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【R18】Error File

チャプター4後、再教育センターやらファクトリーやらに送られるハンドラー・ウォルターの話。えっちな話ではない。暴力・流血・四肢欠損の描写、死ネタ有り。おそらく21ウォル。

お題は「エナメル」様から。ありがとうございます。

暴力・流血・四肢欠損の各描写、死ネタ有り。

だいたい捏造と妄想(いつもの)

全体的にモブが出張る。

気を付けてね。

---

見ない言わない知らせない

 ヴェスパー部隊から、この再教育センターへ移送されてくる荷物がひとつあると言う。

 なんでも「それ」はひどく活きが良いのだとか。実働部隊からそんなことを言われるとは、随分と反抗的な収容対象なのだろう。気が滅入る。私たちは荒事に向いた人間ではないのだ。だからこの「センター」にいると言うのに。

 もちろん、今までにも「元気な」収容対象は数多く送られてきた。だがそれはほとんどが前線で捕虜となった、謂わば戦闘員たちだった。それなのに今回は「オペレータ」だと言う。実働部隊を手こずらせる「オペレータ」など、ふざけないで欲しい。古い物語の中には「元パイロットのオペレータ」だとか「実はパイロットもできるオペレータ」だとかが登場するが、純然たるオペレータが武闘派であってたまるか。ここは現実だぞ。先んじて送られてきた資料に「杖は押収済み」の一文があったことも信じられない。杖を必要とするような状態のオペレータが、実働部隊の手を焼かせたなど。まったく、どんな野蛮人が送られてくるのだろうか。

 数時間後。

 果たしてその「荷物」はやって来た。胃が痛い。私たちで御することができるだろうか。いや、せねばならない。

 バラバラと職員の身だしなみや砂利や埃を散らかしながら輸送ヘリが着陸する。そしてヘリの貨物室の扉が開き――椅子に四肢を括り付けられた、今回の収容対象が現れた。ご丁寧に目隠しと猿轡までされている。布に隠れていない肌には擦過傷や打撲傷、内出血が見てとれる。随分仲良くしてもらったらしい。

 「移送対象到着」

 「到着確認」

 実物と書面のモノが相違無いか確認し、受け渡しの書類に署名する。ああこれでこの荷物はうちの預かりだ。

 「湿気たツラしてんな。やるこたァ同じだろ?」

 溜め息を吐いたせいか、受け渡し係の隊員が笑った。厄ネタがすぐに手を離れる奴らは気楽で良い。お前たちが楽しく元気に捕まえてきた獣どもを、実用に耐え得るペットにしているのは私たちなんだぞ。

 「実働部隊を煩わせるオペレータなど初めてなものでね。気が重い」

 「ああ、そういうことか。まぁ大丈夫だろ。現地で大人しくさせてるし、薬も打ってある。あんたたちに噛み付く元気は残ってないはずだぜ、さすがに」

 「だと良いがね。それで、薬の最終投与はいつだ……?」

 手元の書類に目を落とす。目の前の隊員は「一時間くらい前か?」なんて言っているが果たして。

 「ふむ。一時間程前か。早く部屋へ運んだ方が良いな。処置は早い方が良いのだろう?」

 「だから言ったろ、一時間くらい前って。処置? あー、うん。早ければ早い方が良いって言ってた気がするな、偉い人」

 緊張感のない。ほんとうに、いい気なものだ。何度目か分からない溜め息が漏れる。それをまた隊員が笑って――嫌なループに入った。

 いい加減嫌になった私は、手持ち無沙汰にヘリや荷物の周りに立っていた隊員や同僚に搬入の指示を出す。

 さて、仕事の時間だ。

 センターの中でも「個室」と呼ばれる部屋へそれは運び込まれた。通常の「教室」では間に合わないだろうとの判断からだ。他の個室よりも広さのある、「参観」可能な個室の中央にポツリと置かれたそれを、改めて観る。

 成人男性。60代くらいだろうか。杖をついていたと言う。目隠しの下、目蓋は閉じられている。薬が効いているのか、ぐったりと上体が前傾している。衣服はそれなりの質だと思われるが、実働部隊と争ったせいかボロボロになっている。青アザ。血痕。打撲傷。擦過傷。捕縛現場はさぞ見物だった事だろう。拘束椅子に括り付けられた肢体に右腕は無い。書類によると義手であったらしい。取り上げて、再利用に回したのか。ご丁寧にマズルガードまで着けられているのは、件の「駄犬」の飼い主だからか実際に噛み付いてくるからか。

 「…………ぅ、」

 呻き声。薬が切れる頃か。

 それの状態を確認していた私を含め、機器を用意していた同僚や、設備の調整をしていた同僚が様子を見ようと一切の手を止める。いや、私としては、同僚たちには準備を進めていて欲しいのだが。

 「お早うございます。調子はいかがですか」

 目蓋がふるえ、ゆっくりと開かれる。と同時に顔も上げられる。傷や血に汚れてなお分かる、綺麗な顔だ。マズルガードを外しながら薄く開いた口へ水差しを差し入れ傾ける。もちろん良い子になれるお薬入りだ。

 「……っ、――げほっ、ごほっ、」

 水分が気管に入ったのか、咳き込む口元から水差しが外れてびしゃびしゃと衣服が濡れた。

 「お早うございます。調子はいかがですか?」

 ガタガタと椅子を揺らすそれに、再度同じ言葉をかける。

 「……悪くはない」

 一、二度、最後に咳き込んで一息吐く。ポタポタと口元から水を垂らしながらも真っ直ぐにこちらを見る目は力強い。掠れながらも芯のある声には羨ましさすら感じる。その声が紡いだ言葉もまた、強いものだ。

 私は内心驚嘆した。

 「そうですか。それは何より。では、本題に入りましょうか、ハンドラー・ウォルター」

 同時に、胸が高鳴った。この仕事で、久しく感じていなかった感覚。これほど芯のある人間を再教育――企業に都合の良い人材にする。私たちの手で壊す。なんて酷い話だ。なんて醜い話だ。なんて――甘美な話だろう。

 準備できました。同僚の声がする。きっとその時、私は笑っていた。

 「ぅ゛――ア゛、ッ、ア゛ア゛ア゛!゛!゛」

 絶叫。

 ガクガクと椅子が揺れる。

 ヘッドギアに覆われた顔の上半分。何を見ているのか聞いているのか、正直私たちには分からない。だが耳深くまで挿し込む端子のついたヘッドギアは、着けられるだけで負荷がかかるだろうことは想像に難くない。

 「ッア゛、ぃぎッ、ひっ――、ッ、ハッ、ァ゛」

 ポタリポタリと鼻血が落ちていく。機器に表示される波形や数値も跳ね上がったまま。なかなか落ち着かない。

 「早く「良い子」になった方が良いですよ。その方が楽でしょう?」

 「ヒッ……、ぐッ、う、っ……、」

 ヘッドギア越しを声をかけると、大袈裟なくらいにハンドラー・ウォルターの肩が跳ねた。おそらく外部からの声や音が脳に直接響くのだろう。項垂れる。ヘッドギアのバイザーが翳り、その中がチラと覗いた。

 その、時に。私は自分の口角が上がるのを感じた。

 うつくしい目だった。

 まだ生きている。意志を持った瞳。

 このヘッドギアを用いる「再教育」は終盤も終盤、ほぼ「再教育」が有効でないと認められた者たちに施される、謂わば最終手段のようなものだからだ。

 当然、それまでに「再教育」の過程を施された者の方が消耗し、この行程で「再教育」完了となることは多いだろう。実際にこれで落ちなかった者は殆どいない。その点、ハンドラー・ウォルターは実働部隊による「説得」しか経ていないようなもののため、体力や精神力には比較的猶予があると考えられる。だが、そもそもとしてハンドラー・ウォルターはよくここに送られてくるような戦闘員ではない。心身の地力が、違うはずなのだ。

 それなのに耐えている。

 耐えて、こちらをしっかりと見ている。

 「……なるほど、興味深(おもしろ)い。薬を、少し足してみましょうか」

 私の言葉に同僚が動く。おそらく同僚もそのつもりだったのだろう。新たに用意された点滴が椅子の傍に運ばれてくる。

 ハンドラー・ウォルターの首元に刺さっている点滴は、現時点ではひとつ。通常濃度の薬の点滴。ひとつめのすぐ下に、ふたつめの針を挿し入れる。

 「――ッ!? は゛っ゛、あ゛ッ゛……!?」

 きれいな目が丸くなり、そしてぎゅうと瞑られる。左手が肘おきに、指先が白くなる力で縋っていた。

 「ッァ、ぐ、ぅ゛、――ァ、ッ、」

 かひゅ、と喉が鳴り、はくはくと音に成らない悲鳴を上げる。舌の浮いた口の端から、タラリと唾液が溢れてこぼれた。

 ふたつめの点滴は通常の3倍の濃度だ。少なくとも、常人に使って良い代物ではない。

 「ぉ゛――、ひ、ぃ゛っ゛!゛ あっ、あ゛っ゛!゛!゛ ぎ、い゛、ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!゛」

 「まったく……あなた、第2隊長閣下に何をしたんですか? 指示内容が「再教育」とは思えませんが」

 「うああ゛あ゛っ゛!゛ がッ、あ゛、あ゛あ゛っ゛!゛」

 再教育とは名ばかりの、人格と尊厳の破壊を目的にしたって過剰に思える「躾」の指示書を眺めながらヘッドギアへ手を置く。するとその接触も辛いのか、ガクガクとハンドラー・ウォルターの身体が跳ね回った。頭の中を直接触られたようなものなのだろうか。私には経験が無いので分からない。機器の数値は表示限界近くにまで達していた。

 「……止めろ」

 目的は「再教育」であって殺すことではない。私はヘッドギアの停止を指示した。稼働していた機械のモーター音が沈黙し、ハンドラー・ウォルターの声も徐々に小さくなっていった。

 完全に機器が停まり、機熱も冷めてからヘッドギアに手を掛ける。ずぽ、とハンドラー・ウォルターの頭部から外したそれには血液やら涙やらの液体が付着していた。清掃に回すため、ケーブルも全て外して台へ置く。

 うつむき、ふるふると肩を震わせているハンドラー・ウォルターに今度はヘッドホンを着ける。これはただの聴覚補佐装置である。

 「ウォルター。あなたの使命は何ですか? あなたが従うべきは誰ですか?」

 優しく、子供に訊くように「出題」する。

 「…………。……俺の、使命、は…………、……少なくとも、おまえ、たちとは……、相、容れ、ない」

 だが返ってきた「答え」は、やはり私たちが求めるものではなかった。

 「おれ、が、したがう……の、も、おまえ……、たち、で、は……ない、」

 ヘッドホンを着けた頭部は疲れきり、面を上げる余力も無いらしい。しかしこちらを、確かに見上げるその目は――結膜下出血を起こしているのだろう――赤く塗れながらも、光を未だ宿していた。

 ハンドラー・ウォルターが「再教育」され始めてから、数日が経った。経過は良好とは言えない。鎮静剤を打たずとも各機器や装置に接続できるようになったのは進歩だろうが、その程度だ。私たちからすれば悪い意味で予想外が過ぎる。何度あのヘッドギアを被せても折れない様は「再教育」ではなく「研究」の対象にすべきだろう。

 だが私たちの意見など蟻の足音に過ぎない。収容対象と共に送られてきた「指示書」こそがすべてだ。ハンドラー・ウォルターを企業の狗にする。端的に言えばそれが私たちの目的にして仕事。それ以外は些事だ。同時期に旧世代型の強化人間――件の「駄犬」――も運ばれて来ていたが、あちらはこちらほどの騒ぎにはなっていない。あちらの方が扱い慣れた素材であるためだろう。確認した指示書も、こちらと比べれば簡素で簡単なものだった。

 あまりに進捗が芳しくないため、先日遂にハンドラー・ウォルターへ調整を伴う強化手術を施した。安全を考慮し、最新の設備を用いた。だがその術式内容は、旧世代のものだった。

 対象が眠っている間に麻酔を投与し、その身体に「コア」と成れるための接続端子穴や配線を埋め込んだ。再教育機器との互換性を持つ受容器も埋め込んだため、機器からの効果をより期待できるようにもなった。だが調整の方は――正直不安が拭えない。今まで「再教育」に耐えてきたハンドラー・ウォルターが、こんな易しい手術ひとつで躾られてくれるだろうか、と。

 「……あなたがどれだけ高度な施術を用いていたのか、大変気になりますよ」

 手術台の上。薬で意識を朦朧とさせているハンドラー・ウォルターへ手持ち無沙汰に声をかける。

 「あなたに飼われた強化人間たちが、どうしてあれほどあなたに懐くのか……ねぇ「ハンドラー」、教えてください。犬たちを使うために、どんな術式を用いたのですか?」

 答えは返ってこない。当然だろう。ゆらゆらと焦点の定まらない目は天井を映している。

 私は指示書に従い、追加の薬を投与した。

 騒ぎが起きたのは、それから更に数日が経った頃だった。

 その日はヴェスパー部隊の第2隊長閣下が視察に訪れる日だった。

 とは言え、私たちの仕事に変わりはない。視察隊の案内は他の職員がするためだ。私たちはその日もハンドラー・ウォルターに対する「再教育」を行っていた。

 ACのコアを簡易再現した装置にハンドラー・ウォルターを固定する。正直なところ、これは形式的なものだ。強化手術自体が「調整」を主目的に置かれたものだったのだから。それに、どれだけ実働部隊を手こずらせようと堅固な意志を持とうと、戦闘技能があるか否かは別の話だ。半ば引き摺られるようにして装置に詰め込まれた身体が、手順通りに接続されていく。

 やはりその技能検証も名ばかりのものであり、初心者かつ高齢者には負荷のかかり過ぎるプログラムとなっていた。

 敵機数。その動き。自機の残弾数と被弾状態。そもそも慣れない操縦。

 連日の「再教育」で消耗した脳には処理しきれない情報量だ。現にモニターには、早々に対応しきれなくなりただの的となっているハンドラー・ウォルターが映されている。リアリティを求めた装置はその音や衝撃も使用者に伝える。時折ビクリと跳ねる身体は、撃たれているのだろうか。斬られているのだろうか。何度目かの「再検証」から出始めた鼻血を拭うこともできず、ハンドラー・ウォルターはコアの簡易再現装置に繋がれていた。

 一通り「検証」が終わり、映像出力用のバイザーをハンドラー・ウォルターから外した頃、遂に私たちの仕事場に視察隊が訪れた。

 カツリコツリと無機質な足音を複数引き連れて、我らが第2隊長閣下が現れる。

 「お疲れ様です、スネイル閣下」

 慣れない敬礼をすると「お気遣いなく」と返された。形式よりも実績を求められていると思った。だがそれは当然のことだった。私たちはアーキバスコーポレーションの社員。成果を求められる、選ばれた人材。

 「進捗はどうです? 弾除け程度には使えそうですか」

 「そうですね。弾除け程度には。飼い犬のシールドに括り付けてやりますか」

 「それも良いかもしれませんね」

 数刻前まで行っていた「再教育」を記録した書類を第2隊長閣下に渡し、確認してもらう。そのついでに――つい同僚たちとやり取りする時の癖が出てしまったのだ――ハンドラー・ウォルターの飼い犬について訊いてみた。

 「犬の方はどうですか。やはり手が焼けていますか」

 「さて……私は担当の職員ではないので詳しくは知りませんが……「何もかも右から左で「教育」する甲斐がない」とは聞きましたよ。どうやら覚えが悪いらしい。内容を理解しているかも怪しいのではないですか? 所詮犬畜生ですから仕方のないことでしょうが」

 私が手渡した書類に目を落としながら閣下はそう教えてくれた。どうやらあちらは随分のんびり平和らしい。まあ確かに、所詮旧世代型の強化人間だ。それも飼い主の指示で動く「犬」。大人しくはあるだろう。

 それに比べて――。

 「ほう? 随分と……強情なようですね、飼い主の方は」

 閣下が皮肉げに笑う。

 紙面の文字を追い終えて、コアの簡易再現装置――そこに置かれたハンドラー・ウォルターを見上げる目は愉悦と憎悪に歪んでいた。

 カッ、と音を立てて閣下が装置に足をかける。ハンドラー・ウォルターの場所まで登るつもりなのだ。

 さすが前線勤務と言うべきか、閣下はスルスルと難なく装置を登っていった。私たちは装置の周囲に設けられた足場を伝い、その背を追う。

 「実際に会うのは初めてですかね」

 気絶しているらしいハンドラー・ウォルターの頬を閣下の手が軽く張る。ぐったりと脱力した頭部が――たとえそれがその頬を張ったものだとしても――頬に触れる手のひらへ凭れる様は日だまりのようだった。

 だがそんなものは。この場においては幻覚以外の何ものでもない。

 「…………ぅ、」

 小さな呻き声。閉じられていた目蓋がふるえ、その中に潤んだ瞳が覗く。

 「はじめまして、ハンドラー・ウォルター。ヴェスパー部隊第2隊長、スネイルです。ご機嫌はいかがです?」

 ハンドラー・ウォルターの覚醒を待たず、閣下は挨拶をした。頬に添えられていた手は、今や顎を固定している。真正面から、今自分が誰と対しているのか、分からせている。

 「……、ヴェスパー、第2隊長……スネイル…………、お目にかかれて、光栄だ」

 だがハンドラー・ウォルターは、やはり強情だった。まだ意識も視界も醒めきっていないだろうに、閣下に対して口角を上げたのだ。笑ったのだ、この状況と状態で。

 ヒク、と閣下の口元が引き攣ったのが分かった。

 「――お元気そうで何よりです。随分と、我々企業を虚仮にしてくれましたね。あれほど取り立ててやったと言うのに」

 「ふっ、フ……、俺たちは、独立……傭兵、だ……。おまえたち、の……、もの、ではない、」

 ビチャ、と水音がした。それが最初なんの音なのか、私たちは分からなかった。目の前の光景に対して理解が遅れたのだ。

 スネイル第2隊長閣下の頬に、血が付いていた。

 それが、ハンドラー・ウォルターが意図的に吐いたものだと理解するのに数秒を要した。

 「きぎょうの……、ましてや、おまえたちの、いぬ……、など、ねがいさげ、だ」

 「――ッ! ッ!!」

 固まっている閣下にそう言うが早いか、今まで散々「教育」されていたとは思えない力強さでもって顎を捕らえていた手を振り払い――その手に噛み付いた。

 「こッッッの!!!」

 ほとんど反射的に閣下がハンドラー・ウォルターを殴り付けた。その口元から手が離れる。

 その手を、ハンドラー・ウォルターは噛み千切るつもりだったのだろう。閣下の手元にはくっきりと赤い血の滲む歯形が残っていた。

 「駄犬の飼い主が駄犬? はっ……悪い冗談だ……!」

 ハンドラー・ウォルターの頭部や頸部に挿されていたケーブルを引っ掴み、力任せに抜き取る。ブツッブツッと私たちにまで「接続」の切れる音が聞こえた。

 ハンドラー・ウォルターの首を掴んだ閣下が装置を降りていく。ガンガンとそこかしこにぶつかる身体への配慮など、あるはずもない。首を絞める閣下の手に抗議するハンドラー・ウォルターの手はあまりにひ弱に見えた。

 ズダン、とコアの再現装置から引き摺り出した身体をうつ伏せにして地面へ叩き付ける。そしてそのまま腰の辺りに陣取り、ハンドラー・ウォルターの後頭部を足で押さえ付けた閣下は、自由になった両手で使い捨てのパイロットスーツの背部を開き始めた。

 「「首輪」の接続はどの程度までしてありますか?」

 「頸部の血管までです。脊椎マーキングはしてあります」

 「結構」

 閣下の言わんとすることを察し、私たちは機器や薬品の準備を始める。にわかに場が騒がしくなる。万全を期すとすれば――もう少し、人数が要るか。私は連絡機に手を伸ばした。

 「首輪」の形状は幾つかある。薄い板状のものだったり、縦型だったりだ。基本的に術式により決められるが、状況によっては被術者が希望するものを選べる。そんな中でハンドラー・ウォルターに着けられたものは、施された旧い術式に見合う、最も無骨で堅牢な、正しく首輪と呼べる鉄の輪だった。360度どこにでも接続端子の穴が増設でき、その強度もしっかりとしたものになる。

 そして、今回閣下の意向により、新たに用意されたものは背骨――脊椎を第一頸椎から第五腰椎まで覆える長さの機具だ。当然、首輪と併せて使うことができる。

 「髄核まで挿します。暴れないよう押さえていてもらっていいですか。……ああそうだ。どうせ耳障りに鳴くでしょうから、猿轡を噛ませておいてください」

 淡々と首輪の穴と機具の突起を合わせながら閣下を言う。麻酔の使用を確認すれば、鼻で笑われた。私は閣下の下で藻掻いているハンドラー・ウォルターに同情した。

 「ぅ゛う゛!゛ ん゛う゛う゛!゛!゛」

 マーキングされた脊椎ひとつひとつに機具の突起を合わせていく。挿入位置がズレないよう、職員に四方八方から押さえ付けられた背中は薄らと汗ばんでいた。

 「固定装置調整完了。使用できます」

 「よろしい。では固定を」

 プレス機のような、機具を人体に押し込み固定するための機械がハンドラー・ウォルターを見下ろす。本来なら施術台の上で施される処置を、冷たく硬い床の上で執り行われる。どうなるのだろう。私は純粋に結果が気になった。

 閣下が機具を固定装置にセットしてハンドラー・ウォルターの背中から退く。装置の制御盤の前に立つ職員が、私たちの方を見てひとつ頷いた。

 「開始」

 職員たちが、手を離す。

 「ふ゛――ッ゛、う゛、ん゛ん゛ー゛ー゛ー゛ッ゛ッ゛ッ゛」

 バツンッ、と音――と言うには生ぬるい、衝撃が部屋に響いた。ハンドラー・ウォルターの指先がガリガリと床を掻いている。

 「腰部の接続拡張ユニットは」

 「こちらに」

 だが「処置」はまだ終わらない。姿勢と接続の安定をより強くするための腰部ユニットの設置がある。第三腰椎に挿入された端子は、実質この部品のためのものとなる。

 固定装置が鈍く重い音を立てて浮き上がる。その下から、背骨を金属の板で覆われた背中が現れた。

 同僚から腰部ユニットを受け取った閣下は何の躊躇もなく第三腰椎端子にそれを宛がう。そして、ぐ、と押し込んだ。

 「っ゛~゛~゛~゛!゛」

 きっとその手には金属の端子が人肉に潜り込む感触が伝ったことだろう。

 ハンドラー・ウォルターの身体が一度強張り、そして脱力した。ようやっと気絶できたらしい。一通りの「処置」を終えた閣下の方も、大きな溜め息を吐いていた。

 「……。接続機能の確認ができたらコレはファクトリーへ送りなさい。機能の確認にはコーラルの使用を。社の薬品はもう良いでしょう」

 同僚の差し出したハンカチで頬を拭い、手も拭って閣下は次なる指示を出す。

 私たちの仕事は、ようやく終わりを見せた。

+++

さみしい夜に会いたい

 椎部接続器の動作確認にコーラルを用いたのは、この「コア」を載せる予定の機体がコーラル技術を用いて作られたかららしい。コーラル濃度の高いコアを載せたら機体にどんな影響があるのか、とか、そういうデータが欲しいのだ。だからと言って対象をコーラル漬けにするのは極端ではないかと思うが、自分のような末端には詮無きことだ。

 モノと共に送られてきた書類を読んだ僕は裁断機に載せられた将来の「コア」を見る。大人しいものだ。ここ(ファクトリー)へ運ばれてきた時も裁断機に載せられた時も、自発的に動いた場面を見たことがない。否――動けない、と言う方が正しいのかもしれない。

 ここへ来る直前まで、頭部も含めた、身体に開けられた接続用の穴という穴からコーラルを投与されていたと書類にはある。自我があるかすら怪しいのではないだろうか。それがなくとも、身体に大きな金属板を括り付けられているのだ。動くことが億劫になったとて、なんらおかしくない。マズルガードなど、本当に必要なのだろうか。

 「……はぁ」

 久々に見る徹底的な「再教育」の産物に、久々に憐憫を覚えつつ仕事にかかる。思わず溜め息が出た。

 裁断機のレバーに手を掛ける。このレバーを引けば「ハンドラー・ウォルター」の左腕はその胴体から離れていく。右腕は既にない。どこで落としてきたのだろう。少し気になった。

 「――ァ、……、」

 キシ、と裁断機の刃が肌に当たる直前。それの声、が。聞こえた気がした。

 ガシュン、と刃が滑る。

 同時に、待機していた同僚たちが止血に入る。静かなものだ。

 止血作業が終われば、仕事の再開だ。今回で腕一本と脚二本、すべてを落としてしまう予定となっている。工程表を見たときは性急過ぎないかと思ったが、まあ、裁断後の処理を考えれば纏めて作業した方が良いのだろう。

 血のにおいが漂う中を、ガロガロと裁断機を動かして次の対象にセッティングする。右足の付け根。

 ガシュン。

 作業は機械的に進む。

 白いガーゼと包帯に包まれた切断面がふたつ。切り落とした腕と足はまとめて処理するために箱に避けてある。そう言えば腕や脚に施術の跡があまり見られない。元から切り落とす予定だったのだろうか。

 ガロガロと裁断機を転がして、最後の左足側へ向かう。そうして移動したときに、ボソボソと何か声が聞こえた。

 「……に、……ち、」

 「?」

 それまで静かだった分、興味がそそられた。

 「ろく……に…………ぃち……」

 「621?」

 マズルガードに覆われた口元で耳を澄ますと、不思議な数字の羅列が聞こえた。報告した方が良いだろうか。チラリと周りを見る。けれど同僚たちは自分の仕事(でばん)を静かに待っていた。そうだ、いま自分がすべき仕事は、他にある。報告は後でいい。

 621、と言う数字を書類の端にメモをして、裁断機を左足の付け根に合わせる。

 セッティングを終えて、ふと、それの顔に目が行った。ぼんやりと焦点の合っていない目と目が合う。けれどその瞬間たしかに「見ている」と思った。見ている。見られている。存在を、認識されている。ヒュ、と喉が引き攣った。

 ガシュンッ。

 「――ッ!」

 四肢を失った身体が身悶えた。

 同僚たちがまた止血に動く。が、何やら今までと違いザワザワと騒がしさが広がっている。

 「押さえろ、ガーゼがズレる」

 「鎮静剤を持ってこい」

 「いや、コーラルで良い」

 「マズルガードは外すなよ。噛み付かれるぞ」

 どうやらそれが暴れているらしい。四肢を失ったとはいえ強化手術を施された身だ。力は人並み以上だろう。

 同僚たちの声に紛れて、唸り声が聞こえた。

 痛い――のだろうか。

 それまで無反応だったから、感覚は既に鈍るか失われるかしているものだと思っていた。それなのに。

 突然指先が震えだした。

 今さらなんだ。これまでにだって、意識のある奴らの身体を切り落としてきただろう。啜り泣く奴。泣き喚く奴。狂って笑い続ける奴。今さらなんだ。なんで今になって気にする。

 脂汗が吹き出してくる。身体の芯が冷えていくのが分かる。膝がわらいはじめた。

 「スタンバトン!」

 バヂィッと電撃音が聞こえたのと同時に、込み上げてきた吐き気に僕はその場にしゃがみこんだ。

 四肢を切り落としたそのままでは足りない。しっかりと「接続」できるようにソケットを着けなければならないのだ。

 三肢と右腕の断面を切り落とされた翌々日。施術台の上――もとい、施術棚にハンドラー・ウォルターは掛けられていた。今回の手術は対象を横たえるより立たせた方がやりやすいためだ。一昨日から体調不良で休んでいる同僚の代わりに、俺は対象の状態を確認する。

 呼吸器良し。内容は酸素と麻酔で相違ない。

 点滴良し。内容はコーラル。首周りに複数本伸びるそれを一本ずつ確認して異常無しと判断する。

 支柱良し。第三腰椎端子との接触は良好。左右の腹部を支えるように咥えさせた支柱も床にしっかりと固定されている。

 施術はいつでも始められるだろう。

 俺の仕事は観察と記録。施術中にできることは特にない。

 カチャカチャ、クチュクチュと施術道具が肉を捏ね繰り回す音が部屋に落ちる。通常メスや鉗子などの医療機具が並べられる台の上にはケーブルやソケットと言った、整備工場で見るような物品が並んでいる。

 断面にナットのような部品を嵌め、固定する。そこにグチュリとAC機からのケーブルを受け入れるためのソケットを埋め込む。腕――肩部は各ひとつ。脚部には、各みっつ。

 生体パーツ。

 その言葉が相応しい有り様だ。

 これで術後丁重に扱われるならばまだ救いもあっただろうが、どうやらこの「コア」は初陣として死地に放り込まれる予定らしい。ここまでの処置をしておきながら、だ。まあ、生還すればそのまま使い続けるのだろうが、書類を見る限り、提案した人物はその気が無さすぎる。

 目的はコーラル獲得と研究のため。敵勢勢力――特に独立傭兵レイヴン(これの飼い犬)の排除もしくは弱体化。手段及び使用機体は技研都市より発見接収した未知のAC機体。そう言えばその機体と共に接収された武器や内装のデータを見せてもらった。NGI、WLT。そんな名前が付いていた。NGI、は何由来なのか知らないが、WLTはこのコアと何かしら関連があるのではないかと思わないこともない。WLT。ウォルター。偶然だろうか。

 何人もの強化人間をACに乗せて使い潰してきたと言うハンドラー・ウォルター。それが今やACに載せられるために身体を弄られている。これも因果応報と言うヤツなのだろうか。

 自分が何をされているか、知らない分かっていないだろうハンドラー・ウォルターを見ながら、俺は今回の報告書の文面を考えていた。

+++

君はいちばんのお気に入り(ル解√if)

 「レイヴン!」

 エアの制止を振り払って621は駆け出していた。大気圏突入により迫る炎へ飛び込んでいく。

 だってハンドラー・ウォルターがいる。そこに。ウォルターがいるのだ。

 もう会えないと思った。最期に立ち会えず、別れの言葉すら言えず――何もかも諦めていた。だから、もう、何を言われることもないだろうと、惑星(ルビコン)を「燃やさない」選択をしたと言っても良いのに。それなのに。

 両手の武器を放り出し、アサルトブーストを全開にし、621は銃を下ろし膝をついたまま停まったウォルターの元へ馳せ参じる。

 ACで武器以外を掴むのは初めてだった。

 適当にウォルターの機体を掴み、不安になり、やはり抱えて、621は迫る炎から脱兎のごとく逃げる。途中、少しでも速度を上げたくて肩の武器を無理矢理外して捨てた。

 背部がジリジリと炙られているのが分かった。けれど、それが何だ。背中だろうが尻だろうが、とっくの昔に火は点いている。それに今の自分はあの時とは違う。違うはずだ。

 「レイヴン! ザイレム内部へ入ってください! 内部ならまだマシなハズです!」

 ザイレムの甲板を駆けている621にエアが提案する。返事をする余裕もなく、621はザイレムの側面に回り、その内部へ機体を滑り込ませる。

 ガタガタと船体が揺れる。外が真っ赤に燃えていた。腕の中の機体も赤い。けれど頭部パーツはやはり暗くなったそのまま、起動する気配がない。投げ出された手足。壁を背に、ずるずると座り込んだ621は、ぎゅうと腕の中の機体を抱き締める。コアに頭部パーツを寄せたとて、何の音も聞こえなかった。

 「……レイヴン、ザイレムが大気圏を抜けました。着水する前に、退避しましょう」

 そこは知らない場所だった。「壁」があった場所の風景と似ていて、けれど「壁」の近くにはなかった大きな水溜まり――湖――がある。人気などもちろん無い。

 フラフラと湖縁に降り立ち、621は腕中の機体を確かめる。良かった、ちゃんとある。

 膝を折り、地面に赤い機体をそっと置き、コアパーツへ手を伸ばす。おそらく、この膨らみのある背部にコアユニットが納められているはずだ。

 ふるえる手を叱咤してコアパーツを掴む。たしか、アサルトアーマーが展開していたとき、背部は上下に開いていたはずだ。境目に指を沿わせ、割り開くように指先を押し込む。パキ、と音がした。閉じているものを無理矢理開けようとしているのだから、当然どこかへその分の負荷がかかる。

 殴って折って壊してしまえば早かった。早かったし、早くした方が良かっただろう。621にはそれができる力も腕もあった。けれどしなかった。中に居るであろうハンドラー・ウォルターが大切だったからだ。

 パーツの外部を抉じ開けて、背部を指先で確かめるようになぞる。どこかにここを開けるためのハンドルがあるはずだ。そうでなければ機体にコアが入らない。

 ――あった。

 指先の振動に意識を尖らせ、同時に視覚器においても手元を睨め付けていた621は目当てのものをようやく見つける。

 621が慌ただしくコアから這い出る。接続の安全な切断も機体のシャットダウンもおざなりだ。自身にまとわりつくケーブルの類いを振り払い、自分の機体伝いに赤い機体へ乗り移る。

 開閉用ハンドルを一度押し込んで回す。それから引き上げれば、プシュー、と蒸気か何かを排出しながら背部パーツが口を開ける。

 すべての機器が沈黙して薄暗い機内。そこを覗き込めば――居た。

 いた、けれど。

 一瞬それが誰なのか、分からなかった。

 頭部を覆うヘッドギア。座ると言うよりも置かれたと言う方が違和感の無い、四肢の、無い、身体。むせ返るような血と、これは、コーラルの、におい。

 胸がひどく軋んだ。

 ふるえる腕を伸ばして、まず、ヘッドギアを取る。目蓋を閉じた男の顔が顕れる。目や鼻や口から血が出ている。けれど表情は穏やかだ。

 どうして。なんで。

 呼吸が詰まる。苦しい。

 プツリ。ブツリ。ガタガタ言うことを聞かない指先でその人の頭や首や背中や腰に挿さっている端子を抜いていく。ぬるりと、先端が何かに濡れたものもあった。

 肩や脚に挿されていたものには少し苦戦した。人工骨のような太さのコネクタが繋がれていたのだ。しかも、脚部はそれが3本1セットがふたつ。

 ぐぅ、と621の喉から変な息が漏れた。目の奥が、なぜかひどく熱くなっていた。

 621にしてみれば十数分。実際の時間にしてみれば数十秒から数分の作業を経て、621は件のコアの両側へ腕を差し入れた。

 ズル……、と「コア」が無抵抗に引きずり出される。四肢を失った、小さな身体。

 アーキバスコーポレーションのパイロットスーツに詰められたそれが何なのか、誰なのか、621は知っている。

 少し前まで戦っていた。声を聞いていた。そして自分が、殺した。

 「――ぁ、あ、あ……、ああ、あああああ!!!」

 ちいさな身体を抱き締めて621が叫んだ。

 それ、もとい、ハンドラー・ウォルターは何も言わない。返さない。答えない。当然だ。もう死んでいるのだから。

 621が殺したのだから。

 「ああ……、ああ、あ、ぅ、ぁ、あ……、」

 621はハンドラー・ウォルターを抱えたまま、その場にぐしゃりと崩れ落ちる。

 どうしてこんなことに。こんなのは知らない。どうして。ハンドラー・ウォルターは杖をついていた。杖をついて歩いていた。それなのに。

 ふと、「再教育センター」から抜け出した時のことを思い出す。監視カメラに潜り込みながらナビゲートしてくれたエアもこぼしていたが、戦闘用施設でないとは言え、随分と手薄だったように思った。収容人数が少なく、人手が割かれていないのだろうか、とも。

 けれど、そうだ、たしか、自分が抜け出した時――スネイルが来ていたとき、何か騒がしくなっていた。エアが好機だと言って、自分もそうだと考えた、あの時。別棟の個室で反抗だとか、緊急処置だとか、何か大掛かりな機具が運ばれていくような音も、聞こえた。

 まさかと思う。

 その時ちょうど、621の指先がハンドラー・ウォルターの背骨の辺りに触れた。ヒ、とその存在に似つかわしくない、怯えの音を621はこぼす。

 ハンドラー・ウォルターのパイロットスーツに指をかける。かけては、暴いては、いけない気がした。もう十分だった。それなのに621は、人間は、暗闇を覗きたがる。

 「――!!」

 剥いだパイロットスーツのその下。見ずとも分かっていた。スーツ越しに触れるだけで十分察した。それなのに、621は、直にその金属の背骨に触れた。

 ぐるりと首元を締める鉄の輪も顕れる。はらりと捲れたパイロットスーツの中、その胸元に、名前なんて優しいものではない、識別番号らしき数字が、焼き入れられている。

 「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!゛!゛!゛」

 ルビコンⅢの空に獣の慟哭が走る。

 ハンドラー・ウォルターを抱き締めて621は哭いた。ちいさなこどものように泣いた。

 ウォルター。ハンドラー、ウォルター。一度音にすれば、もう止まらなかった。

 叫ぶ喉が痛い。けれど胸はもっと痛かった。心臓が見えない手に握り潰されそうだった。いっそ潰れてしまえば良かったかもしれない。しかしそう簡単に「潰れてしまえない」ことは、621自身がよく分かっていた。

 耳元で、エアの啜り泣く音が聞こえる。

 だが生きていかねばならない。

 621は、そして生きていかねばならないことを、同時に理解していた。それがまた悲しくて泣いた。塞き止められていたこころが、濁流となって理性を押し流す。知らなければ良かった。思い出さなければ良かった。取り戻さなければ良かった。あなた(ウォルター)がいれば良かった。

 それは我儘だった。

 彼らの夜明けは、未だ遠い。


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