターがどういう人間なのか、薄らと知った。そして、少なからず惹かれていた。それがどういう好意からのものなのか、ルキウス自身にも分からないけれど、ウォルターのことを多少は、気に入って“しまった”のだ。悔しいけれど、スッラがウォルターに雇われている理由が、何となく分かってしまった。

 「忘れたくない」

 「と、言われてもな……」

 こればかりはどうしようもない。

 「こちらからは「ならば忘れないでくれ」としか言ってやれん」

 ルキウスがウォルターの肩に頭を乗せる。

 ウォルターとしてはむしろ「忘れてくれ」と思っている節があった。何もかも忘れた方が、「世界」にとっては健全だろう。ルキウスが、技研にもウォルターにも出会わずに済むかもしれない。けれどきっとこれらを素直に伝えればルキウスは拗ねるだろうから、ウォルターはやんわりとした同意だけをする。

 「……お前への手がかりを、少しでも持っておきたい」

 「――、」

 そう思っていたのに。

 ひゅ、とウォルターが息を飲んだ。

 なんてことだ。この青年は、“帰ったら”ウォルターを探す気なのだ。ウォルターを探して、出会って、そして、その後は? おそらく強化手術を受けようとするだろう。

 多くの独立傭兵にとって、ACとの接続とそれによる操縦技術の向上、身体の強化は、命や時間や財産をかけてでも手に入れたいものだ。そして、“昔の”ウォルターはそれらを提供できうる組織の中にいる。ルキウスは、ウォルターと出会おうとするために、技研の狂気に巻き込まれる。

 ――自分(ウォルター)のせいで。

 「おそらく、お前は私にとって重要な「何か」だ。だから、私は“私のウォルター”に会って確かめなければならない」

 「そ、んな……ことは、ない。俺は、誰かの「重要」なんかに、なりはしない」

 だから、だからどうか関わらないでくれ。俺はこれ以上お前の人生を奪いたくない。

 「……きっと迎えに行く。待っていろ」

 芯のある声が耳に残る。

 直後、ルキウスがするりと離れていった。リビングへ向かう背中はいつも通りだ。扉の閉じる微かな音が玄関の方から聞こえて、スッラの帰宅を告げる。

 いま、自分はどんな顔をしているだろう。赤くなっているか青ざめているか――どちらにせよ、揃ってリビングに居ればスッラはルキウスを疑うだろう。ウォルターは後ろ手にドアノブを掴み、ふらふらと部屋へ後退る。スッラが呼びに来るまでには、落ち着いて、いつも通りの顔をして、部屋を出なければ。

 まずは深呼吸をする。

 翌日の、日付が変わる頃にカーラから件について連絡が来た。やはり仕事が早い。カーラと三人は、日が昇ってから合流することとなった。

 出会った場所が別れの場所となるようだった。

 事の発端となったらしい機械の周りに、カーラが持ち込んだと見える、比較的新しそうな機械が置かれている。三人を「ようこそ」と笑って出迎えたカーラは、目の下に隈を作りつつも楽しそうだった。ウォルターが呆れたように小さく溜め息を吐く。

 「時間ぴったり欠員なし。良いね。それじゃ早速始めよう」

 ちょいちょい、とルキウスがカーラに手招かれる。スッラとウォルターの横を通り抜ける青年は、二人を横目で見ることもなかった。

 「別れの言葉はよかったかい? 間違いなく今生の別れだよ」

 指示通りの位置に立ったルキウスに、カーラが訊く。ルキウスは「別に」と言いかけて、何かを思い付いた――あるいは思い出した――ように、ニヤリと口角を上げた。

 灰色の瞳が、ウォルターを写す。

 「今度は私が抱いてやろう。日が昇っても部屋から出られぬ程度にな」

 「――、」

 「……」

 ルキウスの言葉に、ウォルターの顔がぶわりと赤くなる。すっかり治った肩を回して、ルキウスがヒラヒラと手を振っていた。スッラは感情の抜け落ちた顔でルキウスをぶん殴ろうと一歩踏み出した。

 「あっはっはっ! こいつは笑えるね! そんじゃ若人よ、良い旅を!」

 「ま、待てスッラ! 危ない!」

 「チッ」

 カーラが機械を作動させる直前、スッラをウォルターが引き留める。一瞬にしてルキウスが光に包まれて見えなくなった。

 旅立ちと別れは一瞬だった。後には何も残っていない。

 カーラ曰く、装置が必要とするエネルギーは大半が電力なのだと言う。コーラルは、情報――時間や空間と言った、座標に類するもの――の照合のための伝導体として用いられている、と。もちろん、コーラルを使っている以上、動力としても多少コーラルを使ってはいるが、技研の開発した他の品々と比べれば微々たるものだ。

 「さ――これで少なくとも私たちとしては一件落着だ。あんたたちもご苦労さん。今日は大人しく休みな」

 「……無事着いただろうか」

 「まあ大丈夫だろう。こっちに来た時みたく発生するだろう爆風に吹っ飛ばされて頭をぶつけてたりはするかもしれないが」

 カーラが歌うように語る横で、スッラはもはや興味を無くしたようにウォルターを部屋の外へ連れ出そうとしていた。

 片付けのために戻った隠れ家は静かだった。

 元より二人は騒がない性質であるし、そもそも今の技研都市自体が静けさに包まれている。

 互いに何も言わず、手を引いたまま引かれるまま、リビングへ向かう。ぴちょん、とシンクに水滴の落ちる音が響いた。

 導かれるまま、ウォルターはソファに身体を預ける。覗き込んでくるスッラの顔は、翳っていた。

 「……」

 「ん……、ん、」

 触れるだけのキスが重ねられる。額、目元、頬、鼻の頭、くちびる。ウォルターは何とかキスを返そうとするけれど、くちびるの重なった時にそれを追いかけるのがやっとだった。

 キスの雨は何度目かの額で止まった。

 「……悪かった。だが“私”は、お前を傷付けようなどとは思っていない。今も昔も、決して」

 それは懺悔だった。

 自分ではない自分だとしても、スッラは自分がウォルターを傷付けたことが許せなかった。

 「……いい。大丈夫だ。気にしていない。あれは“お前”じゃない。そうだろう?」

 叱られた犬のような様を見せるスッラの背をウォルターは撫でる。

 ルキウスに殺されかけた時や殺気を向けられた時、ショックを受けなかったと言えば嘘になる。けれど、その度にスッラは怒ってくれたし守ってくれた。ウォルターはそれで十分だった。

 ゆるりと目蓋を閉じながら、ウォルターは頬に添えられた手に手を重ねる。薬指にはめられた指輪が、グローブに隔たれながらも確かに重なり合った。




幕間

 「……」

 朝、ウォルターと顔を合わせた時、その様子が酷く色めいて見えた。当人は至って普段通りに振る舞っているが、間違いなく誰かと「夜」を過ごした姿だった。

 ルキウスは同居人の予定を知らない。興味が無いからだ。だから二人がいつ外に出ているのか、部屋に籠っているのか、知らないことの方が多い。

 別に潔癖なわけではないし、誰が誰と寝ようが知ったことではないけれど、ルキウスはウォルターが夜のにおいを纏って自分の前にいることが、何故だか不快に感じた。

 「ああ。お早うルキウス」

 ルキウスの心情など露知らず、ウォルターは呑気に挨拶なんてしてくる。

 「……あいつには会ったか」

 「あいつ? ……スッラのことか? いや、今朝はまだ“見ていない”な。珍しいこともある」

 「そうか。会わない方が良いんじゃないか」

 ルキウスの言葉に、ウォルターは驚いた顔をした。やはり自分の状態を理解していないらしい。

 「なぜ」

 「……不快だ。そんな気の抜けた姿でうろつくな」

 眉間に皺を寄せてルキウスは吐き捨てる。そしてウォルターが引き留める間もなく自分の部屋へと引っ込んでいく。後には、状況のよく呑み込めないウォルターが残された。

 ややあって、リビングの方からスッラがやってくる。ウォルターを見とめると、その歩幅は少し大きくなった。

 「……スッラ、訊いてもいいか」

 スッラが傍に来ると、ウォルターは小首を傾げて口を開いた。スッラはごく自然にウォルターへ腕を貸してリビングへの道を支えながら「なんだ」と続きを促す。

 「俺は今間抜けな格好をしているか?」

 訊かれたスッラは実に不思議そうな顔をした。

 「別に、いつも通りだろう」

 昨夜から今朝まで、いつも通りだ。呼びに行く前に部屋を出てきたのはいつもと違うところだが、これは――誠に不本意であるがウォルターに要らぬ労力をかけさせないためだ――ルキウスの朝食も用意していて時間がかかってしまったからだ。

 部屋着のラウンドネックから覗く赤い痕も、特に指摘してやることなくスッラはウォルターを食卓へエスコートする。

 その時ウォルターは、当然ながら普段しているグローブを着けていなかった。そのことにルキウスは気付いていなかっただろうし――ウォルターの左手も、見てはいなかっただろう。

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