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【ACⅥ】My Dear Nosferatu

我が親愛なる吸血鬼へ。
人外化パラレル、ハロウィン仕様の21ウォル(狼男21×吸血鬼ウォル)。のつもりです。本当です。CP色も要素も死ぬほど薄いですが。軽度ですが流血・四肢欠損描写があります。

狼男21×吸血鬼ウォル。ハロウィン仕様です。

21ウォル以外も人外化してます。大体エンブレムネタ。

蛇、蜘蛛、獅子虎が割と出張ります。

21ウォル……と言いつつほとんどウォルが出てこない上にCP色も薄いですすみません。

でも21ウォルです(鋼の意思)

軽度の流血・四肢欠損描写があります。

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 月夜。

 その夜の月は青白く肥えていた。

 人々が魔の森と呼ぶ黒い森に住むものたちは月光を浴び、活力に満ち充ちて宴を催した。あるものは友を招いた晩餐会を開き、あるものは喜び勇んで狩りへ飛び出し、あるものは血で血を洗う喧嘩に勤しんだ。

 人間たちには到底理解の及ばない魔境だった。

 だが人間の中には、解らないからこそ知りたい、と考える者たちもいた。調べ、理解し、究め、あわよくばその力を我が物にしようと。

 だから人間たちは罠を張った。

 黒い森の、外側にあたる地域。そこに、人ならざるモノを捕らえるための仕掛けを施す。

 獲物は人の形にごく近く、けれど有する能力は人間のそれを軽く凌駕する人外。その名は遠く国の外まで轟き、しかしその知恵と策略に多くの人間が命を奪われた。

 吸血鬼、ハンドラー・ウォルター。

 それが今回の人間たちの狙う獲物だった。

 森で唯一の吸血鬼。その名が示す通り、他の魔物を使役する異端の存在。人間たちからすれば、興味と好奇を引かれる存在に他ならなかった。

 621の名前は621である。

 時々ムニンと名乗ったりレイヴンと呼ばれたりするが、それが「自分の名前である」と言う自覚はない。621は621だからだ。

 狼男である621は、物心ついたときには人間の研究施設にいた。もしかしたらそこで生まれたのかもしれない。つまり621と言うのは、そこで呼ばれていたものだ。

 そしてその研究施設から621を連れ出してくれたのがウォルターだった。

 その頃にはもうとっくに旧い素材となっていた621は、施設の奥の部屋で死ぬのを待つだけの存在だった。次に部屋の外に出るときは、殺処分のために連れ出されるか、餓えるか衰弱するかで死んだ後だろうと思っていた。

 そんなところにウォルターはやって来た。

 621の押し込められていた部屋の扉が開いて、ふたつの人影が立っていた。ひとつは知っているにおいで、施設の人間だと判った。けれどもうひとつは、知らないにおいだった。

 「よくもまあ、飽きないことだ」

 扉のすぐ側で施設の人間が書類のようなものを片手に何やら喋っている。

 「……まあいい。在庫処分の手間が省ける」

 もうひとつの人影は、杖をついているようだった。

 「最低限の機能以外は死んでいるものと……」

 施設の人間の言葉に621は何の感情も浮かばない。嬉しいだとか悲しいだとか悔しいだとか、そんなものはいつの間にか言葉だけの存在となっていた。

 「御託はいい。引き渡せ」

 そこではじめてもうひとつの人影が声を発した。硬く強張った声だった。

 施設の人間が呆れたように鼻を鳴らす。

 コツ、コツ、と、特徴的な間隔の足音が、ゆっくりと近付いてくる。

 「621。お前に意味を与えてやる」

 視界が翳る。目の前まで知らないにおいが来ていた。そこでようやく621は顔を上げる。

 澄んだ色の目が、621を映していた。

 ――そんな経緯を経て、今621はウォルターと共に暮らしている。

 実のところ、外界で生きていくための知恵と所作と常識を一通り教えられた時点で「好きに生きろ」と言われはしている。ウォルターの元に留まる必要はない、と言い渡されてはいるのだ、既に。

 しかし621は未だウォルターの元で暮らしていた。621が「好きに生きている」結果だった。

 ウォルターは621の選択に戸惑っているようだが、自分が「好きに生きろ」と言った手前、その選択を拒否せず受け入れていた。

 今日も今日とて、621はウォルターのために狩りに出る。昨日は小鹿を獲ったから、今日は子ハルピュイアでも獲ろうか。

 「レイヴン、捻くれリンゴの木が実をつけています。幾つか捥いでいきましょう。ウォルターにジャムを……いえ、パイを作ってもらいましょう!」

 そんなことを考えながら歩いていると、耳元で楽しそうな声がした。

 声の主はウォルターの棲家のもうひとりの同居人、スピリットのエアだ。

 エアは621が施設から引き取られる際についてきた、おそらく施設の何かか、施設の周辺の何かの精神体だった。実体を持たないエアと直接言葉を交わせるのは621だけだが、人形やぬいぐるみに入れば621以外とも意思の疎通ができる。

 おそらくあの施設で施された処置の副作用によるものだろうとウォルターは言っていた。621があの部屋に押し込められる前の時期。施設の施術や処置は、あまり精度や環境が良いものではなかった。

 そしてエアは、今もお気に入りの人形に入り621の肩に乗って、楽しそうに周囲に視線や興味を飛ばしている。

 「ウォルターは人間の街に行っている? ええ、そうですね。でもレイヴン、今日の昼前には帰る予定だと家を出るときにウォルターが言っていたじゃないですか。だからこうしてあなたとふたりで……ウォルターを驚かせるための準備が堂々とできるんですよ?」

 ぽて、と621の頭頂部に乗っかりながらエアが言う。どこか呆れたような声だ。

 「まさか忘れていたのですか? ……そう言えばウォルターが出発する際のあなたは酷く取り乱していましたね……一緒に連れて行ってくれと言わんばかりの…………私もそうだった? そっそんなことは……ないとは言いませんが! レイヴン程では……!」

 ぐるぐるぴぃぴぃと言い合いを始める姿は仲の良い兄妹のようにも見えた。

 そこに、一匹の狼が通りかかる。

 「やあ、戦友。スピリットのお嬢さんも。ふたりとも今日も元気そうで何よりだ。だが、もう少し声を押さえてくれると助かるかな。獲物が逃げてしまう」

 621を戦友と呼ぶこの狼はラスティと言った。以前共に狩りを成功させた縁で、友人と言っても良い関係になっている。

 ラスティも狼男であるが、621のそれとは違う。

 簡単に言えば、正体が違うのだ。621は「狼に姿を変える人間」であるのに対して、ラスティは「人間に姿を変える狼」なのだ。

 どちらも変わらないように思えるが、人外と言うのは種や血を重んじるものが未だに多い。故にそう言ったものたちは621とラスティを明確に区別している。

 「す、すみません」

 「いや、ハハ。こちらこそすまない。フフフッ……。ああ、捻くれリンゴか。良いな。私もいくつかもらっていこう」

 微笑ましさを押さえきれないと言う風に笑いながら、ラスティはリンゴの木を見上げた。

 耳を澄ませば落ち葉を蹴って駆ける何かの足音が聞こえる。確かに621とエアの声は大きかったらしい。

 実際ラスティの狩りの邪魔をしてしまったと察したふたりはシュンと肩を落としながらリンゴの実を捥いでいく。そんなふたりの姿にラスティは「気にするな」とまた笑った。

 「うぅ……ほんとうに申し訳ないです……。あの、本当に良いんでしょうか、リンゴで……今から私が周りを見てきます、何か獲物がいないか」

 「気にしないでくれ、お嬢さん。訪ねる予定の友人はこちらの方が好きそうだしね。共に菓子作りといかせてもらうさ」

 「あなたの言う友人とは「瞳の花人」でしょうか。あのひともお菓子作りをしたりするのですね」

 エアの言う「瞳の花人」とは森の奥まった場所に住んでいる植物人間(プランツヒューマン)のオキーフのことだ。森でも古参の部類に入るオキーフは、特定の植物を通してその場の出来事を見聞きする能力を持っている。瞳の花人と呼ばれる所以だった。

 本体となる植物が雄しべの無い花(バレンフラワー)であるせいか、永く生きているオキーフは草臥れた雰囲気を纏っているが――どうやら彼にも友と言える存在があったらしい。

 「彼は物知りだからね。頼めば教えてくれるし、一緒にやってくれる」

 「そうなんですか」

 「ああ。そうなんだ」

 エアの言葉にラスティは、どこか誇らしげに、しかしこそばゆそうに笑った。

 そんな話をしながらリンゴを捥ぎ、それぞれ分ける。エアが、器用にラスティが首もとに巻いていたスカーフを広げてその上にリンゴを置いて包む。両端を結んで持ち手を作れば、即席の布製バスケットができあがる。

 「驚いたな。こんな使い方もあるのか」

 ラスティが感心したように言う。

 「極東の方にある国ではポピュラーな転用だそうですよ。私が調べた情報とウォルターの言っていた情報は一致していたので、間違いないです」

 「ハンドラー・ウォルターはそんなことにも詳しいのか」

 「なんでも、昔友人にその辺りに縁のある方がいたそうです。それで多少知識があるのだと」

 「なるほど、海越えか……」

 獲物を入れる予定だったバスケットにリンゴと、途中で拾った栗や茸を詰めて、621とエアはラスティと別れて帰路に着く。

 一度棲家へ帰ることにしたのだ。パイ食べたさに奮発してしまい、リンゴが重たくなりすぎた。それでもその重さよりも「これでたくさんパイが食べられる」と言う期待の方が勝っているふたりの足取りは軽い。

 サクサク、ガサガサ、と落ち葉を踏み締め蹴散らしながら621とその肩に乗るエアは薄暗い森を往く。

 そしてそれは森の外と内を隔てる川に立ち寄った時だった。

 ふわりと、人の街の方から、血のにおいがした。

 621の鼻が血のにおいを拾う。それが、知らぬものなら良い。良かった。だが、621が嗅ぎ取ったそれはウォルターのものと、よく似ていた。

 ザァ、と体温が一気に引く感覚。621の変化を感じ取ったエアが「どうしたのか」と621に訊く。

 「ウォルター、の、血の、におい……」

 ふるえる声で答えた621の言葉に、エアが息を呑んだ。

 人間より嗅覚に優れるとは言え、限度がある。例えば街中で誰かが怪我をして、一滴の血が流れても、森に済む獣系の人外たちの鼻にそのにおいが届くことはない。

 だが今は。621の、その鼻は。人の街から漂うウォルターの血のにおいを、確かに拾っていた。

 「――」

 「! 待っ、待ってくださいレイヴン! 私たちがこのまま人間の街へ行くのは危険です! 人間たちに攻撃されてしまいます! 何か策を考えなければ!」

 駆け出そうとする621の耳元でエアが叫ぶ。

 尤もだった。森の住民たちの姿は人を恐れをもたらす。故に人々は森を「魔の森」と呼んでいる。森に暮らしながら人の街へ赴く――赴けるのは、余程の人に化けるのが上手いか、余程容姿が人に近しいものくらいだ。そして621は、この時“なりふり構わず”駆け出そうとしていた。

 「…………っ、レイヴン……!」

 エアの小さな身体では引き留めきれない。だからと言って人形から出てしまえば621に触れることすらできなくなってしまう。

 誰か、とエアが泣きそうになった時だった。

 シュルシュルと背後から伸びてきた糸が、621の身体を締め上げた。

 「!」

 ほんのりと赤みを帯びたその糸に、エアは覚えがあった。エアだけではない。動きを封じられた621も、その糸と糸の主を、知っている。

 「お困りのようだね、ビジター」

 森の奥から声が近付いてくる。カサカサと細い多脚が落ち葉を踏む音。

 「カーラ……!」

 エアが安堵したようにその名を呼んだ。それはこの森に潜む、人の上半身と蜘蛛の身体を持つ女傑の名だった。

 肩に小蜘蛛を乗せたカーラがふたりの側にやって来る。ぐるぐるキュウキュウと落ち着かない621を見て、そしてエアを見た。

 「助かりました、カーラ。ありがとうございます。それであの、私たち助けて欲しいことがあって……」

 「どうやらそのようだね。ビジターがここまで取り乱すとなると、まさかウォルター絡みかい?」

 カーラの言葉にエアは頷く。カーラはひとつ溜め息を吐いて「場所を変えよう」と621を担ぎ上げた。

 カーラの棲家は樹上にある。

 森の中でも5本の指には入る巨木。そこに張り巡らされた蜘蛛の巣がカーラの棲家だ。

 3人が木の根元まで来ると、カーラよりも一回りか二回りほど小さな蜘蛛が木からスルスルと下りてきた。

 「帰ったか、ボス」

 「帰ったよ、チャティ。飲み物を3人分頼む」

 「了解だ、ボス」

 チャティと呼ばれた小蜘蛛は木の根元に置かれた机とテーブルの上から本や小物を退かして、またスルスルと木を上っていく。その姿を優しげな眼でカーラは見送った。そして、621を椅子のひとつに乗せながら真剣な眼でふたりを見た。

 「……なるほど、街の方からウォルターの血のにおいがした、と」

 チャティの淹れてくれたお茶を飲みながら、カーラが眉をひそめる。小さなカップの水面に顔を写しながら、エアが「はい……」と力なく頷いた。

 「あの距離で嗅ぎ取れるとなると相応の怪我を負っているはずです。吸血鬼である以上、そう簡単には死なないと思いますが……その、死ななければ良い、と言うものでもないじゃないですか……」

 「まったくあんたの言う通りだね。ウォルターによく言い聞かせてやってくれ。……で、どうやって街に入るかって話だね」

 「ええ。何とかしてあの街へ侵入してウォルターを探さないと……! 力を貸してください、カーラ」

 ふむ、とカーラが顎に手を遣り、ガサゴソと木の洞(うろ)探り始めた。そして、何かをズルリと取り出した。

 クルリと巻かれた大きな羊皮紙を広げると、そこには人間の街が細い路地の一本まで丁寧に描かれている。見やすいように、カーラが木の幹に地図を貼り付けた。

 「これは……こんなもの、どこから……」

 地図を見上げてエアが言う。カーラが、少し面白くなさそうな顔をした。

 「いけすかない蛇の狩人に少しね。あいつは魔物狩りの狩人として街に出入りしてる。安い買い物ではなかったが……まあ、昔の話さ」

 昔話を切り上げて、カーラは地図の何点かを辿る。

 「街に入る、とは言え目的地の目星は欲しいところだ。ビジター、血のにおいがしてきた方向や方角は分かるかい」

 いくらか落ち着きを取り戻した621はカーラの問いに小さく首をかしげる。何かを思い出し、考えているような様子だ。

 「正確な位置は分からないが、東の方のにおいが濃く感じたように思う……ですか。となると、現場は街の東側でしょうか」

 「東側か……朝方によく日の当たる方角だね。嫌な感じだ。よし……この辺りか」

 カーラが年季の入った羽ペンで地図にぐるりと円を描く。街の東側、なにやら大きな建物が目立つ区画だった。

 「侵入方法にはアテがある。ただ準備に少し時間をもらうことになる」

 良いかい、と訊いてくるカーラにふたりは躊躇なく頷いた。

 カーラの「準備」を待つうちに日が暮れた。

 けれどカーラの作業を側で見ていたふたりは「遅い」とは思わなかった。丁寧で慎重な作業はしかし大がかりで、カーラが小蜘蛛たちと共に組み上げていく時間はむしろ早いものだと理解するのに違和感はなかった。

 そして太陽が地平線に身を隠す頃、待ちわびた声がかけられる。

 「待たせたね。こいつが今回の足だ」

 巨木の横に聳える大きな弩にポンと手を置きカーラが言う。

 「人間……いや、人狼カタパルトか? まあいい。早く乗りな。急ぐんだろう?」

 乗る、とカーラは言ったが、要するに本来石や矢がつがえられる「機」の部分に背を預けろと言うのは、通常危険にも程がある。

 「行きましょうレイヴン」

 だがそれは「通常」の話だ。

 621は何の躊躇もなく“621が乗るために”設けられた板の上に乗る。

 大弩が回り、東を向く。弦の色はほんのりと赤みを帯びてしなやかに柔らかい。空を仰ぐ。カーラの手下の蜘蛛たちが、仰角を稼いでくれている。空には月が出ていた。

 キリキリキリ、と弦が引かれる。機械仕掛けで、これも他の蜘蛛がしてくれているらしい。

 「あまり人間に姿を晒すんじゃあないよ。ウォルターの回収が第一だ。確保したら、合図を送りな。迎えを寄越す」

 発射直前の621とエアにカーラが念を押す。眼は真剣そのものだ。

 「ありがとうございます、カーラ」

 「礼を言うにはまだ早いよ、嬢ちゃん。まったく、ウォルターが世話をかけるね。……あんたたちの幸運を願ってるよ」

 「ボスゥ! そろそろ限界ですよォ!」

 大弩の下から哀れっぽい声がした。カーラが大弩から一歩離れて射出の指示を出す。凛とした声だ。

 けれど――。

 「良い空の旅を! カーラのご友人!」

 「ブルートゥ!? あんたどっから湧いて出た!!」

 621とエアが最後に聞いたのは、やけに物腰柔らかな声とカーラの悲鳴のような怒声だった。

 結果から言えば、621とエアは無事に街に侵入することができた。

 日の落ちた、街の東部区画は静かなものだ。街灯が照らす明るく広い道に着地した621は急いで暗い路地へ入り込み、周囲の様子を伺う。建物に明かりはあるが、道に人影はない。それが何だか不気味だった。

 「……レイヴン、ウォルターの、その、においは辿れそうですか?」

 気遣わしげにエアが言う。621は頷いた。

 すん、と鼻を鳴らす。人間の街は雑多なにおいがした。辿りたいひとつのにおいが、無数のにおいに埋もれてしまう。だがこんなところで、挫けている場合ではない。すんすんと何度も周囲の空気を取り込んで、そこに溶けるにおいを選り分けていく。

 土。草。何かの肉を焼くにおい。ツンとした刺激臭。人間。血のにおい。甘いにおい。火薬のにおい。

 見つけた、と621は掴んだ糸を手繰る。血のにおい。数刻前と比べてかなり薄まってしまっているそれを逃がしてしまわないよう、621は慎重に動き出した。

 路地を抜け、夜の石畳を駆け抜ける。周囲の建物から民家特有の生活音やにおいはしなかった。人間の気配は、あるにはある。まったくの無人と言うわけではないらしい。それでも表札や看板のひとつも出ていない建物に囲まれた道を往くのは気味が悪かった。

 ふたりが辿り着いたのは白く大きな建物だった。カーラの見せてくれた地図に描かれていた建物だろうかとどちらともなく思った。

 「レイヴン、ここなのですね」

 エアの言葉に621は頷く。

 ちょうどその時、建物の扉が開いて白い服を着た人間が出てきた。ふたりは急いで物陰に身を潜める。

 人間は何か箱のようなものを抱えていた。

 扉が開いた時、621は血のにおいが濃くなったことに気付いた。間違いない。

 だが問題は、この大きな建物のどこにウォルターがいるのか、だ。

 一先ずふたりは建物自体に近付くとこにした。出てきた人間が建物の影に消えていくのを注意深く見ながら、建物を囲む高い柵の側へいく。

 「……待ってください、レイヴン」

 柵を掴もうとした621を引き留め、エアが代わりにその手を伸ばした。人形の丸い指先が柵に触れる。

 バチッと音がして、エアの指先が焼け焦げた。息を呑む。

 「間を通り抜けることは出来なさそうですね……別の侵入経路を探しましょう」

 エアが入っているとは言え、ただの人形に痛覚は無い。焼け焦げたお気に入りの人形の指先を下ろして、努めて冷静にエアは言う。

 「? どうかしましたかレイヴ……ありがとうございます。でも大丈夫です。今はウォルターを見つけることが最優先ですから。帰ったら新しいのを作ってもらいますよ」

 少しだけ寂しそうに、けれどそれ以上に嬉しそうにエアは笑った。

 柵が通電していることを知ったふたりは他に侵入できそうな箇所がないか、建物の周りを歩き始める。幸いにも周囲には街路樹が多く植えられていたため、その影から建物を観察することができた。

 そして、外周を歩いていたふたりは柵の手前に荷物の積まれた箇所を見つける。

 それは建物の裏手にあり、人目に付かない場所ではあったけれど、目にすれば違和感を覚える風景だった。他の場所は神経質なまでに整備されているのに、そこにだけ荷物が置かれている。

 よくよく目を凝らしてみると、柵に穴が空いていた。

 何かがぶつかったのか、数本の棒がひしゃげて口をあけている。それはちょうど、犬が一匹潜り抜けられそうなくらいの大きさだった。

 621とエアは顔を見合わせる。他に手は無い、と思った。

 「……けれど、レイヴン。おそらく柵は……。良いのですか? ……そうですね、きっと貴方は止めても止まらない。気を付けてくださいレイヴン。大きな物音がすれば、きっと人間たちが集まって来ます」

 そうして、621は柵の間に身体を押し込み始める。

 バチバチと電気が毛皮を焼く。焦げたにおいが鼻をつく。痛みを堪えるために食い縛った口許から、鋭い牙が覗いた。

 唸り声の中に鼻を鳴らす高い音が混じり始める。微力ながら621の尻を押して手伝うエアも泣きそうになっていた。

 ズッ、と積まれていた荷物が動く。ガタガタとバランスを崩した箱がバラバラに地面へ落ち、軽くなる。一気に621の身体が柵を抜けた。

 散乱した荷物をそのままに、621は一目散に建物の影へ移動する。ジリジリ痛む火傷にブルリと一度身体をふるわせた。

 そして顔を上げると、頭上に隙間の開いた窓があった。

 621が壁に前肢をかけ、エアがその身体を伝って窓の中へ忍び込む。明かりのない室内が無人であることを確認し、窓を大きく開く。窓辺から、エアが621へ合図を送った。

 窓の高さと必要な助走の距離を確認した621が、窓から室内へ入り込む。月下に映える、美しい跳躍だった。

 部屋に入り込むと同時に、外の廊下から近付いてくる足音をひとつ、621の耳は拾う。今度は621がエアへ合図を出して、室内に置かれた棚の影へ身を潜める。その時しゅるりと何か紐のようなものが視界の端を横切ったけれど、それが何なのか確認する時間はなかった。

 ガチャリと扉が開く。入ってきたのはふたり。

 ひとりは外で見た人間と同じような白い服を着ている。621が聞いた足音の主だった。

 そして、もうひとりは、どこか浮世離れしていた。

 足音を立てていないことに加えて、纏う雰囲気が、明らかに常人ではない。得体の知れない男に、ぞわりと身体の毛が逆立った。

 なんだあいつは、とふたりは息を殺す。

 「……あれっ。窓が開いてる……誰だよ最後にこの部屋使ったやつ……」

 「不用心だな。それとも余裕の顕れか?」

 「いやはや、お見苦しいところをすみません……」

 白い人間が奇妙な男の言葉に苦笑する。会話しながらも窓はしっかりと閉じられた。

 先に部屋の中央に置かれたソファの上に座った男の向かいに人間も腰を下ろす。ガサガサと聞こえる乾いた音は、紙の擦れ合う音らしい。

 男がゆるやかな一文字を結ぶ唇を舌で湿らせる。僅かに見えたのは二又に分かれた舌先だった。

 ぱちり、と、男と眼が合う。

 「――!」

 反射的にふたりは物陰に引っ込んだ。引き攣る呼吸を必死に飲み下そうとする。なんだアレは。本当に人間なのか、アレは。まるで首を締め付ける蛇の眼だった。

 「それで、今回の報酬ですが……ヘルハウンドが1頭とハルピュイアの幼体が1匹と言うことですので、この額になります」

 「構わん。ところで――」

 紙面を走ったペンの音が放り投げられる。署名箇所は一ヶ所のようだ。

 男のスプリットタンが再度唇を辿る。

 「血のにおいがするな。それも嗅ぎ慣れないものだ」

 男の言葉にハッとする。そして、人間との会話を聞き漏らさないよう、より耳を澄ませる。

 「……鋭いですね。ええ、実は貴重なサンプルを手に入れましてね。色々と試していたところなんですよ」

 「貴重、か。お前たちがそう評するならそうなんだろうな。……何を捕らえた?」

 「…………。狩人殿は、吸血鬼をご存知ですか?」

 吸血鬼。人間の言葉に621は目を見開いた。やはりここにウォルターはいるのだ。

 「……名前は。この辺りにはもういないだろう? かつての“異端審問”で狩り尽くされたと聞いた」

 「それが、居たんですよ! あの森に生き残りが! 街の商人からそれらしい情報を聞きましてね……真偽を確かめるためにも罠を張ったのです。そうしたら、見事に大当たりでした!」

 間抜けめ。男が鼻で笑った。けれど人間はそれに気付かない。興奮した様子で吸血鬼を捕まえた罠の素晴らしさや、それを作り出した自分たちの素晴らしさを語り続ける。そうかそうか、それはそれは、と男はその熱弁を聞き流していた。

 けれどいい加減うんざりしたのか、男は人間が息継ぎのために言葉を途切れさせたその刹那に口を開いた。

 「その、吸血鬼だが――見られるか?」

 人間の口が止まる。逡巡しているようだ。

 男はにっこりと笑っていた。

 「実物を見られれば、他の地域へ赴いた際に人と間違えず狩れるようになるやもしれん。そうなれば、お前たちの研究とやらも捗る……悪い話ではないと思うのだが?」

 「……そ、そうですね。狩人殿……いえ、スッラさんには大変お世話になっていますし……時間も、ちょうど休憩時間みたいですね。行きましょう」

 半ば気圧されるように人間は首を縦に振った。机上の書類をまとめて立ち上がる。手ぶらで立ち上がる男――スッラを振り返り「こちらです」と廊下の奥を指す。

 ふたりは部屋を出ていく。

 その、直前。

 スッラが621の方を振り返った。

 眼が、間違いなく、合った。

 人間の後に続いてスッラも部屋を出て行こうとする。コツ、と足音がした。

 コツコツ。コツコツ。足音が二人分。

 621は隠れ場所から飛び出す。チャッと固い床に爪が鳴ったけれど、人間は気付いていないようだ。それでも、なるべく足音を立てないように気を付けて621は二人の後を追った。

 長く、固い廊下を歩き階段を昇る。妙な音やにおいがしても考えないようにして、ひたすら目の前の背中を追う。時間のせいか、他の人間と出会さなかったのが幸いと言えた。

 そして辿り着いたのは壁の一面がガラス張りになっている部屋――その前の廊下だった。

 人工的な光に照らされた室内に、ウォルターが、いた。

 「ッ――!」

 エアが、上がりかけた悲鳴を、口を手で押さえて止める。カタカタと小さな人形の身体が震えていた。大きく見開かれた両目からは、出るはずのない涙がこぼれ落ちそうだ。

 「固定具は銀か?」

 室内から眼を離さぬままスッラが訊いた。

 人間は得意気に答える。

 「ええ。試すまでは半信半疑でしたが、確かに銀は吸血鬼に効きます。それとこれは意外だったのですが、再生能力は無いみたいですよ」

 「……四肢で試したようだな」

 「正確には腕1本と脚2本です。もう1本の腕は義手でした。素材は空クジラの骨。年季が入っていましたが、収集家も欲しがる贅沢品ですよ。……腕と脚をね、切り落としたら、灰になって切断部位へ集まり再構築すると予想しました。伝承が概ねそんな内容ですから。でもただ痛がって出血するだけでした。ふふ。痛覚あるんですね、化け物にも。切り落とした部位は解剖や実験に回してちゃんと活用していますよ。……ああそうだスッラさん、もし吸血鬼の身体を切り落とすことがあれば、銀以外の素材でできたものを使われた方が良いです。銀だと直に触れた部分が焼けてしまいますから」

 人間は語り続ける。自分たちの欲を満たすためだけに行った非道を。

 「全身を霧や蝙蝠なんかに変化させるって言うのも、誤情報みたいです。嘘発見器も自白剤も使いましたが、確かに「できない」ようでした。そうそう、自白剤と言えば薬剤耐性なんですがね、自然由来の毒物や刺激物なんかには耐性がそれなりにあるみたいですが、人工物質には耐性が無いみたいで……、安心しましたよ。人間の薬物はまだ獣たちの手に渡っていないようだと言うことも知れたので」

 「そうか」

 もうスッラは一言相槌を打って、人間に好きなだけ喋らせていた。やれ牙の長さや鋭さがどうだとか、血液の色や粘度がどうだとか、人間は熱心に語り続ける。音も景色も背景にして、スッラはジィとガラスの向こうのウォルターを見つめていた。

 スッラの視線の先、ガラスの向こう側にある台の上でウォルターは眠っているようだった。あるいは眠らされているか、気を失っていた。

 四肢はない。人と変わらぬ切断面を晒している。本体のすぐ横には、切り落とされた腕や脚が縦に裂かれ中身を引きずり出されたまま、置かれていた。突き立つ鉗子やメスはハリネズミを思わせる。切り取られた肉片や指先が、何かの液体に浸けられてもいた。

 ぽたり、ぽたり、と未だ乾かぬ血溜まりが台の上から滴り落ち、台の下に置かれたバケツのような容器に溜まっていく。

 周囲の機械から本体へ、何本かの管が伸びて繋がっていた。呼吸器のようなものが口元を覆い、首や胸や腹に管が挿さっている。

 「それと、これも伝承を検証したのですが――やはり、陽光は苦手なようです。見ての通り灰になって消えるだとか、致命的な弱点とまではいきませんが、直射日光に照らされた部位は剣山を強く押し当てられるような痛みを感じるみたいですね。波形や数値の近似値から推測した感覚ですが。ああそう言えば、ストレスか何かで瞳の色が変色していました。アレも面白い反応だった……。そうは思いませんか」

 「そうだな」

 結局――終始上機嫌に口を動かしていた人間がスッラの無表情に気付くことはなかった。

 人間がふと腕時計を見て、休憩時間とやらの終わりが近付いていることに気付き、見学の終わりを告げる。

 スッラは、あっさりと人間と一緒に去っていった。

 あれほど見詰めていたウォルターから視線を外し、振り返りもせずに元来た道を引き返していく。コツコツ。人間の立てる、ひとり分の足音が遠ざかっていった。

 そして入れ替わるように、複数人の足音と話し声が近付いてきた。621は踏み出しかけていた前肢を引っ込めて様子を窺う。スッラと話していた人間と同じような格好の人間たちが、5人ほどやってきた。

 そいつらは労働環境か労働内容か、もしくはウォルターに対する不平不満を吐きながら、ガラスの横にある扉へ職員証を翳す。ピピ、と短い機械音がした。

 瞬間、621は人間たちの前に躍り出た。人の姿だ。手には小さなナイフを持っている。

 まずひとり。殿にいた人間の首を掻き切る。

 ふたりめ。1人目の身体が崩れ落ちきる前に、同じように首を切る。

 さんにんめ。1人目の身体が床に落ちた音でこちらを振り返ったところを、顎下から一突き。

 よにんめ。振り返って室内へ逃げ込もうとしたところを足払い。ナイフは前方へ投げた。転げた人間の身体を素早く辿り、無防備な頸部を掴んで折る。

 さいご。投げつけたナイフに噛みつかれた脹脛を両手で押さえて床を這っている。引き抜かれたナイフが傍に転がっていた。それを拾い上げ、だくだくと溢れて床を汚す人間の赤を辿る。大股二歩で追いついた。人間の肩を掴んでひっくり返す。621を見とめた人間の喉から短く引き攣った悲鳴が漏れた。621は、手にしたナイフを人間の左胸に押し込んだ。

 5人の人間を手早く処理した621は部屋の中のウォルターの元へ駆け寄った。

 痛々しく忌々しい管を、まずはその身体から引き抜こうとして――エアに止められる。

 「待ってくださいレイヴン。機器の電源が…………これで大丈夫です。傷口を拡げないようにゆっくり抜いてください。ここに包帯とガーゼを置いておきますね」

 どうやら機械の電源や出力を見てくれていたらしい。実のところ見知らぬ機械にはあまり強くない621にはありがたすぎるサポートだ。その他にもエアは小さな身体でえっちらおっちらと傷口を保護するための道具を持ってきてくれた。

 エアの冷静な――声や身体が目の前の非道に小さく震えていたけれど――アドバイスのおかげで何とかウォルターを連れ出せるようになった。ウォルターが横たえられていた台の横に置かれた、膿盆(トレイ)やメスの類が乗った台に敷かれていた布を取る。カラン、ガシャン、と台上の物が床に散乱したが構うことはなかった。台の上に敷くにしては質の良い布でウォルターを包んで621は部屋を出ようとする。

 「こんなところまで侵入されるとは……驚きました」

 621とエアが振り返る。部屋の出入り口に、ふたつの人影があった。

 警報の類は鳴っていない。警備室も――遠いはずだ。少なくとも、ここに来るまでにそれらしい部屋は見かけなかった。

 だのに、何故。

 「どうして私がここにいるのか、と言いたげな顔をしていますね」

 「簡単なことです。私の同僚に、まあいわゆる偵察が得意な者がいる、と言うだけです」

 「全員ではありませんが、うちの職員の目は彼女の目でもあります」

 「精度はあまりよくないみたいですけどね」

 人影はふたりとも男だった。そして、同じ姿をしていた。

 同じ顔が交互に喋る。双子なのだろうか。

 何にせよ――分が悪い。実質1対2だ。

 621はウォルターを抱える腕に力を込める。どうする。どうすれば。

 カチャ、と爪先が床に散らばった器具を鳴らした。

 「大人しく投降していただければ、命は取りません」

 「殺してくれと頼み込まれたら、まあそれはその時に考えます」

 コツコツとそいつらは歩いて近付いてくる。1本、2歩。間合いが狭まる。

 そして。

 「ッ!!」

 621が勢いよく床上の器具を踏みつけた。梃子の原理で、重なりあっていた色々な器具が宙に舞う。磨かれた銀色が照明を照り返し、刹那目が眩む。だが目蓋を閉じることも目を細めることもしなかった621は宙に舞う器具の中から数本を選び取る。数にして3本。指の間に取り、相手に投げつける!

 「ぐああっ!」

 それぞれ片目と、顔を庇おうと掲げられた手のひらにメスが突き刺さる。あとの1本は廊下へ飛んでいき――

 「きゃああッ!」

 外に居た誰か、女に突き刺さった。

 621はその一度のチャンスに手を伸ばす。

 今一度ウォルターを強く抱え込み、地を踏む脚に力を込める。男たちを押し退けて、駆け出した。

 「クソッ! ……メーテルリンク!」

 「目が! ペイター! 私の、目が……!」

 「それはこちらも同じです!」

 「せめて残っている方の目で追ってください!」

 どうやら男の方は痛覚も共有しているらしい。すぐには追いかけてくる気配のない3人――あるいはふたり――から、621はできるだけ離れようと脚を動かす。

 長い廊下を走り抜け、階段を飛び下りていく。通り過ぎた部屋からざわめきが広がり、廊下へ顔を出したり飛び出す人間もいた。

 気付けば、けたたましい警報が建物内に鳴り響いていた。

 降りる階段が消える。広い空間に出た。見覚えがある。スッラの後を追っていた際に通った道だ。ぐるりと見回す。廊下。大きな扉。廊下。階段。

 621は大きな扉へ向かって走り出す。鍵がかかっているか否かなど考えなかった。そも、開閉機構を使う気もなかった。ただ走って、勢いをつけて、両開きになるであろう扉の中央へ、肩から突っ込んだ。

 ガラスと木材の砕ける、派手な音がした。

 夜にしては明るい外へ621は転げ出る。転倒しないよう脚を踏ん張った。素早く周りを見回す。前方に、門らしきものが見えた。

 けれど実際には逃げ道がない。街頭の並ぶ明るい道。電気の通った高い柵。侵入するのに使った穴は――ウォルターがいるこの状態では、潜っている途中に全員が捕まりかねない。

 どうする、と思った時だった。

 「私に任せてください」

 エアが人形から抜け出て空へ昇っていく。もうボロボロになってしまっていた人形は地面に落ちる前に崩れて消えてしまった。

 エアのスピリットとしての姿は、赤い粒子のように見える。だがそれも、ごく近しい場所に居てエアとの波長が合った621だから見える姿に過ぎない。ウォルターやカーラは、粒子の欠片すら見えないと言っていた。そこにいるのに認識されない。だからエアは不便であっても形のある容れ物に入り込む。

 けれど今はそれを投げ捨てる。今自分にできること。自分にしかできないこと。そのために。

 エアは空を昇る。

 そして、建物の屋根の上まで昇り詰めて――“大声を張り上げた”。

 真暗い空に、赤い稲妻が走った。

 一拍を置いて、森の方から獣の咆哮が聞こえた。それとほぼ同時にゴロゴロと雷が鳴り始める。静かに晴れていた空に、雲が出始める。

 「――追い付いた!」

 「サンプルを地面に置いて地面に伏せろ!」

 「よくもやってくれましたね」

 「始末書が面倒ですね」

 建物の中や外や周りから武装した人間たちがゾロゾロ現れる。メーテルリンクと言うらしい女と、ペイターと言うらしい男の姿もあった。取り囲まれ、包囲され、360度の逃げ道を塞がれる。

 その時フッと空が翳った。

 その場にいた全員が頭上を仰ぐ。

 「ギャッ――」

 「ぐおっ」

 頭上から飛来した青い影が、武装した人間の何人かを押し潰して621の傍らへ着地した。5足の、獅子とも虎ともつかない生き物が人間たちの目に写る。

 ザア、と雨が降り始めた。

 「ライガーテイル、ミシガン……!」

 エアが驚愕の声で闖入者の正体を呼んだ。それに答えたわけでもないのだろうが、青い影――ミシガンが621の方へ顔を傾けて言う。

 「猟犬。貴様あの柵は飛び越えられるか」

 それは人間からすれば獣の唸り声にしか聞こえない。だが人ならざるものである621やエアには、通じる言葉として聞き取れる。

 「四足、でも、難、しい。裏手の、あな、は、少し、ちいさい」

 621は声量を抑えて答えた。ミシガンの喉がぐぅと鳴る。

 「そうか。仕方ない。……五花海!」

 ミシガンが空に向かって吠える。621の襟を加えて、ミシガンが軽く跳んだ。

 その、直後。ミシガンの声に応えるように空から1本の雷光が柵へ突き刺さった。一拍遅れて音が落ちる。雨に伝播した雷撃に、人間たちが呆気なく黒焦げになった。

 だが全員ではない。みっつほど、立っている影がある。やはりと言うべきか、メーテルリンクとペイターだ。多少ダメージを受けてはいるが、確かにまだ立っている。

 「人工的な魔物か……? まあ、いい。これで柵の電流は止まったはずだ。電気仕掛けの鍵も開いているだろう。復旧する前に早く行け」

 621はこくりと頷く。真っ直ぐに、門へ向かって走り出した。

 当然、逃がすか、と3人が追いかけようとして――ミシガンが立ち塞がる。

 「……1匹で我々を足止めするつもりですか」

 「畜生にも仲間意識のようなものはあるんですね」

 「増援を呼びましょう。逃げた方の追跡をしなければ」

 若者たちの話を聞いてミシガンは笑った。自信があると言うのは良いことだ。

 故に――教訓を得る必要がある。

 轟、と獣の吠える声が夜の街に響いた。

 一方、夜の街を走る621は、大きな竜巻に浚われていた。必死に脚を動かしているところに「そんな速度じゃ夜が明けてしまいますよ」と声が聞こえて、ふいと足元を掬われるように巻き上げられたのだ。

 吹き荒ぶ風は強く冷たく、居心地は至極悪い。だが移動速度は、地を駆けるよりも遥かに速かった。雲間にチラリと見える、魚を伴って空を泳ぐ龍が五花海なのだろう。

 森へ帰りつくとカーラが621たちを出迎えてくれた。森の入り口に621たちを降ろした五花海はまた街の方へと行ってしまった。ミシガンの支援に行ったのだ。

 カーラは621に抱えられたウォルターを見て言葉を失った。だがすぐに「棲家へ」とウォルターを彼自身の棲家へ運ぶように621へ指示を出した。

 斯くして621たちはようやく棲家へ帰り着き、家主の目覚めを待つこととなった。

 傷口の様子はカーラが見てくれた。とは言え、専門ではないので基本的な処置しかできない。そも、森に医療施設と言えるような場所は無いのだ。死ぬものは死に、生き延びるものは生き延びる。それが森のルールだった。だから今回も――ウォルターも、例に漏れず、その命は彼自身に委ねられた。

 1日。2日。時間だけが過ぎていく。

 その間、ウォルターは昏々と眠り続けた。

 ウォルターと長い付き合いのカーラ曰く、吸血鬼は息絶えるその時に初めて灰になるのだと言う。だから、ウォルターは生きている。呼吸を、心音を確認せずとも、その身がかたちを成していれば、まだ生きているのだ。

 けれど621は気が気でなかった。元より日の光を浴びない白い肌は殊更白く、もはや青ざめていると言っても良いほどだった。唇も白く乾いていき、時を経るごとにウォルターの身体が崩れないか、そっと触れて確かめるのが習慣になっていた。人形に入り直したエアもまた、621を気遣いながらもその眼はウォルターに向けられていることが多く、上の空だった。

 ウォルター含め、621たちの面倒は、主にカーラが見てくれた。ミシガンも時々顔を出してくれた。

 そして7日目。

 未だに目蓋を閉じているウォルターに堪らなくなって、621はその唇にそっと自分の唇を重ねた。

 ふるりと、閉じられていた目蓋がふるえた。

 見覚えのない、赤い瞳が621を写す。

 歓喜の声は棲家に響き渡った。

 仮眠を取っていたエアを叩き起こし、棲家の扉を叩こうとしていたカーラを問答無用で引き込んだ。

 「ウォルター! ああ、目が覚めたんですね! ああ……!」

 「っ! ウォルター、ようやくお目覚めかい、この寝坊助め!」

 621のみならず、エアにも飛び付かれるウォルターをカーラは優しく抱擁する。すっかり細く枯れた身体は白く乾いた骨のようだ。ウォルターに食事が必要なことは明らかだった。

 ウォルターから離れる気配のない621とエアに代わり、カーラがウォルターの食事を取りに部屋を出る。目的の氷室まで、然して遠くはない。

 氷室の中には血の詰められたビンが幾つか入れられていた。容器のかたちや大きさが違っているのは、用意したものがそれぞれ違うからだろう。ひとまずカーラは自分が用意したビンを手に取る。こればかりは世話役の特権である。

 カーラがウォルターの部屋へ戻ると、その風景はカーラが部屋を出る前と変わっていなかった。否、困ったようにこちらを見るウォルターだけが違う。

 「良かったじゃないか、慕われて」

 「カーラ、俺は……、」

 笑顔を隠そうともしないカーラにウォルターは何を――何から言えば良いのか決めあぐねているようだった。

 べつに何も言わなくたって良い。

 カーラは手早く小型の水差しへビンの中身を開ける。そして621を退かして――エアの入っている人形は小さいから作業の妨げにならないのだ――ウォルターの背を支えながら水差しを口許へ遣った。

 「ゆっくり飲みな。そう……ゆっくり……」

 こく、こく、とウォルターの喉が動き、水差しの中身が僅かに減る。まったくの錯覚だが、白い花弁に色が滲み広がるように、血を飲むウォルターの肌に血色が戻っていくように見えた。

 翌朝、ウォルターの棲家にそのまま泊まったカーラが郵便受けを確認しに行くと、棲家の扉の前に何かの骨が3本とウォルターの右義手が地面に置かれていた。

 おや、とカーラは目を丸くする。621とエアの話では、ウォルターはこの右義手も含めて全ての腕と脚を人間に奪われたと聞いた。

 地面に置かれたものを拾い上げる。

 確かに義手はぞんざいに扱われたのだろう。欠けて傷付きボロボロになっている。だが、修繕すれば使えそうだ。

 3本の骨は、どうやら蛇の肋骨のようだった。

 その下に敷かれていた紙切れには「破損、加工過多により元の手足は回収不可」と神経質そうな文字が綴られていた。おそらく、回収したところで“元には戻せない”と言う判断もあるのだろう。

 昼になるとミシガンが見舞いに来た。カーラからの「ウォルターが目覚めた」と言う連絡を受け取っての忙しない来訪だった。

 対応に出たカーラへミシガンが渡したのは、果物と血の入ったビンが入れられたバスケットと――月クジラの骨だった。

 「これ……っ、どこでこんなものを」

 立派な月クジラの骨の一部に、カーラが思わず怯む。

 クジラ類の中でも空に住まうクジラたちは希少で強大だ。広い空を回遊する彼らの身の一部など、得ることはおろか、目にすることすら稀であると言うのに。

 「知り合いの空クジラに少しな。まあ、骨を拾いに行っただけだ」

 ついでにこれを、とミシガンは小さなビンもバスケットの中へ載せる。

 「星クジラの脂だ。整備用に」

 「まったく……私が造って当然だと思ってあんたたちは」

 「他にあいつの義肢を造れる顔が浮かばんくてな」

 ミシガンの言葉に肩を竦めたカーラは、けれどこそばゆそうに笑っていた。

 ミシガンと共にウォルターの部屋へ向かう。扉をノックすると、控えめながら返事があった。

 おや、と僅かに目を見開いてふたりは顔を見合わせる。まだ眠っていると思ったのだ。

 静かに扉を開けて部屋に入れば、ベッドの上に横たわったままのウォルターがふたりの方へ顔を向けていた。自力で起き上がる術さえ奪われたその姿に、ふたりの顔が一瞬曇る。

 「朝早いな、ミシガン。昨夜は早寝だったか?」

 ベッドの上からウォルターが囁く。突っ伏して寝ている621とエアを気遣ってのことだ。

 「貴様が朝も夜も遅いだけだ」

 言いながらベッドの側に腰を下ろし自分の額をウォルターの頬に押し付ける。閉じられた目蓋は嬉しそうでいて、祈っているようにも見えた。大きな刃を持つ尾がゆらりと揺れる。

 数秒そうしてから離れると、少し名残惜しげな顔をするウォルターを見ることができた。昔「好きな手触りだ」と言われたことを思い出す。

 「具合はどうだ。吐き気や倦怠感はあるか」

 身体の調子を聞いたところで良くないことは解っている。だがそれでも、聞かずにはいられなかった。せめて少しでも相手の状態を知り、自分にできることを知りたかった。

 「問題ない。……気を遣わなくて良いぞ、ミシガン。手足が無くなったこと以外は何も変わっていない」

 「……目の、色が」

 「そうなのか? そこは自分では見られないから気付かなかった。そう言えば少しものが見にくくなった気がするな」

 存外けろりとしているウォルターに胸を撫で下ろす。身体はともかく、精神まで人間に奪われなくて良かったと。半ば自然と再びウォルターの顔へ頭部を擦り寄せる。ゴロゴロと喉が鳴った。

 曰く、盛られた薬は毒物や刺激物の類いだけだったらしい。身体に害はあるが、精神を汚染するようなものはなかったと。元より、吸血鬼とはそう言った類いの物質を分解するのが得意な体質だ。白痴と化すには到底至らない程度だった。

 「まあ、あのまま続けられていたらどうなっていたか分からないが」

 ウォルターの、陽光に焼かれた赤い目が621とエアを見る。伸ばせる腕があったら、ふたりをそっと撫でていたことだろう。

 「……これから忙しくなるよ」

 ミシガンとは反対側からカーラがウォルターを覗き込む。ウォルターはカーラの言葉の意味がいまいち理解できないようで、怪訝な顔をした。カーラは苦笑する。

 「義手と義足を作って、それに慣れなきゃいけないだろ? 眼鏡も作った方が良いみたいだし――服も仕立てなきゃならないね」

 そこまで言われて、ようやく合点が言ったらしい。

 「ああ――そうか。すまない、世話をかける。義肢の素材はすぐに手配しよう」

 「いんや。それならもう届いてる。縺れ蛇の骨と月クジラの骨さ。それぞれ、あいつと、そこのミシガンから」

 「な、」

 ウォルターが目を丸くした。カーラを見上げ、それからミシガンを見る。

 「あいつがあんたの右義手を回収した。直せば使えるだろう。蛇とクジラ、それぞれの骨で一部位作れるだろう。後は残った端材で一部位。神経の接続用の導体には私の糸を使う。そんな予定だが――どこにどの素材を使って欲しいとかのリクエストはあるかい?」

 「え、ゃ、いや、特には、ない、が……。え、月クジラの骨、と、縺れ蛇の骨……?」

 当然の反応だろう、とカーラは思う。どちらも希少なものだ。それが送り付けられ、あまつさえ将来の自分の手足になると言う。価値を知るものからすれば、垂涎ものの話だ。

 子供のような反応をするウォルターに、とうとうカーラは噴き出した。

 堪えられなくなった笑い声は弾ける萎れザクロのようだ。

 カーラが背を反らして腹を抱えてベッドから一歩後ずさる。朗々とした笑い声が棲家に満ちていく。そして案の定、その声で621とエアは目を覚ました。

 室内に増えている人影に一瞬警戒を見せ――それがカーラとミシガンだと理解すると、今度はふたりに寝姿を見られたことに対して顔を青ざめさせる。

 「うぉ、ウォルター! お客さんが来ているなら起こしてくださいよ! せめて一声かけるとか!」

 エアがウォルターの胸まで登って訴え、そして顔をうずめた。人の身なら耳はもちろん首まで赤くなっていたことだろう。

 「あ、ああ……すまない」

 戸惑いつつ律儀に謝るウォルターの胸元でエアは子犬のように唸る。

 621はと言えば、掛け布団に頭を突っ込んで隠れているつもりのようだった。猟犬形無しの姿にミシガンはペシリと尾で621の脇腹を軽く叩く。ビャッと身体が跳ねて、それからモゾモゾと頭が出てきた。

 「さて。ビジター。お嬢ちゃん。ふたりには重要ミッションの手伝いをしてもらいたい。これはウォルターのためでもある。依頼を受けてくれるかい?」

 目元を拭いながらカーラが621とエアに声をかける。おそらく義肢の製作を手伝わせるのだろう。621の耳がぴくりと動いて、エアがもぞりとカーラを見る。ふたりとも、言葉を発さずとも、意志は十二分に伝わる眼をしていた。

 カーラが満足そうに腕を組んで宣言する。

 「よし。これから忙しくなるよ!」

 ウォルターが新たな四肢を手に入れるまで、あと半年。

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